七章 夏の思い出
第三十一話
あの日、海が消えた時のように、海が戻った日は朝から一日中騒がしかった。だけど、空木の言った通り、みんな記憶があやふやになっているみたいで、すごい勢いでどんどん忘れられていった。
私はベッドに倒れこんで昼過ぎまで寝ていた。スマホの音で起こされて、眠い目を開こうともせずに電話に出る。
「西堂さん? 起きてる?」
電話は栗城さんからだった。
「今から吾妻さんの家に集合ね。いい? 絶対に来てね!」
それだけ言うと、すぐに切れてしまった。寝ぼけた頭でも、背後で笑い声が漏れているのは聞こえた。
立ち上がると着替えを探した。ショッピングモールで買ってからずっと開封すらしていなかった袋を開けて、ワンピースの服を取り出す。
これにしよう。そう決めるとシャワーを浴びてから着替えた。カバンを持って玄関を出ると、外は雨だった。ドアの横に置きっぱなしにしてある傘を取り、吾妻さんの家に向かう。
何日ぶりの雨だろうか。過疎化の進んだ、だけど今日はやたらと騒がしい道を歩きながら考える。十日、いや二週間以上かもしれない。答えを出さないまま歩き続けると、吾妻さんの家に着いた。
「ハッピーバースデー!」
吾妻さんの部屋に通されると、強烈な破裂音が響いてから、みんなの歓声が聞こえた。
「ありがとう。本当は誕生日明日だけどね」
舌を出してみせると、栗城さんが頬を膨らませる。
「もう、しょうがないじゃん! 私今日これから引っ越しちゃうんだから!」
海についてのことはみんな忘れていき、いつかの都市伝説じみた噂が書かれていたサイトも消えていた。海が消えたこと自体をなかったこととして、全てが辻褄を合わせて改変されていく。
でも、栗城さんの転校はそのままだった。
「てか、そもそも西堂さんだって明日には引っ越しでしょ? どっちみち当日は誕生日会できないじゃん!」
栗城さんは可愛らしく怒ってみせて、それから笑った。
私は明日の朝には東京に戻る。これは自分で決めたことだ。そして、空木との約束でもある。今はまだ覚えているけど、この先いつまで覚えていられるか分からない。だからすぐ行動に移した。
「みんな転校ばっかで寂しくなるな、アタシ」
吾妻さんが不満そうに言うと、後ろで宇津野くんがおどおどしだした。
「吾妻さんには宇津野くんがいるじゃん!」
茶化すようにいう栗城さんの声で、宇津野くんはさらにおどおどする。
「宇津野くんはまだまだ夢想家なの。アタシは現実を生きてるから、中々話がかみ合わないの」
吾妻さんまでも茶化すように言うので、宇津野くんはそっぽを向いてしまった。
「そんなこと言って、この小説が書きあがればきっと考えも変わるさ」
負け惜しみにしか聞こえない言葉を吐き捨ててからコーラを一気飲みして、むせる。宇津野くんはやっぱり宇津野くんだ。
「じゃあそろそろケーキとプレゼントを渡しましょう!」
栗城さんの言葉を合図に、みんながハッピーバースデーを歌ってくれる。そしてケーキが運び込まれてきて、歌に合わせてロウソクを消す。最後に拍手をもらって喜ぶという、ありふれているけどとても嬉しい行事だ。
「これ、みんなからのプレゼント! 開けてみて!」
栗城さんは、綺麗に包装された箱を渡してくる。開けてみるとインスタントカメラが入っていた。フィルム付きだ。
「西堂さん、またモデルやるんでしょ? 自分で撮ったりするのも勉強になるって吾妻さんが言って、ちゃんとしたカメラはさすがに買えなかったから、みんなでこれにしようって決めたの! これなら撮ってすぐ写真見えるしね」
「ありがとう。すっごく嬉しい」
「よかった。せっかくだからみんなで一緒に撮ろうよ!」
「じゃあ僕が撮るよ」
宇津野くんが手を差し出してきた。
「宇津野くんは写らないの?」
私が聞くと吾妻さんが横から答えてきた。
「宇津野くんは写真嫌いなの。魂が抜かれるんだって」
「え、なにそれ面白い。それも夢想家ってやつなの?」
「いいから、さっさと撮るよ。ほらもうシャッター押すよ」
栗城さんの質問は無視して、宇津野くんがカメラを構える。
「待って待って! 前髪確かめてから」
栗城さんはスマホで前髪を直してからカメラを見る。
「はい、もう撮るよ~」
カシャ。
シャッターを押すとすぐにフィルムが出てくる。それを机に置いて見つめていると、徐々に三人の顔が浮かび上がってくる。更に待っているとハッキリと顔や部屋の輪郭が表れて、色も分かる。
「結構キレイに映るね」
栗城さんがフィルムを見ながら言う。
「うん、すごくキレイ」
まるで自分の腕を褒められているみたいに、宇津野くんは得意げに頷く。
「あっ! もう行かないと!」
急に栗城さんが立ち上がって荷物をまとめだした。時計を見ると四時半を過ぎていた。
「私もう帰るね。五時までに家に戻らないといけないの」
荷物をまとめた栗城さんが私に近付いてくる。
「西堂さん、まだ一日早いけど誕生日おめでとう。今日は誕生日会できてほんとによかった」
そう言って私に笑顔を向ける。
「ほんとにありがとう。私もよかった」
みんなで部屋を出て、玄関まで向かう。
「見送りはいいから、みんなはパーティー続けてて」
