美しい、女<けだもの>

鋼雅 暁

第1話 美しい、女

 5時間目修了のチャイムがなって、3階一番奥の教室から僕を含めた濃紺のブレザーがぞろぞろと排出される。


「みんなー、次の美術、校庭でデッサンに変更だって」


 女子の声がし、ほぼ全員がそちらを見る。踊り場にいる彼女――見方によっては紫にも見える不思議な色をした黒髪をポニーテールに結ったクラス委員が、声を弾ませていた。手には、薄いピンクの付箋のような紙を持っている。きっと、指示が書いてあるのだろう。


 彼女は学校一の美少女・紫雲院沙羅しうんいんさら。この町の権力者一族の娘とのことだが、どこか外国の血が入っているとかで、日本人の中学生とは思えない美貌とスタイルだ。年齢のわりに妖艶で近づきがたいとでも言えばいいだろうか。当然、文武両道である。


 その委員長の指示を聴いたブレザー軍団は、方向をくるりと変えた。なぜならば美術室へ行くなら目の前の階段をのぼり、校庭へ行くなら階段を降りなければならない。


「めんどくせー」

「委員長、もっと早く言えよー」

「ごめんねーっ! って、あたしだって今知ったのよ」


 そんなこんなで、あわただしく教室移動をする途中、僕は彼女に捕まった。階段ですれ違いざまに彼女は僕を、呼び止めた。

「あらちょうどいいところで会ったわ。放課後、音楽室へいらっしゃい」

 と、微笑みを浮かべながら言ったのだ。


「え? ぼ、僕?」

「そうよ。音楽祭の全体合唱の指揮者でしょう? 特訓をしましょう。伴奏者が、微妙に呼吸が合わないって嘆いていたわ」

「え!」


 慌てて周囲を見たが、誰も助けてはくれない。「しっかり頑張れよ」と背中を叩かれる始末だ。仕方なく僕は、蚊の鳴くような声で、「はい」と、答えるしかなかった。


「今日から毎日、放課後、第二音楽室で待ってるわね。逃げちゃだめよ」

「……はい」


 僕は、優雅に立ち去る彼女の姿を目で追った。はいと答えてしまったからには、行かなければならない。どんなに気が向かないとしても。


 特別教室棟の最上階。そこにある第二音楽室からは、この学園の大半が見渡せる。つまり、僕が校舎を出て校門へ向かったとしても、どこかに逃走を図ったとしても、すぐにバレて追手が差し向けられる。そして僕は音楽室に連行されてしまうのだ。


 ぼんやりとしたまま授業が終わり、僕はまたブレザー軍団に交じって移動する。ホームルームを終えて、放課後。


「音楽室、か……」


 一段一段、階段を上っていく。二階、三階あたりの教室ではちらほらと生徒が部活動をしているけど、四階、五階となるとぐっと人が減る。


 そして聞こえてくる、ショパンの調べ。


 ―――僕を催促している。忌まわしい音……


 先生が放課後奏でるピアノは、生徒たちにとても評判がいいけれど、僕にとっては悪魔のささやきに等しい。そんなこと、誰も知らないけれど。


 ――僕はあと何回、こうすれば良いのだろう――


 音の鎖で絡めとられた僕は、音楽室へと吸い込まれた。その先に、美しい獣が居るとわかっていても、足は止まらない。


 そうして僕は、音楽室の窓際に置かれている黒く硬いグランドピアノに背を預け、白い壁を見ている。真っ赤なマニキュアを塗った指が、中途半端に開いていた窓をゆっくりと閉めている。


(嫌だ……嫌だ、嫌だ……!)

「さあ、準備は整ったわ」


 カツカツカツ、とハイヒールの踵を鳴らして近寄ってくる。真っ赤なマニキュアを塗った白い手が、僕の髪をぐいっと引っ張った。


(やめて……いや、だ……)


 これ以上ないほどに仰け反った僕が忙しなく眼球を左右に動かせば、視界の端に飛び込んでくるのは校舎の壁に当たる、オレンジの夕陽だった。


(ああああ……また今日も……)


「イイコね、アナタは。ホントにイイコよ。はやく食べちゃいたいけど、まだダメね」


 あらわになった首筋にふうっと息をかけられ、僕の体がピクンと跳ねる。快感ではない。むしろ、恐怖だ。全身、鳥肌が立っている。


「動いちゃダメよ、もう解っていると思うけど」


 そう言いながらも、僕が動けないよう細い腕が僕の体を抱きしめてピアノに押さえつける。こんな細い腕の、どこにそんな力があるのだろう。いつも不思議に思うが、先生ではなく獣だと思えば――……。


