2. 迷走
棒のように突っ張った足が周期的な揺れだけを感じている。土曜日の昼だというのにスーツ姿のサラリーマンが散見される車内。俺は心の中で「あと十分だから」とお経のように唱える。適正身長よりもはるかに高いつり革をぎゅっと手繰り寄せると少しだけ安心感に満たされた。
時刻は一四時四五分。JR埼京線の車内は自分の知っている電車より数倍は混雑していて、いつもの教室の数分の一ほどの酸素しか存在していないように感じられた。また、どこからともなく煙草と香水の入り混じったような匂いが漂ってくる。俺はその匂いの既視感に考えを巡らせながら、目的地までじっと縮こまっている他なかった。
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電車を降りると北風が身体の隙間を通り抜ける。俺は肩に掛けていたカメラを手に取った。ここまで自分を運んでくれた電車に敬意を込めて数回シャッターを下ろし、次に『新宿』と書かれた駅名標にレンズを向ける。パシャパシャと小気味良いシャッター音が俺の鼓膜を震わせる。
撮影した写真を確認すると新宿の文字が地元の駅名標より少し大きいように感じられた。俺は『都会』というものの壮大さを漠然と感じつつ、東口を目指して歩き始めたのだった。
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駅構内の案内板に何度も惑わされ、東口の改札口に辿り着いたのは電車を降りてから十数分が経った頃であった。
俺は改札機の横に行儀よく立ち並ぶ自販機のひとつに交通系のICカードをかざし、麦茶を購入する。電車の中で疲弊した足が思わぬ追加攻撃を受けて、すぐにでも帰りたい気分だ。贔屓の監督の新作が新宿の単館でしか上映しないなんてことがなければ、こんなに苦労することもなかっただろうと思ったが、俺はその不満感のやり場が見当たらず、麦茶と一緒にごくりと腹に落とし込んだのだった。
今日は一か月後に高校受験を控えた身でありながら母親と粘り強い交渉を繰り返し、なんとか勝ち取った貴重な一日なのだ。今日に限って匙を投げるなんて許されまい。
今度は「あと少しだから」と自分に言い聞かせ弾みをつけて改札機へと足を進める。と、その刹那、駅構内に甲高い電子音が響き渡った。俺は突如現れた二枚の板に進路を塞がれ、赤いランプを眺めてじっとしていることしかできなかった。
しばらくすると十数メートル離れた窓口から駅員が駆け寄って来た。駅員は「お客さんちゃんと確認しなきゃだめですよ」なんて言いながら改札機の液晶画面を指差す。駅員の指先に目をやると、赤色のボールド体で
乗車賃:一九八〇円
ICカード残高:一八七〇円
と表示されていた。どうやら麦茶を購入したことでICカードの残高が足りなくなってしまったようである。
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全くなんて災難な日なんだ。駅の外に出たにもかかわらず、依然として空気が淀んでいるように感じる。初めて吸う都心の空気もやはり煙草と香水の匂いが強く鼻についた。ようやく気が付いたが、電車内で感じた既視感はこの匂いがどことなく職員室のそれと似ているからだろう。喧騒と色事の混じり合った大人の匂いだ。
ふと上を見上げるとどんよりと曇っている。四方に聳(そび)え立つ高層ビルのせいもあって空がとても狭く感じた。それでも俺はこの空がどこまでも広く、広く、広い世界に繋がっていると信じてこう呟いた。
「さて、ここはどこだ?」
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