最後の日

枕木きのこ

最後の日

「おはようございます」

「おはよう」


 改札を抜けてやってきた少年の声で、私は文庫本から視線を上げた。しおりを挟んでバッグにしまい込むと、ひとつ空けて待合席に座り、閉じた両手に白い息を吹き込んでいる少年の横顔を見た。


 おはよう、と挨拶を交わすには、少し遅い時間だ。電光掲示板の横に取り付けられたアナログ時計は十時過ぎを指している。私たちが会うのは、いつもこの時間だった。


 初めて会ったのは、彼がまだ半そでを着ていたころだ。

 その日も私はこの場所に座って文庫本に目を通していた。ただでさえ利用者が少ない十時過ぎのこの無人駅には、向かい側を含めても私ひとりしかおらず、また私もそれを知っていて座っていたから、目で文字を追いつつも改札を抜ける電子音を耳にして、珍しいことがあるものだなと、考えていた。


 視界の端で、少年が座るのを捉える。

 そちらに意識が向いていたわけではないが、何本もやり過ごせていた特急電車の起こす風にあおられて、今更のように本の隙間からしおりが落ちた。それを彼が慌てて拾ってくれる。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


 日差しの強いころで、彼はひさしの陰でなお、眩しそうに目を細めていた。髪は反射して茶色く光り、シャツから伸びた細い腕が少し焼けている。胸元の校章で、このあたりの進学校の生徒だとわかった。

 高校生にしてはずいぶん遅いと思いはしたが、私も人のことを言えるような立場ではなく、妙な詮索や訝しげな視線を読まれないように、礼を言ってそれきり、また元の椅子へと戻った。


 それからしばらく日が経って、またその少年と顔を合わせた。私は平日、大体その時間に駅にいたから、彼のほうのルーティンにたまたま合致したようだった。少年が私を覚えているとは思っていなかったから声を掛けなかったが、それからも何度か顔を合わせるうちに、ついに彼のほうから話しかけてきた。


「横溝ですか?」


 たぶん、勇気が要る声掛けだったのだろうと思いつつも、私がぎょっとして目を見開くと、彼はバツが悪そうに視線をはずした。よく顔を合わせるからと言って、知り合いとは言えない。声を掛けるというそれだけの行為だが、その関係に上がるには思っているよりもステップが必要なのだ。

 ただ、私も、退屈していたのは自覚していて、若干の罪悪感も覚えたから、


「そうです」


 とだけ返事をした。

 彼はそれで容認されたと思ったのか、ぽつぽつと話を続ける。


「前から気になってたんです。しおりを落とされた方ですよね? ——あの時は『白と黒』でしたっけ。毎回見かけるたびに違う表紙になってるなって」

「よく見てますね」私は率直に思って返し、そこでようやく本を閉じた。「読まれるんですか?」

「俺は——、僕は読まないです。父が揃えていて。面白いですか?」


 きちんとおこなった最初の会話は、確か、そう言った内容だった。

 私は自分が「作家シリーズ」や「俳優シリーズ」で括って世の中の作品を見聞きすることを告白すると、少年は楽しそうに笑って共感した。


 電車は一時間に一本しかやってこず、十時台のものにはまだまだ余裕があった。

 私たちはお互いの退屈を食べ合うように口を開いては、徐々に距離を近づけていった。


「あの日も今日も、どうしてこんな時間なの? まだまだ自由登校じゃないでしょう」

 

 数年前の記憶を掘り起こして少年に尋ねると、彼はこめかみあたりの髪をねじねじと弄りながら、


「自主的自由登校中なんですよ」

 と小さく言った。

「どうして?」

 思えば数週を跨いでの疑問をぶつけられたわけだから、私は容易には止まらず、しかし彼のほうもそうなることをわかっているような返答の仕方だったから、すらすらと続けてくれる。

「髪色が。明るいって言われたんです。でも、一回も染めたことないんですよ。地毛なんです」


「ああー。ちょっと前に話題になってたね。駄目なんだ?」

「うちは」おでこを掻いてから前髪を少し掻き上げる。「体制重視なんです」

「進学校?」私はあえて気付いていなかったふりをした。「頭よさそうだもんね」

「そんなことはないです。勉強ができるだけで」

「それを世間では頭がいいって言うんだよ」

 そう言うと少年はまた、ころころと笑った。


 今までとずっと変わらない髪色なのに、照り付ける太陽に反射し茶色く映った彼の髪を、たまたま体育教師が見咎めた。進路指導室に呼ばれ八百字の反省文を書かされたため、少年の勉学への意欲は失われてしまった——という話だった。