「たす……けて……」

「あら、まだ動けるの? イケナイコね」


 必死に助けを呼ぼうとする僕の唇を、白い指がツツツ……と撫でた。その冷たさに、震えが走る。それを見てふっと笑ったかと思うと、柔らかい唇がそっと、宥めるように僕の唇に押し当てられた。


 その拍子に、真っ黒のストレートヘアが一房、僕の頬に落ちてきた。ふわりと香る、いつものシャンプーと香水……と、かすかに漂う、血の臭い。獣なのだ、彼女は。


「ンーっ!」

「んもうっ! 動いちゃだめ、っていつもいってるでしょう?」


 再開されたキスは、ひどく乱暴だった。僕の固く結んだ唇を無理矢理割って口の中へ押し入ってくる舌。自由自在に動き回る舌は、僕の官能を呼び起こすのが目的ではない。舌を絡め取って噛み付くのが目的だ。僕はそれを必死で押し戻す。


 僕の必死の抵抗に、ぬらりとした舌が離れ、唇も離れていった。


「ふふ、やるようになったじゃない――でも、そろそろ抵抗もできなくなるはずよ……」


 真っ赤に色づいた先生の唇は、息が上がったままの僕の口の横、頬、顎へと降りて行く。生暖かい舌が僕の首筋を丹念になぞる。


 僕の背筋が、興奮と恐怖でゾクゾクする。次第に僕はそれに、惑わされる。


 尖った舌先が、ツンツンと細かく動く。探っているのだ、あのポイントを。僕の喉が、ひくりと引き攣った。期待、いや、恐怖で。


「みぃつけた。イタダキマス、フフ……」


 ズブリ、と音がした。一番鋭い歯が、動脈に突き刺さった音だ。

「う、あ、あああっ……」


 灼熱の痛みが、首から、脊椎から、爪先へと走り、脳天まで戻ってくる。目の前が赤や白にチカチカして耳の中がワンワン鳴る。


 逃げようともがいても、がっちりとピアノに押さえつけられて身を捩ることすらままならないし、ピアノの縁が背骨をゴリゴリと擦るのも痛い。何よりも、ジュルジュルと血が啜られる音がやけに響いて頭が痛くなり、小さな穴から物凄い勢いで血が吸い上げられて疵がズクズクと痛む。


「せんせ、痛いっ……」


 思わず声を上げたら、冷たく白い掌が僕の口を塞いだ。黙れ、ということだ。


「うぐっ、ううっ……」


 痛みと、気持ち悪さと、怖さで、嗚咽が漏れる。その拍子に喉も動き、鋭く尖った歯が僕の皮膚に新たな疵を作った。


「動くなんて、イケナイコね」


 僕の首筋に噛み付いたまま喋られて、更に傷が増える。僕の体を押さえていた手にぐっと力が入って、尖った爪が僕の制服をビリビリと切り裂いていく。その爪は止まることなく皮膚に小さな疵をつける。ピリピリとしたむず痒いような痛みが、気が遠くなりかける僕を現実へと引き戻す。


 どう動いても傷が増えるばかり、僕はついに、動くのをやめた。


「う、うう……」

「ふふ、イイコね」


 耳の傍で囁かれ、どうしたわけか痛みがドクドクと増していく。もうどこが痛いのかわからなくなって、僕は地団太を踏んだ。


「いた、いたいよっ、先生……やだ、もうやめて……」


 僕を押さえつけていた先生の手がふっと緩み、滑らかに動いて僕の臙脂のネクタイをあっという間に外した。何をするのだろうと思ったら、素早く猿轡を噛まされた。


「ンッ……んーっ!」

「やっぱりワルイコね。それに、まだ動けるなんて困ったコ」


 軽々とピアノから抱き起こされ、今度はピアノのイスに座らされた。


 冷たくて青褪めた先生の手が、僕の頬をつるりと撫でた。あんなに僕の血を吸ったのに、先生の手は冷たい。そのまま先生の手は僕の両腕を押さえ、本格的に爪を立てた。ギリギリと、骨が軋むような音がして、血の流れが止まったような感覚がした。


「うぐーっ……」


 僕の声にならない悲鳴を聞いた先生が、ニヤリと笑って爪を立てる力を少し抜いた。振り払うなら今だ、と思った。なのに、振り払いたくても、僕の腕は動かなかった。見えないロープに縛り付けられてしまったかのように。


