3. 邂逅

 最近巷ではスマートフォンという名の電子機器が台頭し始めているらしい。その機械は『携帯電話の機能を兼ね備えた超小型コンピュータ』なんて宣伝文句とともにテレビ番組にしばしば登場していた。俺が昼食の蕎麦(そば)を食いながら話半分に聞いていたワイドショーでも同じような話題を取り上げていた。価格が発表されたときに母親が大声を上げたので何となくその番組の内容が印象に残っている。番組のキャスターによれば、スマートフォンがあればどこでもインターネットの検索機能やナビゲーション付きの地図が扱えるのだという。

 ふとそんなことを思い出して、俺は深くため息を吐いた。今、俺の手にそのスマートフォンがあれば、上映時間にひやひやしながら同じ道を行ったり来たりすることはなかっただろうな、と思ったからである。

 今後生まれる子供たちの間ではスマートフォンがマストアイテムになっているのだろうか? なんて考えを巡らせながらジーンズのポケットから携帯電話を取り出す。画面を開くとちょうどデジタル時計の表示がちらつき、一五時半になったことを示していた。

 新宿駅の東口を発っておよそ三〇分。ようやく目的地に到着できたのであった。

 そこには俺の想像していた劇場とは違い、少し古びた五階建てのビルが建っていた。ビルの壁面から突き出ている各階のテナント表示の看板を見上げる。一階と二階の欄には確かに目的の劇場名が表記されていた。

 「ここで間違いないよな?」

 俺はそう呟くとそのまま視線を下ろす。店外には小さな掲示板が設置されていた。上辺のみが画鋲で留められた上映スケジュールはひらひらと裾を揺らしている。必要な情報を読み取るため、掲示板に手を掛けたまさにそのとき、唐突に後ろから声を掛けられた。

 「渡瀬くん?」

 聞き慣れない可愛らしい声に肩がぴくりと震えたのを感じる。ひと呼吸おいてからゆっくりと身体を声の方に向けると、そこには相沢(あいざわ)佳奈(かな)が立っていた。


      ●     ●


 劇場ロビーの西端にひっそりと佇むソファーに身体を預けてしばらく時間が経った。柔らかすぎるクッションが少し気持ち悪く、再度態勢を変えて俺は言った。

「正直さ」

「うん」

 隣からおっとりとした声が返ってくる。

「相沢がこんなに話せるとは思わなかったよ」

「あー、好きで映画観るようになったの最近だから、渡瀬くん詳しくてびっくりしちゃった」

 相沢は可愛らしい手帳に会話の内容をメモしながら器用に話を続ける。大人しそうな雰囲気とは裏腹に太く力強い文字が印象的だった。

 相沢とは二年生の時に一度同じクラスになったことがある。決して目立つタイプではなく、空き時間には一人で読書している物静かなイメージだ。たまに仲の良いグループで会話しているのを目するが、自ら話題を振るのではなく、いつも聞き手側に回っている印象である。ただし、成績はそこそこ良いらしく、各科目の先生にもほど良い好意を持たれるような人柄なので、心の中で『中くらいの優等生』だなと思っていた。

 そんな相沢に手放しで褒められて少しむず痒い気持ちになった俺は、思っていたことをそのまま口に出す。

「映画のこともそうだけど、いつも本とか読んでて、人と話しているイメージがあんまりなかったからさ」

 少し間を置いて相沢が答える。

「そうかな? 私そこそこ喋るよ? どっちかっていうと喋るの好きな方なんだけどなー」

 相沢の方にちらりと目を遣ると口許を緩めてくすくすと微笑んでいた。相沢の意外な一面に少しどきりとする。

「渡瀬くんのさ、一番好きな映画って何?」

 唐突な質問に一瞬戸惑ったが、何とか返答を考える。

「好きな映画かあ……」

 何だろう? 俺は頭の中で過去に観た作品を五十音順に並べ、一つずつ順に精査していく。しかし、一向に定まった回答が決まらない。

 静寂な時間が二人の間に漂っている。答えはまだ決まらない。どれくらいの時間が流れたか分からないが、既に相沢の問いに答えられないことよりも答えが決められない自分に対して焦燥感を感じ始めていた。何となく好きなジャンル、好きなストーリーは思い浮かぶ。しかし何が一番かと言われると忽(たちま)ち分からなくなってしまう。

 目ぼしいタイトルをいくつか挙げてぐるぐると脳内に渦巻かせていると、柔和な電子音がそこに交じり込んで来た。劇場アナウンスが入場可能時刻になったことを知らせているようだ。

 相沢が立ち上がり、入場ゲートの方に歩き始めてしまったので俺はこれ以上の思考を諦め、リュックサックを肩に掛けてゲートの方へ歩き出したのだった。


      ●     ●


 この劇場は昔ながらの整理券方式を採用しており、座席は入場してから自由に決めることができた。

 あまり有名ではないタイトルであることもあって劇場内は閑散としている。俺はできるだけスクリーンの中心を陣取りたいタイプなので一度相沢に声を掛けようかと思ったが、相沢がちょうどいい場所に腰を下ろしたため、その隣に座ることにした。

