第31話 練習の成果

 太一が目を覚ますと、まず目に入ったのは何の変哲もない自室の天井だった。

 視界を左右にずらせば見慣れた部屋の風景が広がっている。


「……夢、だったのか……?」


 感じたあまりにリアルな、身体が雨に濡れた感触や街の空気、漂う湿気った匂いに、脳が夢だと理解できるまで時間が掛かった。


「幼かったときの夢だと思うけど、あれはいつ頃だったかな。――ん?」


 そう独りごちて、ベッドから起き上がろうとした太一を違和感が襲った。

 やけに腹のあたりに重みを感じるのだ。まるで、何かが身体の上に乗っかっているような感覚。ゆっくりと視線だけ下げてみる。


「――!?」

「くぅー、くぅー、くぅー」


 青みがかった艶のある黒髪に、白い制服に包まれた成長途上の幼い容姿。場所が違ったら思わず見惚れていただろう愛らしさ。

 従姉妹の青唯が布団越しに、太一の上で丸くなって寝息を立てていた。その腕にはドラゴンのぬいぐるみ、ファフが大事そうに抱かれている。


「ど、どうして俺の部屋っていうか、俺の上で青唯が寝てるんだ?」


 思いも寄らない状況にこれも夢なのでは、と太一は一瞬疑うが、さすがに起きた先が夢というのはありえない。


「おーい、青唯、起きてくれないか? 兄ちゃん、これじゃあ起きれないぞー?」


 あまり大きな声にならないよう気を付けつつ、青唯に声を掛ける。


「ん、むぅ……。くわぁ……」


 小さく身じろぎして青唯が目を覚ました。可愛いあくびを一つ、目をこすってからキョロキョロと視線を動かす。


「……あ、れ、兄さん?」

「お、おはよう、青唯。ぐっすり眠れたみたいだな」


 太一と目が合ったので、寝ぼけ眼の青唯に朝の挨拶をする。


「――!」


 アニメだったらボンッと、音を立てて煙を上げそうな勢いで、青唯の顔が耳まで赤くなった。

 自分が太一の上で布団越しに馬乗りになっている状態だと気付くと、青唯は顔を真っ赤にしながら、ゆっくりと太一の上から降りる。それから一直線に部屋の扉へと向かった。


「お、おはよう、ございます、兄さん。それと、今のは忘れてください!」


 太一に振り返り、青唯にしては珍しく声を張ると、彼女は部屋から飛び出していった。


「……な、なんだったんだ……?」


 青唯が何故、自分の布団の上で気持ちよさそうに眠っていたのか理解が及ばず、太一はベッドから起き上がると、ポリポリと頭をかいて呟いた。

 城彩高校の制服に着替えてから一階に下りると、すでに朝ご飯がテーブルの上に用意されていた。味噌汁のかぐわしい匂いが鼻孔をくすぐる。


「おはようございます、太一。青唯が一人だけで下りてきたのでどうしたのかと思いましたが、ちゃんと起こしてくれたんですね」


 透き通るように煌めく銀髪を後ろで束ねた湖都奈が、柔和に笑んで挨拶してきた。

 ブラウスにミニスカートとニーソックスを合わせ、その上からフリルがあしらわれたエプロンを付けている。彼女の胸元には白い花エーデルワイスのペンダントが輝いていた。


「おはよう、湖都奈。今日も朝ご飯を作ってもらって悪いな」

「気にしないでください。料理の練習になりますから」


 日向家で湖都奈が一緒に住むようになって三日目の朝。彼女は料理の練習と称し日向家のキッチンに立つようになった。そのときには必ず、背にまで届く長い髪を後ろで束ねて纏めていた。


