新宿イメージセンサ

碚埜明生

1. プロローグ

 鈍い金属音が浜松町のワンルームに響き渡る。その音色は家賃三万八千円の安物件に相応しい見事な鈍色(にびいろ)にチューニングされており、ありとあらゆる生き物の不快な周波数が凝縮されているのだろうと推測できる。

 僕は眠気がこびりついた瞼(まぶた)を持ち上げながらのそのそと立ち上がる。寒さでつま先がズキリと傷んだ。世間では未だに地球温暖化だのヒートアイランド現象だのといった話題が絶えないが、十二月ともなれば寒いものは寒いのである。

 部屋の隅で脱力しきったハロゲンヒーターに電源を入れ、スリッパをつま先に引っ掛けて玄関へと向かう。ただし、このまま外出しようという訳ではない。僕は鉄扉の前で立ち止まると、ずしりと重い不協和音で僕を呼びつけた郵便受けに手を掛けたのだった。

 うちの郵便受けは河馬(かば)のような愛らしい面持ちをしている。自分の中では、ひと昔前に流行した犬型の愛玩ロボットにも退けを取らないと自負しているほどである。唯一不満点を挙げるとすれば『取って来い』が苦手なことだ。こいつの咥(くわ)えてくるものはいつだって鋼鉄のように冷たい現実だけで、一向に僕の期待に応えてくれない。

 今日だっていつもと変わらぬ悪気の無さそうな顔でじっとこちらを見つめている。目が合った。一貫して自分に非がないと問い掛けているように感じる。入居時に抱いた好感度がじわじわと降下していき、やがて反転する。頭の中では自分の置かれている状況を理解できている。ただの鉄の箱に、一介の無機物に罪を背負わせたところで何も変わらないことなんて分かっている。だけど……

 僕はせめてもの反抗として、そいつの下顎を最大限まで引き下ろした。誰が見ようと正真正銘のアホ面だ。少しだけ胸のすく思いがしたが、心が満たされることはない。

 あんぐりと開いた河馬の口の中に目を落とす。いつからか空っぽになってしまった僕の心とは裏腹に、そこには二通の封筒が収まっていた。僕から出る負のオーラに危機感を覚えたのか、今日はいつもに増して仕事をしたらしい。

 封筒を確認すると送り主はそれぞれ別のものであった。偶然同じ時間に二通の郵便が配達されたのだろう。

 どちらの封筒にも中央に『渡瀬(わたせ) 涼(りょう) 様』と僕の名前が記されていた。一方の記名はプリンタでの印字で、もう一方は太めのボールペンで書き記されている。これだけの違いなのに封筒の重みがずいぶん違うように感じた。

 室内に戻ると僕は重い方の封筒をデスク端のカメラの横に並べた。といっても、これは僕自身の気分の問題で、実際の重量は同じくらいだと思う。今机の上に置いたのは当然宛名が手書きの方である。

 空いた右手でペン立てに挿さっていたカッターナイフを掬(すく)い上げ、軽い封筒を雑に開ける。中に入っていたのは三つ折りのA4用紙が一枚のみだった。

 紙を広げると、小さな映像会社の社名に続き『お世話になっております』から始まって『お祈り申し上げます』で締めくくられた二〇〇字ほどのテンプレート文が目に入る。

 見慣れた文字列だ。僕の見立て通り、確かに軽いはずなのに、僕の心は簡単に押し潰されてしまった。空っぽなんだから当然だろう、と自分に言い聞かせて平静を保とうとするが、実際に現実を突き付けられるというのは何度目だって辛い。

 こんなろくでもない文書を印刷しているから地球温暖化が加速するんだ、なんて皮肉が頭を過(よ)ぎる。しかし、すぐにその紙を増産させているのが自分自身であることに気が付き、ひどく惨めさを感じたので考えるのを止めた。

 思考を切り替えるために煙草を一本取り出し、火を点ける。ふわふわと昇っていく紫煙を逃がすために窓を少し開けた。

 何となく空を見上げると灰色の雲が蜷局(とぐろ)を巻いており、線状の水滴が外気を満たしていた。都心を囲む人工物は水気を吸って色のトーンが普段より濃くなっている。僕は他人事のように今の自分にはぴったりのカラーリングだなと思った。

 煙草の火はまだ三分の一ほどしか回っていない。何となく手持ち無沙汰な気分になったので、封を切ってない方の封筒に目を遣る。ボールペンで書かれた文字を何度かを目でなぞっていると、不思議と横にあったカメラに視界が奪われる。今度は上手く焦点が合わないまま、滑るようにデスク横の本棚へと吸い込まれる。

 虹彩がふわふわして目が回りそうだ。本棚には映像作品のパッケージがぎっしりと詰まっていた。目を落ち着かせるために眼球をゆっくりと上下に動かす。右上から父親に譲って貰った作品が並んでおり、続けて自ら購入した物が整列している。

 僕はそのちょうど境にあるひとつのパッケージに焦点を合わせた。これは僕の意思でフォーカスしたのだ。背広には明朝体でタイトルが記されている。ここからではしっかりと文字を捉えることができないが、決して忘れることのできないタイトルである。また、内容よりタイトルの方が印象強い数少ない作品でもある。

 この作品を初めて見たのは今から十年ほど前のことだ。その日も今日みたいにしとしとと雨の降る寒い冬の日のことであった。

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