『モルフェウスの領域』――医療の敵って
「あのさ葉月、診療時間中は勝手に入ってこないでくれる?」
女は雑誌からちらりと目を上げて言った。葉月は構わず部屋に入り、後ろ手にドアを閉めた。窓のない部屋に、古いソファがひとつ。あとは空っぽの棚がぐるりと壁を覆っている。
「どうせお暇なんでしょう、紅子先生。診療時間だというなら、診察室においでになってはいかがです」
電子カルテを導入して十年ほど。紙のカルテは法律で定められた保管期間も過ぎて、カルテ庫は小さな空き部屋になっていた。そこを、紅子はこっそりと休憩部屋に使っている。
「で、何の用?」
「お借りしていた本を、返しに来ました」
鞄から取りだし、紅子の方に差し出す。
「ああ、これか。『チームバチスタの栄光』のシリーズを読んでると、結構テンション上がるよね」
「ええ、確かに。田口も、オレンジ新棟の佐藤も如月も出てきますからねえ。ジェネラルルージュも、登場はしませんが話題には上がりますし」
「チュッパチャップスね」
「そうそう」
二人は頷き合い、抑えた声で笑い合う。
「それはともかく」
ひとしきり笑って落ち着いたところで、紅子が言う。
「これは、『新薬が認可されるまで冷凍睡眠で病気の進行を止めておく』という、SF小説にはありそうなコールドスリープを扱った小説なんだけどさ、SFっていうよりは、どこか社会派小説っぽい感じがするでしょ?」
「要するに、コールドスリープという特殊な状況を通じて、今の日本の法律や制度のもとで、人というものがどう扱われているのかを描き出している―――ということですね」
紅子は頷く。
「医学は日々進歩しているのよ。新薬だって、どんどん出ている。医療情報技術も進んで、さまざまなデータの蓄積と応用が期待されている。問題は、それらを我々の社会が使いこなせていないこと」
どういうこと、と首を傾げる葉月に、紅子はニヤリと笑ってみせた。
「結局のところ、医療の敵ってのは『健康な他人』なのね」
紅子は煙を吐き出しながら、そんなことを言った。
「今を変える必要がないと思っている、幸せな人たち。そういう人たちが、新しいものを拒んで、それを必要とする人たちをどんどん殺している」
そしてわずかに目を逸らし、口許だけで笑ってみせた。
葉月は、何か言おうとした。
けれども、そのときノックが聞こえて、話はそこまでになった。
「患者さんですけど」
受付の事務員だった。
紅子は面倒くさそうに何か呟きながら、ソファから立ち上がり、部屋を出て行った。
「……コールドスリーパーを何年も見守り続けるってのは、何というか、絵的にロマンチックではありますけどね」
そんなことを独りごちながら、葉月も部屋をあとにした。
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モルフェウスの領域 (角川文庫)
著者 : 海堂尊
KADOKAWA (2013年6月21日発売)
(本稿は2013年11月30日に書かれたものです)
海辺の家の本たち(読書ノート) 佐々木海月 @k_tsukudani
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