(一) 須藤 亜矢 (上)


 殺したくなるほどにムカついた。


 自室のベッドに転がりながら最後の頁をめくり終えた亜矢は、気付けば手元にあった枕を拳で潰していた。


 桃を彷彿とさせるパステルカラーに統一された部屋には似付かわしくない、黒く濁った感情。それを自覚して、胸の奥から湧き上がってくる衝動が喉元につっかえないよう、吐息とともにゆっくり外へ吐き出していく。苛立つ空気が部屋に充満するは嫌だ。思ってベランダの窓を開けると、虫が奏でる秋の音色が潮騒のように鼓膜を揺すった。うるさい――そう感じ、すぐさま布団に包まろうと踵を返し、同時、このやかましさに身を浸していれば感情の矛先が四方八方へ散り散りになる気がした。熱を冷ますには丁度いいかもしれない。しばらくはベランダに出ていようと思い直す。


 夜風に当たり、ぐつぐつと腹の底で煮えたぎる感情を冷ましながら、尻ポケットからスマートフォンを取り出し、ツイッターを開いた。『なりたい自分になど、なれない』。キーワード検索をすると、雪崩れのように読書感想が目に飛び込んでくる。賞賛、絶賛、喝采。あるいは諦念や絶望にも似たもの。小説の出来映えを目の当たりにした読者たちの褒めちぎるような呟きがずらりと並んでいる。なかには、小説はやての新人賞にしては質が良くないだの、著者が若すぎるがゆえに展開がありきたりでチープすぎるだの、貶すような文句もあるが、そういう見苦しい感想は全体数からみればあまりにもちっぽけで、誰にも見向きもされないような匿名アカウントの発するものだった。


 矮小で卑賤な感想を眺めていると、激情が収まっていく。呟こうとしていた罵詈雑言を呑み込み、冷めた感情に上乗せして腹の底へと丁寧に沈めた。こいつらとは違う。こんなアカウントと一緒のはずがない。この衝動は、たった140文字に収まるような、簡単な感情ではあり得ない。簡単に吐き出して、手放してしまえるような代物じゃない。次へ進むために、大事にしなければならない劣情だ。そう信じなければ報われない。新人賞まであと一歩だった。栄光を掴み損ねた。亜矢が伸ばした掌はどこにも届かなかった。天国と地獄の境界線を跨ぐことができなかった。苦しくたって、その悔しさをこんなふうにごまかしてはいけない、のだろう。


 小説はやて文学新人賞――大手出版社の鳳凰文庫が主催する文学賞の一つで、十代後半から二十代前半の若々しい書き手がこぞって投稿することで知られている。そしてまた、ここからデビューした作家の多くが、テレビドラマや映画化するほどに大成することでも。亜矢も、この新人賞を勝ち獲って、小説家として華々しい門出を飾りたいと夢見てきた。


 昨年、亜矢の投稿した作品は最終選考で蹴られた。通っている高校で所属している文芸部の面々にはおおむね好評だった物語には自信があった。けれど、駄目だった。あと一歩が遠くて、届かなかった。新人賞を掠め取ったのは同い年の高校生だった。桜庭かえで。十六歳。高校二年生。文体とペンネームからして、女子だ。


 なにが違ったのだろう。三度読み終えてもわからない。物語のテーマと設定が違うのはあたり前で、スケール感も心情描写の技巧もさして格差があるようとも思えない。むしろ全体を構成するストーリーラインやキャラクター性には自分の作品に歩があるようにさえ感じた。身内びいきをしない文芸部の面々も似たような感想を抱いていたし、実際、最終選考の選評の場でも、数名のプロ作家は「桜庭かえでの作品はキャラクター性が薄くストーリーは既視感もあって単調だ」と指摘していた。


 けれど、選考委員である五名の作家は満場一致で『なりたい自分になど、なれない』を推したのだ。キャラクター性を弱めたのは物語後半に混じってくる読者への問いをより訴えかけやすくするためだったのではないか、という評価までついていた。前半は没入しやすいエンターテインメントに仕立て、物語が進むにつれて読者一人ひとりの内面に問いかける文学に。そのバランスが見事だ、と評されていた。


 いまこうして読み終えてみると、選評者がこぞって絶賛するようなものは認められなかった。問いそのものもありきたりで、小説のなかで主人公が見出す答えもはっきりとしないために爽快さがない。中盤の展開もどこか強引で無理があるようにも読めたせいで、息苦しさもない。完成度だって全体的に中途半端に思えた。自分の作品のほうが完璧だ。どうみても勝っている。


 だから、納得なんかできない。


 ただただ悔しかった。納得できない理由を突きつけられて、負けたことに腹が立った。


 なんでこんな程度の作品が受賞作に選ばれるのだ。自分の作品ほうが優れているじゃないか。選考委員に問い正しかった。どうして。なぜ。どこがいけなかった。わからない。理解できない。消化できるように噛み砕いて教えてほしい。


 懇願するように、秋空へ手を伸ばす。紺碧の絨毯にまぶされた星々の煌めきを掴むように。湧き上がる虚しさをきらきらした光で埋めたい。そう願って、けれど届かない。


 ――なにをやっているんだろう、あたしは。


 いよいよ虚無感がまさってきて、空へ伸ばしていた腕を下ろす。と、そこでスマートフォンを握る手に振動が走った。通話をかけてきた相手をみて、タップしかけた指先が躊躇いがちにくうをさまよう。このまま電話に出てしまえば、間違いなく弱音と愚痴をこぼしてしまう。恋人である津田つだ知貴ともきは弱々しい女々しさを嫌悪しているし、亜矢にしたってへこんでいる姿を見せたくはない。


 応答を急かすような振動を前に逡巡しているうちに振動が止んで、安堵するように溜息をこぼすや否やメッセージを受信する。


『今週の土曜日、どっか出掛けない? そろそろ冬服欲しいし、付き合ってよ』


 アプリを開けば既読になってしまうから、通知欄から覗ける最新のメッセージをみつめて逡巡する。デート。端末に表示されるどこか素っ気ない文字列を脳内でそう変換して、そういえば二学期に入ってから一ヶ月も経つのに二人で終末を過ごした記憶がないことに気付く。


 知貴が所属している部活が忙しく、また、亜矢も文化祭に向けて文芸部の出し物に寄稿する短編の執筆に集中したかったから、九月はどうにもスケジュールの折り合いがつけられなかった。けれどこうして連絡をくれたということは、知貴もようやく休日に一息つける状況になったということだ。この程度の話ならいつでもクラスで共有できるのに、と思うが、彼はこういう性格だった。他人と――特に異性と、校内でべったり寄り添うようなことを避ける。それは部活の特殊性だとか学校での人間関係に配慮しているからと説明はされているけれど、本心はわからない。触れてはいけないような気もして、だから亜矢のほうから踏み込んでみたこともないし、みようとも思わない。


 部屋に戻り、ベットに寝転がって、ゆっくり思考を巡らせる。久しぶりだし、どうしようか。読み終わった小説のせいで気分は晴れないけれど、これは単にタイミングの問題だ。ここのところは白紙と向き合っていても書きたいテーマや物語が浮かばない。気分転換に少し先の季節のことを考えるのは悪くないように思えた。率直に刺激もほしい。創作意欲を掻き立てるような、上質のコンテンツに浸りたい。


「……映画、なにか面白いのやってないかな」

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劣欲に溺れる 辻野深由 @jank

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