 そのエピソードそれ自体がいかにも頭がよさそうだ、と内心では思っていたが、私はあえてそれ以上のいじりをしなかった。嫌そうに見えたからだ。


 やがて電車がやってくると、私たちは同じ乗り物に同乗するのに、それじゃあ、と言って別々の席に座った。お互い、特別に誰かと乗り合わせるわけでもないのにである。おそらく彼の気遣いというか、見栄の部分なのだろうと思った。たいてい、男の子はこういった些末なことを気にして生きている。

 毎回私は彼の後姿を見送る。彼は振り返ることなく、けだるそうにしてホームを歩き去っていく。駅にいる時だけの話し相手で、結局根本的には私たちは他人のままだった。


 連絡先を交換したわけではないし、お互いの名前すら知らないわけだから、示し合わせられるわけもないのだが、私たちはそれから週に一度か二度、駅で顔を合わせて話をした。少年が三年生で受験を控えていること。東京の芸術系の大学へ進学するつもりであること。もちろん、それに伴って上京することなど、私は次第に彼について詳しくなっていった。

 私のことも話した。スクールカウンセラーをしていて、この時間に電車を使うのは朝一の学校から次の学校への移動手段であること。横溝を読み終わって、次に誰のシリーズを開始しようか迷っていること。結婚を控えた恋人がいること。——でもそれらを聞いた彼は、私について詳しくはなっていない。なぜならすべて嘘だからだ。


 大学を卒業して、希望していた企業に就職できた私を待っていたのは、連日のサービス残業と、過度なセクハラだった。ほかに誰もいなくなったオフィスで上司に身体の関係を強要されそうになったこともある。提出した退職願は目の前で破られ、男からも女からも白い目で見られ続けた。

 少年の髪色の話を聞いたとき、「訴えちゃえばいいよ」と軽口を叩くこともできた。でもそうしなかったのは、結局私にはそんなことをする度胸がなかったからだ。周囲からいくら「訴えたら勝てる」「応援する」と言われても、訴訟を起こす気力などとうに失われていた。

 不運だとは思わない。両親は笑顔で「行かなくていい」と言ってくれたし、こうして今なお働きもせず毎日一冊の本を読み終えるまで電車に乗り続けている娘のために、温かいご飯を用意してくれる。そういう他人がいるだけで、私は幸せだと思える。だからそのとき自ら死を選ばなかったのは、偶然だとも言える。


 でも、名前も知らない少年に、そんな後ろ暗いことをわざわざ共有させる理由も必要もない。私は彼よりも、少しだけ大人だ。

 私が彼くらいの年齢の時、従兄の結婚式に招待されたことがあった。割合付き合いをよくしていて、仲が良かったと思っていたけれど、従兄はいつも「恋人なんていないよ」と言って私の頭を撫でてくれる人だった。お互い、それについて恋愛的な感情や、性的な悦びを覚えていることはなかったけれど、私は裏切られた気になって、わざわざ結婚式の場で「うそつき」と、彼の目を見て言った。