玄関まで行くと栗城さんが言った。
「女の子一人じゃよくないよ。宇津野くん、送ってあげて」
吾妻さんが後ろから声をかけて、宇津野くんの背中を押している。
「え? なんで僕が?」
「いいから、いいから。ちゃんと送ってあげるの。いいね?」
「はぁ」
宇津野くんは渋々靴を履いている。なんだかんだ言っても吾妻さんには逆らわない。
「引っ越してもずっと友達だから。休みになったら戻ってくるから、また遊ぼうね吾妻さん」
「うん、私からも連絡するから絶対また会おうね」
栗城さんは吾妻さんとの別れを惜しんでから、私の方を向いた。
「西堂さんもまた会おうね。東京行って大変だろうと思うけどモデル頑張って、元気でね。私いっぱい応援するから、西堂さんなら絶対大丈夫だよ」
お礼を言ってお別れをすると、栗城さんは傘をさして歩いていった。その後ろから宇津野くんも歩いていく。
「写真撮ってもいいかな?」
部屋に戻ると吾妻さんが遠慮がちに聞いてきた。
「うん、実は吾妻さんに撮ってもらおうと思ってこの服着てきたんだ」
前に吾妻さんとした約束を果たすために、ショッピングモールで買っておいた服。私は明日の朝にはこの街を出るから、今日しかない。
「じゃあカメラ準備するね」
吾妻さんは抽斗の中から、黒と銀に光るレトロなカメラを取り出した。そして顔の前に持っていくと、レンズを私に向けた。
「ほんとは外でも撮りたかったけど、こんな雨じゃ仕方ないね。私の部屋で我慢して」
レンズの周りをクルクルと回しながら言うと、どこで撮ろうかと聞いてきた。
「カメラマンにおまかせするよ」
「ん~、じゃあそこの窓の前に立って。それでかっこよくポーズ決めて」
いきなりの無茶な要求に戸惑いながらも、私はポーズをとる。その後も床に座ったり、ベッドでくつろいだりしてポーズをとると、カシャカシャと、シャッターを切る音が聞こえる。
「最後に、これで一枚撮ってもらってもいいかな?」
吾妻さんの要求に全部答えると、私はインスタントカメラを渡した。
「それならすぐ写真にできるから、お守り? として東京に持っていきたくて」
「もちろんいいよ」
私は、海の見える窓の前に立って、ポーズをとった。
まだ空が薄暗い時間に目が覚めた。昨日の夜に荷物の整理は全部終わらせておいた。私はシーツを畳んで軽く部屋の掃除をすると、荷物を持って部屋を出た。
お婆ちゃんはもう起きていて、朝ごはんを作っていた。
「朱百合、もうできるから食べてから行きなさい」
本当は食べずに行こうと思っていたけど、せっかくだから言われた通りにした。
「いただきます」
ごはんと味噌汁、それと鮭の塩焼きを順番に食べていく。
お婆ちゃんも他の人同様、海については忘れていった。だけど、祠について、夢ノ見山についてはどうなんだろう。あれ以来何も言ってこないから聞いていないけど、もしかしたら夢ノ見山をまだ嫌いなままなのかもしれない。
「ごちそうさまでした」
食器を片付けようとすると、お婆ちゃんに止められた。
「いいからいいから。もう行くんやろ。元気でな」
皺くちゃな顔で私に言う。多分笑顔を作ってくれているんだと思う。
「うん。お婆ちゃんも元気でね」
床の間でお母さんに最後の挨拶を済ませると、私は玄関に向かった。
「なんかあったら無理せんと戻ってきたらええ。がんばれや」
私はありがとうと言って玄関を出た。昨日までの雨はもう上がっている。
まだ少し時間があったので、最後に夢ノ見山に行った。小さなカバンだけを持って、キャリーケースは麓の所に置いておいた。山道はまだ雨の影響でぬかるんでいたけど、途中にある小さな休憩所には寄らずにひたすら上を目指した。
祠の前まで行くと小さくお辞儀をした。
街並みの見渡せるベンチ、その先にある柵の前に立つと、海はキラキラと揺れている。私はカバンからインスタントカメラを取り出して、レンズを向けるとシャッターを切った。
カシャ。
心地好い風に乗って、海のニオイがした。
商店街を歩いて駅に向かう。スーパーイバタは今日も静かに営業している。改札を通ってホームに降りると、電車が滑り込んできて私の前で停まった。
一歩踏み出して車内に入ると、窓際の座席に座った。始発の電車は誰も乗っていなくて、貸し切りのようだ。
やがて、ゆっくりと電車が動き出す。私はこの夏のことを思い出していた。
きっと私も、いつか全てを忘れてしまうんだろう。空木のこと、海のこと、この夏のこと。こうしている間にも、空木の顔は曖昧にしか思い出せなくなっている。
でも、たとえ全てを忘れたとしても、この心の奥にある感情だけは消えない気がする。
もし、それすら消えてしまっても、そこにぽっかりと開いてしまう穴が、その輪郭が、消えることはないだろう。
それでいいんだ。今は喪失感すら恋しくて、突き進む糧になってくれる。
窓を開けると夏の終わりのニオイがした。
青く白く、海が光っている。
――完
あの日、水平線に消えた夏。 割瀬旗惰 @WariseHatada
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