「……?」

「さすがに動けないでしょ?」


 直接毒を注ぎこんであげたわ、と、艶かしく耳元で囁かれた。恐怖で目を見開いた僕の視界いっぱいに、先生の美しい……怖いほど美しい笑顔が入り込んできた。


「もう少しの辛抱よ」


 太古の昔から、ヴァンパイアは美しい。美しい生き物であると、誰かが決めたのだ。それは多分、ヴァンパイアの始祖であり、神様であるんだと、僕は思う。もちろん、逢ったことも先生に話を聞いたこともないけれど。


 でも、その理由は先生に聞いている。


 どんな屈強な男でも美しさに呆ける瞬間があるから。


 ヴァンパイアたちは、そこを逃さず獲物を捕らえ、エサとするのだ。ヴァンパイアが一度その肌に牙をつけてしまえば、一瞬にして獲物はヴァンパイアの支配下に置かれてしまう。


 体も。心も。

 何もかもが全て。


 記憶や自覚の全くないまま、ヴァンパイアのエサになっている人間は……数多いらしい。


 しかし、どうしたわけか、僕には先生の『支配』が中途半端にしか効かない人間だった。例外中の例外、特殊なパターンらしい。本来なら、意識が全て支配され、動きも記憶も痛みも、全てが先生に支配されてしまう。なのに、僕の場合は、吸血されている最中の痛みはあるし記憶もあるし、始終はっきりと意識を保っていられる。


 だから、僕の中学校の美しい音楽の先生が実はヴァンパイアだと知っているし、自分が先生のエサだとも知っている。嫌で怖いから逆らいたいけれど逆らえないのは中途半端に支配されてしまったから。


 間違っても、僕が先生に惚れたから、ではない。断じて違う。


 勿論、先生はとても驚いていた。どんなに先生が記憶を消そうとしても、僕の記憶は消えることがない。


 僕の中に、只管只管、降り積もっていく美しい恐怖。先生は、そんな僕こそが美しいという。冴えない、ごくごく普通の僕なのに。


 つらつらと、そんなことを思っていたら、ギリッと頬を引っ掻かれた。


「考え事? イケナイコね。まだまだ余裕があるってことかしら」


 先生は、僕の血を吸っているときに僕の気が逸れることを酷く嫌う。執着心というか独占欲というか、そんな感情を見せることもある。それは暴力的に表面に噴出し、僕は首を絞められたり、体内の殆どの血を吸われたり、酷い目にあう。僕は、ひたすら先生のことを想わないといけないらしい。理不尽だとも思う。


「んぐ……うんん……」

「ふふ、イイコね」


 鋭く尖った牙が、僕の首筋に再び突き刺さった。


 ――痛い……

 ――痛い!


 心が。首が。背中が。あちこちが。


 でも、決して先生は僕を殺さない。殺してしまっては、エサにならないから。


 そう、僕は先生のエサでしかない。そう思ったらなぜか、僕の目から、ボロボロと零れた涙。それに気がついた先生が、にやりとどこか悪戯っぽく笑った。唇の端に、生々しい朱がついているのが、艶かしい。


「甘い匂いがするわ……血が、変わったわ」

「え……」

「やっと……認めたのね」


 尖った牙が、僕の目の前に迫ってくる。ああ、これに貫かれるんだ――……


 ――ぬらり、ずぶり……ずずっ……


 僕の目元が震えて、目の前が、視界の半分が、真っ赤な夕陽色になった。これは血を吸われ過ぎた時の症状だ。もう二度と、吸わせるものか。そう思って身を捩る。


「ふふ、無駄よ」

「ひぐっ……」

「だってアナタは……もう逃げられないわよ、いえ、逃げないわね……」


 先生がくすくす笑った。僕の血は、僕の思考を先生に伝えるらしい。


「可愛いわね……」


 深々と首筋に噛みつかれ、僕は大きく痙攣した。ずるる、ずるると、血液が啜りだされていく。僕の感情や意志はまるで無視して、血が吸いだされていく。


(ああ、先生……美しい、けだもの


 猿轡が邪魔で、先生、とすら呼べない。



 ――それから、一か月後。


 僕はいつもどおり、放課後の音楽室へと足を運んだ。ガラガラと扉を開ければ、夕陽で部屋は真っ赤に染まっている。黒いピアノも、壁の音楽家たちも、皆、紅く染まっている。


 赤い部屋で、夕陽を背負った先生がにっこりと微笑む。ああ、美しい。ぞくぞくするほど、美しい。


「先生」

「いらっしゃい。待ってたわよ」


 優雅に先生が、手を差し出す。ふらふらと、引き寄せられる様に、僕はその手に捕まる、いや、掴まる。あれだけ痛い思いをして、あれだけ怖い思いをして、それでも僕は音楽室へ足を運ぶ。