 コーラもポップコーンも購入していなかったので、上映が始まるまで再び時間ができてしまった。この時間を利用して先ほどの問いの答えを導きだそうかと考えていると、それを阻むように相沢が新たな問題を提示してきた。

「渡瀬くんはさ、どうして映画が好きなの?」

 慌てて相沢との会話にチャネルを合わせ直し、口を開く。

「どうして……んー、何だろう」

 カップの中でぽつぽつと弾ける相沢の炭酸飲料が俺を急かしているように感じた。

「あー、そうか。自分の知らない事とか、できない事を体験させてくれるから? いや、でも家族の影響なのかな?」

 今度はすぐにそれらしい答えを見つけることができたので少しだけ安心した。

 俺がその後に言葉を続けない事を確認すると、相沢は「へぇー」とだけ言って俯(うつむ)く。

 映画館に着いてからずっと相沢に話題を振ってもらってばかりでちょっぴり申し訳ない気分になったので、先ほどの質問を相沢にも返してみる。

「相沢は?」

「えっ」

 相沢はすっと頭を上げるときょとんとした顔でこちらを向く。

「だから、相沢はどうして映画が好きなの?」

 相沢はやっと質問の意図を理解したようで「あー、うーん」なんて言いながら再び頭を下げる。そして、少し照れ臭そうに

「なんていうか、映画ってさ、観てると何となく誰かと話しているって気にならない?」

 と言った。

相沢の言わんとすることがすぐに理解できなかったので、俺はオウム返しのように「話す?」と問い掛ける。しかし、相沢は「うん」と相槌を打つだけでそれ以上何も答えることはなかった。

 場内の空調が音を立てて仕事をし始める。機械の中のファンがうねりを上げながら回転数を上げているのが想像できる。

 ここに来てようやく相沢の発言に思考が追いつき始め、話す(・・)という文字が形を成して脳の表皮に浸み込んで来た。

 俺は不自然にできてしまった間を取り繕おうと「んー、どうだろ」と言って笑って見せたが、鏡を見なくたって今の笑みは苦笑いになってしまっただろうなと思った。

 上映時間まで残り僅かだというのに一向に他の客が現れない。映画館独特の静寂音が耳に馴染んできたところで、次に口を開いたのは、やはり相沢の方だった。

「写真、よく撮るの?」

 どうやら俺が今日一日ぶら下げていたカメラが気になったらしい。俺はカメラのストラップを持って少し持ち上げて見せる。

「これ、ずいぶん前に父さんに貰ったんだ。それから持ち歩くようにしてて。今日も来るとき迷子になっちゃってさ、途中で何枚か撮ったかな……」

「観てもいい?」

 相沢が身体をこちらに傾けてくる。

 俺は「大したものは撮ってないけどね」と言いながら電源を入れ、カメラを相沢に渡す。液晶画面の明かりに目がちかりとしたが、相沢はそんなことも気にしない風でぼーっと画面を眺めている。十数秒、いや数十秒ほど経った頃だろうか。相沢がぽつりとこんなことを言った。

「渡瀬君ってさ、映画撮ったりしないの?」

 突然のことでまたしても内容を読み解けず、呆気にとられたまま「何?」と返すのが精いっぱいだった。すると相沢は、今度はさらに噛み砕いた言い回しで

「作品、自分の映画を作ったりとかしないのかなーって」

 と尋ねてきた。

 俺はこれまでの人生で一度も考慮したことのなかった突飛な質問に対してすぐに言葉が出せず、相沢の顔をまじまじと見つめた後に

「いや……まだ、そういうのは……。相沢、作ってるの?」

 と安直な質問を返すことしかできなかった。

 いつしか俺の背中はひんやりと湿っており、空調が効いていないんじゃないかと思えるほどに顔が熱くなっていた。

 対する相沢は涼しい顔ではにかみ、手でちょっと(・・・・)のジェスチャーをして見せながら訥々(とつとつ)と話し始める。

「絵コンテ……を描いてみたり、とか、さすがに役者とかいないから、うちの猫の動画とか、撮って繋げて見たり、とか……してる」

 相沢の淡々とした口調に引き上げられ、徐々に熱が引いていくのを感じる。その反面今度は相沢の顔が少し赤らんでいるように感じた。俺は相沢の話を聞いて思ったことを率直に伝える。

「相沢は、映画監督になりたいの?」

「うーん、撮ることに自由に生きたいと思う……。私にとっては、それが一番意味のあることだから」

 相沢は先ほどより幾分か滑らかに、そしてはっきりと答える。

「ああー。なんか自由っていうのはちょっと分かる気がする。俺はまだ将来とかは全然迷い中だけどね」

「私だって同じだよ」

「まあでもとりあえずは高校受験だな、俺たちは。高校行ったらいろいろやってみたらいいしさ」

「そうだよね」

 相沢は終始笑みを崩さないまま、平然と続けて、言う。

「私ね……県外の高校に行くんだ」

 相沢がそう言うと同時に辺りが暗くなり、スクリーンが輝き始めた。

 映画の内容はよく覚えていない。ただ、上映中熱心にボールペンを走らせる相沢の手だけが強く頭にこびりついて離れなかった。

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