第三十話


 私はひたすら道を引き返した。‘装置’が消えた今、いつ海が戻るか分からない。もしかしたら、ここもすぐに海水で埋もれてしまうかもしれない。

 どこまで行っても同じような道で、下りてきた穴がどこにあったか分からない。焦ってきて二人の名前を呼んだ。

「栗城さん! 吾妻さん!」

 私の声だけがキンキンと反響していく。どうしよう、ここはどこだろう。走って洞窟を進むと、行き止まりになってしまった。

「どうして……たしか道の途中に穴があったはずなのに、どこなの……」

 呟く声も静かに反響する。


 私は祠の所まで走って戻った。まだ海水が戻ってないなら砂浜から出られる。外からは入れなくても中からなら出してもらえるはずだ。もう全部終わったから、誰かに見つかっても問題ない。

 祠を見ると、ものすごい量の水が滴っていた。よく見ると地面や壁の岩からもどんどん水が滴っている。海水が戻ってきているんだ。

 私は急いだ。疲れて棒のようになった足を必死に動かして走った。洞窟は右に左に曲がっていて、ぴちゃぴちゃと水の跳ねる音が大きくなってくる。

 そして深く潜るように下っていくと、そこで足を止めた。

 どうしよう。これじゃ進めない。


 まだまだ深く下っていかないといけないのに、すでに目の前の空間は水で満たされていた。あと数十メートルくらいならなんとか進めそうだけど、でもその先は天井まで水に浸かっている。

 こっちもダメだ。もうどこからも帰れない。

 私このままここで死ぬんだ。

 どうしようもなくなって、祠まで歩いて戻る。祠の隅から水が滴っている。夢で見た時はぽたぽたとだったけど、今はもっと勢いを増している。

 水は刻一刻と勢いを増していく。もう、くるぶしの上まで水に浸かっていて、疲れ切った足は動かない。疲労は限界を超えていて、私は祠に背中を付けて座り込んた。もはや恐怖は感じない。ただただ諦めの感情に心が満たされていき、少しずつ瞼が落ちてくる。睡魔がじんわりと体内に流れ込んできた。