「うそつきじゃないよ。俺は大人なだけ。大人っていうのはうそを吐き続けるのがうまい人のことなんだよ」

 しかし彼はそう言って、いつものように私の髪をぐしゃぐしゃにした。

 そのときはその違いなんてわからなかったけれど、今なら少し、理解できる。


 ——年が明けてしばらくして、少年から合格報告を受けた。

 私は小さく拍手をしてあげた。彼は照れて視線をはずしてから、

「よかったらこれ」

 と言って、小包を渡してきた。

「何?」

「拍手してくれたお礼です」

 順番がおかしいことには気づいていたけれど、私はそれを素直に受け取った。

 チョコレートか何かだろうかと開いた中には、本革の手袋が入っていた。

「高かったんじゃない? 受け取れないよ」

「もらってください。返されても渡す人いないですし。このためにバイトしてたんです」

「余計に駄目だよ。お母さんにあげたら喜ぶって。大体、プレゼントを渡すなら私のほうだよ」

「それこそもらえないです。拍手だけでもようやく受け取れるレベルなんですから」


 そう言われて、返答に迷って、妙な間が生まれてしまった。

 それを取り払おうとしてか、すぐに彼が続ける。

「とにかく。これはあげます。僕個人の押し付けなので、もう返却は受け付けません」

「——ありがとう」

 押し問答を続けているうちに、関係自体が妙なものになってしまいそうだったので、私はようやく折れて、改めて小包を受け取った。

 手袋をはめるのはずいぶん久しぶりで、変な気分になったけれど、徐々に手の感覚が寒さの向こうから戻ってくるのがわかった。

「ありがとう」

 だから私はもう一度、お礼を言った。

「こちらこそ、です」

 そして少年は静かにほほ笑んだ。




「——今日もいてくれてよかったです」

 本の代わりに取り出した手袋に視線を注いでいるのがわかった。私はそれを封じるように両手に装着すると、

「引っ越しの日?」

 と言った。

「ええ」

 いつもと変わらない様子で少年は答えて、脇にある小ぶりなキャリーケースをポンと叩く。


「それだけ?」

「残りの物は親に送ってもらいます。ひとまず着るものだけ」

「意外と小さいんだね、引っ越しって」

「意外なのは、必要なものの少なさですよ」


 そう言われて、私は急に少年が旅立つのを実感した。

 うそを吐き続けるのがうまくならなくても、人は大人になるんだと、気づいた。

 そのやり方を、私はずっと知らなかったし、知っていても、たぶん、できなかっただろうと思ってしまった。


「——私もね、ようやく彼と結婚する段取りが付いたの」

「そうなんですね」

 少年は決してこちらに顔を向けないまま、向かいのホームの時刻表を眺めているように見えた。

「それで、来週には私もここを発つことになったの」

「急ですね」

「前にも話したでしょう。彼、このあたりの人じゃないから」もしかしたら、私のような大人のなり方を経た人を「汚い大人」と言うのかもしれない。「お義父さんの体調が崩れちゃったみたいでね、家業を継ぐことになったんだって。それに私もついていくことになった。それで、挨拶回りしちゃおうって」

「じゃあ」


 そこで、少年がこちらを向いた。


「——じゃあ、寂しくないですね」


 少年は「ずるい大人」になっていた。


 仕事もしていない。恋人もいない。日がな一日本を読み続ける。その中でたった一滴落とされた色水が彼だった。寂しいと思わないわけがなかった。

 でも、これから夢に向けて旅立っていく少年に、寂しいと言えるわけも、ないのだ。


「うん。寂しくないよ」

 笑顔を向けると、彼のほうが寂しそうに顔を伏せた。

 私は大人だ。うそを吐き続けなければならない。少なからず、この少年には。


「——よかったです」


 そう言ったとき、電車到着のアナウンスが流れる。いつもよりずっと早く感じる。


「この電車でそのまま空港まで向かいます」

「そっか」

「今までありがとうございました」

「うん。こちらこそ」

「楽しかったなあ。東京でもがんばれそうです」

「よかった」

「ガンガンに髪染めてやりますよ」

「いいね」


 ——黄色い線の内側に——


「じゃあ」

「うん。見送るよ」

「ありがとうございます。お元気で」


 ——電車が発車します——



 去っていった電車の姿が見えなくなってから、私はまた待合席に戻って、文庫本を開いた。

 いつもそうだな、と思っていた。


 いつもそうだ。私は、うそがうまくない。きっと少年は、ほとんどのことに気づいていた。だから素直に見送られたんだ。何も言わず。私に委ねていたんだ。


 でも私は、うそを吐き続けていたかった。

 彼がこの町を、私を思い出すとき。せめてそのときくらいは、きれいな私でいたかった。そうあるべきだとも思っていた。

 だって私たちは、お互いの名前も知らない、他人なんだから。

 きれいな思い出であるべきなんだ。


 でも。

 でも、もういい。


 もう、自分自身にうそを吐き続けるのは、終わり。




 ——文庫本に水滴が落ちる。

 子どもみたいに、空が泣き始めた。

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