第2話

 進学先の高校も決まっていた幸せ絶頂期、中学卒業後の春休みの日のことだった。


 真夜中に私の頭の中で血管が切れた。なんの前触れもなかった。

 ICUで目覚めたときには動かなくなっていた左半身。壊れた右側の脳。

 歩けない。座れない。それどころか起き上がれもしない。病院のベッドでみたのは、たった一人で異世界にでも来てしまったかのような非現実と絶望。


 自分の体だなんて信じることもできない。超能力者が念を入れるようにふりしぼった力はどれも虚しく空振りしていく。指の一本だって動かないんだから。


 二重に見える視界。死んだほうがマシだと叫びたくなる頭痛、叫べない口。

 喋るのもできなくなって、うまく飲み込めもしない。

 幼児が混ぜたプリンのような原型を推測できそうにない流動食を口まで運んでもらって、むせながら飲んだ。


 涙だけは健康そのものとでも言いたげに流れていた。


 いつか動けるようになるなんて到底思えなかった。


「……命が助かって、本当によかった」


 母は泣きながらそう言った。

 そうは思えなかったし、今だって思えない。思えるわけがない。

 当たり前だ。もう前の私は、どこにもいないんだから。


 あのときの私は、義務付けられたリハビリをやるしかなかった。やれば改善するし、やらなかったら私がどんどん崩れていく。

 その焦りとか恐怖にただ背中を押されてリハビリに励んだ。

 だから生きたいからなんて前向きな理由でやってない。

 ただがむしゃらに、文字通り、やるしかなかった。


 若さというのはリハビリでの好条件になるらしい。

 半年ちょっとのリハビリで私は歩けるようになって、食べられるようになって、ゆっくりならつかえることなく喋れるようになった。

 でも私は、左が見えない。

 ……いや、左がなくなった。


 左側半側空間無視。

 脳の右側を傷めた私の後遺症だ。左側の視界と注意を失った。

 左手からよく物がすり落ちるのは麻痺ではなくて注意力がないから。

 左側にある障害物に気付かずぶつかるのは日常茶飯事で。

 左から声をかけられたって、どこに人がいるのかわからない。


「じゃあ、これを描いてみましょうか」


 主治医が差し出した、半分のりんごのイラスト。

 力の弱まった左手で紙を抑えながら描いたそれは十分「絵」になっていたのに母は落胆していた。

 本当はまんまるのりんごだったらしい。


 左半分が見えていない。まっぷたつのりんごは、母の目を潤ませた。


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満ち欠ける世界を僕たちは 小粋一栞 @koiking86

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