 そして、眠った。


 ぽとぽとと水の滴る音で目を開ける。

 ここは、どこだろう。

 真っ暗な中で音だけが聞こえる。

 そっか、私もう死んだんだ。

 ここは天国かな。

 それとも、真っ暗だから地獄なのかな。

 何も見えない中で立ち上がる。

 音だけを頼りに歩いて行くと、小さな光が見えてきた。

 祠だ。ここは海の中の祠。

 ずっと夢だったのかもしれない。

 私はとっくに死んでいて、長い夢を見ていたのかもしれない。

 この洞窟はこの世界に存在しない、あの世への入り口だ。

 きっとあの時死ぬのは私だったんだ。

 本当はお母さんが死ぬ必要なんてなかった。

 祠の前に立つと、どこからか幽かな光が漏れて祠を照らしている。

 隅からはぽたぽたと水が滴っている。

 『瑞透……』

 目をつぶると、思いが言葉になって漏れる。

 潮のニオイがして、目を開ける。

 祠の後ろに誰かいる。

 近づくと、なぜか顔は陰になって見えない。

 『朱百合……』

 口も見えないその顔から聞こえてきた。私の名前。

 その人が私の手を握る。懐かしいニオイがした。

 顔の見えないその人は、とても暖かい手をしていた。

 握った手を通して、疲れが流れ出ていくように体が楽になる。

 瞬きをすると、不意にその手が、顔が、全てが消えていった。

 振り返ると空木が立っている。

 一歩踏み出そうとすると、誰かに足を掴まれた。

 『西堂は自分の時代を生きるんだ』

 空木の声が、洞窟内に何度も反響した。

 視界が青白く歪んでいく。

 脳内にはいつまでも空木の声が反響していた。


 ザァーという音がそこら中で響いて、それが更に洞窟の岩々に反響していく。あまりにも耳に痛く突き刺さる音で、瞼を開ける。私は眠っていたみたいた。

 座り込んでいたのもあって、すでに腰まで水に浸かっていた。潮のニオイがきつく鼻に突く。これはやっぱり海水だ。

 ゆっくりと起き上がる。眠っていたからか、少し疲労が取れて足も動かせそうだ。

 辺りを見回すと、上からも横からも海水が流れ込んできていた。その轟音の中、誰かが私を呼ぶ声を聞いた。


「……西堂さん」

 間違いない。私は覚め切らない頭を振って強制的に目を覚まさせてから歩き出す。祠の横道を進んで細長い道を走ると、声は大きくなってきた。

「……西堂さん!」

「ここ! 私はここだよ! 栗城さん! 吾妻さん!」

 肺の中の空気を全部吐き出すように、ひたすら叫んだ。ペンライトの光を振り回して二人を探す。声を頼りに走っていくと、海水がキラキラと光っているのが見えた。近寄ると上から声がした。

「西堂さん! よかった、やっと見つけた。ここ登れる?」

 上から栗城さんが覗き込んでいた。私は岩を掴んで登ろうとするけど、海水でべとべとになった岩は滑って掴めない。

「登れない。滑って登れないよ」

 焦ると余計に滑って、何度も落ちてしまう。

「落ち着いて。これに捕まって」

 栗城さんの横から、吾妻さんが縄梯子を投げ下ろす。私はそれを一つ一つしっかりと掴んで、足をかけて登る。上では二人が縄梯子を必死に支えてくれている。手足が滑って途中で縄梯子から足を踏み外しそうになりながらも、どうにか登り切ると、最後は二人に引き上げられるように穴から脱出した。


「ありがとう。もうだめかと思った」

 二人の手をギュッと掴んで、お礼を言うと涙が出てきた。私助かったんだ。

「待ってるって言ったでしょ」

 栗城さんが答えて私に抱き着いてくる。

「ここも危ないかもしれない。早く外に出よう」

 吾妻さんの声で、私は涙を拭いて歩き出した。もう大丈夫だ。これで全部元に戻る。

 洞窟を抜けると山の斜面に出た。無理に上に行かないで横の方へ歩いて登山道に向かう。ベンチが置いてある休憩所に着くと、そこから小屋へ向かって登り始める。

 小屋が見えてくると、私の脇を吾妻さんが駆け抜けていく。あとを追って小屋に入ると、宇津野くんが横になっている。

「宇津野くん、起きて。宇津野くん」

 吾妻さんが話しかける。私も側によって宇津野くんを呼ぶ。

「……ん~、……あれ、ここは?」

 宇津野くんが目を擦りながら起き上がる。

「よかった……目が覚めて、ほんとによかった」

 すすり泣くような声で吾妻さんが言って、宇津野くんを抱きしめる。

「え? ちょっと、吾妻さん。どうしたの?」

 徐々に声を上げて泣き始める吾妻さんをこれ以上見ているのも申し訳なく思って、私と栗城さんは小屋を出た。


 街を見下ろせるベンチ、その先にある柵の前へ立って海を見た。満月に照らされた海はまばゆいくらいにキラキラと輝いている。壁は、いたるところから崩壊していき海水が流れ込む。海の底からは、海水が湧き上がるように出てきて、空からも降っている。

 目を凝らして観察していると、まるで空気中からぷつぷつと海水が生み出されているようにも見える。

「すごい……海が戻ってる」

 後ろから宇津野くんの声が聞こえて振り返った。宇津野くんは吾妻さんに支えられてベンチの前に立っている。二人とも瞬きすら忘れてしまうほどに、一心に海を見つめている。その二人のメガネにもキラキラと海が反射している。

「……吾妻さんが言った通り、海はずっとここにあったんだ……本当にあったんだ」

 宇津野くんの感嘆の声を聞きながら、私も再び海を見た。この数十秒の間にも海水はどんどん増えていき、空を舞い。月まで届くかのように天高く飛び回っていく。その一粒一粒に、この夏の出来事が映し出されている。空木との再会、海が消えた日、夢ノ見山での約束、黒く汚れた海の底を見たこと、洞窟の祠。全てが走馬灯のように思い出されて、キラキラと空に舞って消えていく。

 街の喧噪も、遠くから聞こえるヘリの音も、鳴り響くサイレンも何も聞こえないふりをして、四人で海を見つめていた。


 私たちはそのまま朝を迎えた。朝日に照らされた海は、今まで見たどんな景色よりも綺麗だった。

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