「今はなんとか人の食える物になったけど、最初はすごかったよな」


 彼女の初めての調理を目撃したとき、太一の受けた衝撃は計り知れない。


「……まさか、黄色だけを合わせにくるとは……。さすがにあれは予想できなかった」

「もう! いいじゃないですかその話は。私もあれから上達したんですから」


 湖都奈が拗ねたように軽く唇を尖らせる。


「悪い、悪い。あのマスタード味噌汁のインパクトが強すぎて」


 初めて彼女に出された味噌汁は、味噌ではなくマスタードが溶かされていた。


「あれは、料理ではなかったですね……」


 ここではない遠いところを、ルビーのように赤い瞳で見つめながら湖都奈が言う。

 一口飲んだだけで、あそこまで人を無言にできる代物はそうはないだろう。


「まあ、それはこの際もう忘れるとして、ご飯にしよう」


 パンッと軽く手を叩いて、湖都奈の意識をこちらに向ける。


「そうですね。のんびりしていると、太一も学校に遅れてしまいます」

「湖都奈も早く登校できるようになれたらいいな」

「ええ、そのための練習は欠かしていません。来週にはちゃんと戻れますよ」


 太一が言うように、今の湖都奈は学校に登校していない。からと言って、病気や怪我をのような類いをしたわけではない。


「まさか、虹力こうりょくを封じて調子をくずしちまうとはな。知らなかったとはいえ、ごめんな」


 自分の椅子に腰掛けながら、太一が申し訳なく言う。


「これは決して太一の性ではありません、私が赤の虹力を宿していたことによる弊害ですね。自分で言うのもなんですが、赤の虹力〈強化ストレングス〉は使用する側も頑丈でないと上手く使いこなせませんから」


 湖都奈はエプロンを外して束ねていた髪をおろすと、太一の向かいに腰掛けながら何でもないと言うように朗らかな笑顔を見せる。

 湖都奈はその身に赤の虹力を宿している。その効果は〈強化〉。付与した物を文字通り強化できるのだが、付与された側にもある程度の強度がなければ力に耐えきれないのだ。

 その分、湖都奈は赤色の最高位の虹霊である〈アルカンシエル〉。その虹力は絶大で、扱う彼女の身体も人とは比べものにならないほど頑丈だった。

 その絶大な虹力をこの前、太一が持つ能力【虹納剣ペイドソード】で封じたことにより、湖都奈は身体のバランスを崩してしまっていた。適度な力の加減ができなくなったのである。


 太一の家で一緒に住むようになってから、すぐにその弊害が如実に現われ出した。

 ガラスのコップを握り潰したり、ドアノブを握った手の形に変形させてしまったり、挙げ句の果てには握った太一の手の骨を粉々にしかけたりと、それは日常生活にまで支障をきたしていた。

 そのため、病気という体で湖都奈は一週間だけ学校を休み、その間に今の状態に慣れる練習を繰り返していた。

 料理も湖都奈の技能を上げるためだけでなく、繊細な作業をこなす練習でもあった。


「湖都奈さんが、物を壊さないよう、私もお手伝い、します」


 太一の隣に座る青唯がファフを抱きながら、自信ありげにラピスラズリの如き青い瞳を輝かせる。


「絶対に壊してはいけない物は全て、青唯が〈堅牢ソリッド〉で守ってくれてますから、今の状態の私でも気兼ねなくここで生活できています。青唯、本当にありがとうございます」