 美しきヴァンパイアに、血を吸われて悦楽を味わう僕が居る。


 美しい先生に、支配されて恍惚となる僕が居る。


「先生」

「なあに?」


 僕は、すっと両腕を伸べて先生の体にしがみ付き、不思議そうに首を傾げる先生の唇に己の唇を重ねた。一瞬の躊躇いもなく。


「先生、あのね」

「なあに?」


 僕は、くぱっ、と口を開けて、にやり、と笑って見せた。つんつん、と指先で突いてみせるは、犬歯。


「先生、僕、ヴァンパイアになっちゃったみたい」

「あら、そう」


 先生の白い指が、僕の異常に尖った犬歯をつるりと撫でた。そっとそれを噛んでみると、どろりとした甘い匂いが口や鼻を充たす。やっと、満たされた。


「おめでとう。でもどうしてかしらね?」

「わかってるくせに。先生が、あんまり強く願うからだよ?」

「ふふ、愛した生徒を手に入れるには、こうするしかないでしょ?」

「悪い先生だ。どうしてくれるのさ……クラスの子たちが、甘ったるい血の匂いを撒き散らして一日中困ったよ」

「噛めばよかったのに。好きな子、いるんでしょ?」


 ふふふ、と、先生は妖艶に笑った。


「いないよ、クラスには。でも、ひとり、変わった子がいるんだ」

「あら、誰?」

「委員長――紫雲院さん。彼女はなんだか……」


 最後まで言い終わらないうちに、先生は僕の首筋に牙を突き立てた。ずるり、血が吸われる。


「ワルイコ。他の女の話をするなんて。あなたの伴侶はわたしよ?」


 僕は甘い匂いに導かれるまま先生の首筋に牙を突き立てた。ずるり、血を啜る。甘く、痺れる衝撃。くらくらと、酔うような、快楽。


「ごめん――って、僕、エサじゃないの?」

「餌でもあり、伴侶でもありってところよ。ヴァンパイア独自の婚姻制度ね……」


 愛してる、という代わりに、互いの血を啜る僕たち。


 先生と、生徒。でも、ヴァンパイア同士だから、そんなのは関係ない。


「ね、先生」

「なあに?」

「僕が他の人の血を吸ってもいいんでしょう?」

「構わないわよ。でもね――あなたはそんなこと、出来ないと思うわ」

「どうして?」


 先生は、美しい微笑を浮かべた。そして、中学生の僕が羞恥で真っ赤になるような愛のセリフを、耳元で囁いてくれた。


 それから数日後。


 僕は、郊外にある大きなお屋敷を訪れていた。一族の長に、新入りのヴァンパイアとして認めてもらわなければならないらしいが――目の前にいる少女を見て、僕は眼がまん丸になった。


「紫雲院委員長……え、え!」


 美しき委員長が、嫣然と微笑んでいた。黒髪が下ろされてゆったりと椅子に座っているが、着ている服は僕と同じ中学校の制服だ。


「ようこそ。あなたを、ヴァンパイア族の一員として認めましょう」

「え、え、先生、どういうこと……」

「彼女――沙羅さまが、我々ヴァンパイア一族の長よ。桁外れに美しいでしょう? さあ、ご挨拶なさい」

 

 委員長、いや、長が僕の目を覗き込んできた。すべてを見透かされるような、射抜くようなまなざし。実際、ヴァンパイアの能力でいろいろなものをスキャンされたのだと思う。


 そして長は一つ頷くと、僕の手首をとった。小さな痛みが走り、そこには不思議な紋章が浮かびあがった。


「ヴァンパイア一族の証でもあり戒めでもあるわ。詳しくは――先生に聞きなさい」

「は、はい」


 委員長は、先生の方へ向き直った。


「まったく貴女ときたら。わたしは、餌になる人間を確保しなさいって命じたのに、伴侶を連れてくるなんてね」

「いけませんでしたか?」

「構わないわ。仲間が増えて嬉しいもの。それにしても彼……極上よね……」

「長、彼を食べては嫌ですよ」

「あなたが牙をつけていたから遠慮したけど……そうね、約束いたしかねるわ。」


 ふふ、と小首をかしげて微笑む委員長は、先生と同じ種類の美しさだ。ぺろりと舌なめずりした委員長が、素早く僕を捕らえて床に座らせた。


「あ……」

「んもうっ、長ったら!」

「いいでしょう? 彼の伴侶は未来永劫あなたなのだから……食餌くらいさせなさい」


 委員長の美しい犬歯が僕の首筋に迫ってきた。血を吸われる快感を思い出し体が震える。が、それと察した先生が、僕の手首を掴んだ。


 ずぶり、ずぶり――。


 ぼくは二人の美しいけだものの前に跪いた。

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