「い、いえ、私も、湖都奈さんのお役に立てて、嬉しいです……」


 湖都奈が握った物全てが壊れてしまうとさすがに生活するのに困るため、家電製品など高価な物には青唯が宿す青の虹力、〈堅牢〉を付与していた。

 真っ直ぐ湖都奈に見つめられ、褒められた青唯は照れて俯いてしまう。

 一緒に暮らすようになり、湖都奈と青唯は初めて会った当初よりもかなり打ち解けた。そんな二人が仲良く話している光景に、太一は嬉しく思う。


「仲が良いようで何よりだ。――それじゃあ、いただきます」


 そう言って、太一はテーブルに置かれていた湯気を立てる味噌汁に口を付ける。


「……まだ人が飲めるレベルのしょっぱさだな」


 見た目に全く違和感のない味噌汁を一口啜って、出た感想がそれだった。


「う、ごめんなさい。塩梅を間違えました……」


 同じように味噌汁を啜った湖都奈が、呻いて苦悶の表情を浮かべる。


「それだと味噌の量を間違えただけなのか、本当に塩を入れちまったのかわかんねえな」


 太一は申し訳なさそうに肩をすぼめる湖都奈に言いつつ、残っていたしょっぱい味噌汁を全て飲みきった。


「太一!? 無理はしないでください。塩分の取り過ぎになってしまいます!」


 まさか飲みきるとは思っていなかったらしい湖都奈が、慌てた様子で水を差し出して太一に言ってくる。


「出されたものはありがたく食えって、じいちゃんに教わってるからな。それに湖都奈に悪気がないってのはわかってるし。食える料理になっただけ、練習の成果が出てるぞ」


 言って、太一はそのまま他に出されていた焦げつきの強い焼き魚などの、昨日の残り物も食べきって「ごちそうさま」をすると、空いた食器を持ちキッチンに向かう。

 まだ鍋に残っているしょっぱい味噌汁を全てお椀によそり、それも飲みきった。


「ケホッ、じゃあ洗い物は俺がするから、二人は食べ終わったら食器を持ってきてくれ」


 さすがに耐えきれず、小さく咳をしてから袖をまくって二人に言った。


「残さず食べてもらったのは嬉しいですが、身体は大丈夫ですか?」


 食べ終えた湖都奈が、食器を運びながら不安げに訊いてくる。


「ああ、なんてことないさ。俺も料理始めたての頃はよく失敗してたしな。――それより今日は二桁いかずに済んだか。これも練習の成果かな」


 太一が食器を洗いながら流しの横に目を移すと、綺麗に裁断された木片がいくつか纏められていた。


「うう、でも、まな板は本来、一回だけの使い捨てじゃないですよ」


 ――そう、これらの纏められた木片の正体はまな板。その全てが湖都奈が握った包丁によって、たった一回だけの役目と引き換えに等間隔に斬られてしまったのだ。

 もう見慣れたため、太一は纏められた量で何枚が犠牲になったのかわかるようになっていた。


「まな板は百均の安もんだし、斬った枚数も徐々に減ってるんだから気にすんなって。それに、目盛りなしでこれだけ均一の幅に斬れるのも才能だと思うぞ」


 うなだれる湖都奈を元気づけたくて、太一はなるべく褒める言葉を選んだ。


「……太一にそう言ってもらえると、なんだか元気が湧いてきました。――ええ、剣の腕を磨くため、刃物の扱いは他のことより慣れてるんです」


 元気を取り戻した湖都奈の瞳は、虹力を発動してないにもかかわらず、キラキラと輝いていた。

 そうこうしている内に時間が経ち、学校へ出掛ける支度を終えた太一が青唯と玄関で靴を履いていると、湖都奈が二人を見送りに来た。


「二人とも、今日は放課後になったら喫茶店で会いましょう」

「喫茶店? ――ってことは、また〈円卓の虹〉の活動があるのか?」

「はい。今度は青唯も一緒に活動してもらおうと思います。私が上手く動けない分、負担を掛けることになりますが大丈夫ですか?」


 確認を取るように湖都奈が青唯に尋ねる。


「だ、大丈夫、です……!」


 声は緊張からか若干震えていたが、青唯は小さな両手を胸の前でぐっと握り、気合いを入れる。


「初めてで不安かもしれませんが、紫音もサポートしてくれます。だからそんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」


 青唯の緊張をほぐすように、湖都奈が優しく声を掛ける。


「わかりました。頑張ります」


 落ち着きを取り戻した青唯がはっきりと言った。


「それでは二人とも、行ってらっしゃい!」


 太一と青唯が連れだって外に出ると、一緒に湖都奈も玄関先まで出てきた。そして出掛ける二人に笑みを浮かべて手を振ってくる。


「「行ってきます!」」


 そんな彼女に、二人も手を振り返して応えたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

七原色のアルカンシエル 阿桜かほる @asakura-01

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