おふくろの味はだれの味?

山南こはる

第1話

 しょうゆ、酒、みりん。あとほんの少しのめんつゆと、白ごま。


 これが私の中で、きんぴらの味を構成するすべてだ。


 ささがきのごぼうと細切りのにんじん。ごま油で炒めて、しんなりしたら調味料を入れる。汁気を飛ばすように炒め煮にし、最後に白ごまを振る。社会人生活にもひとり暮らしになれたころ、不意にきんぴらが食べたくなって、母にLINEをした。母はレシピ帳の一ページを写真に撮って送付してきた。手書きでもなんでもない、主婦向けの雑誌の切り抜き。


 母のきんぴらごぼう。てっきり祖母から、あるいはさらに曽祖母から、代々受け継がれてきた『おふくろの味』だと信じていた、きんぴらごぼう。我が家のきんぴらは雑誌の味だ。うちの母の『おふくろの味』は、主婦向け雑誌の片隅に書かれた、ほんの小さな味だった。わたしがそれを知ったのは、二十三歳の秋だった。






 その母が死んだ。


 母にがんが見つかったのは、その翌年の二月。私も仕事が忙しくなり、まめに顔を出すのは困難だった。父が交通事故で死んで以来、女手ひとつで私と姉を育ててきた母。高い学歴も満足な職能も持たず、パートの掛け持ちで家計を支えてきた母。その母が死んだ。実家を出てからというもの、母の手料理の味など、すっかり忘れてしまった。


 母。


 結婚を考えるような関係の彼氏ができたり、ちょっとした『ていねいな暮らし』に目覚めたりした私は、以前に比べてキッチンに立つことが多くなった。煮物、焼き魚、あるいは野菜料理。いろいろなレシピを調べ、作り、味を比べた。ものによっては、とくに肉じゃがなんて、母より上手なものができるようになったと思う。


 でも、きんぴらだけはダメだった。どうしても、母と同じ味にはならない。しょうゆ、酒、みりん、そしてほんの少しのめんつゆ。分量は間違っていない。手順も、野菜の切り方も合っている。なのにきんぴらだけが、母の味を超えるどころか、それ通りにもならない。


「寒っ……」


 窓を閉めた。なびいていたカーテンが踊るのをやめる。秋は深まっている。そろそろきのこやサツマイモがおいしくなる。柿もいい。母はそんな自然ながらの野菜を、料理するのが好きだった。姉はとなりに並び、母の手伝いをするのが好きだった。

 でも、私は。


「……」


 今週の金曜日、それから来週の日曜日は有給をもらっている。理由を聞かずとも、こころよく送り出してくれる上司や同僚。私は周囲の人に恵まれている。踊るのをやめたレースのカーテン。夕日が差し込み、部屋は鮮やかなオレンジ色に染まる。飾られたサボテンの影が、ひどく大きく見えた。


 母の四十九日。これでとりあえず一区切り。

 私のきんぴらごぼうは今もまだ、母の味には届かない。






紗奈さなちゃん!」


 ロータリーの中で、ダスティピンクの軽自動車が私を待っていた。運転席から手を伸ばす姉。葬儀の時はやつれていた頬も、すっかり丸みを取り戻している。


「こっちこっち!」

「待った?」

「ううん、ぜんぜん」


 私は助手席に乗り込んだ。車内は寒さこそないが、暖気もない。きっとエンジンを切っていたのだろう。姉は昔から、ウソや隠しごとが上手くない。


「コウとユナは元気?」


 姉の子ども、私の甥と姪である。姉の夫は地元で消防士として働いている。


「うん、元気元気」

「今はどうしてるの?」

「ふたりとも学校と幼稚園」


 後部座席のチャイルドシート。座席に投げ出されたアンパンマンの絵本。窓ガラスに貼られたポケモンのシールと目が合った。


「大丈夫よ、今日は旦那が見ててくれる」


 ゆるやかなアクセルとともに、姉の車はすべり出す。私は窓の外を見て、


「なんか、ずいぶん変わっちゃったね」

「そうかもね。ずっといると、分からないけど」


 姉は地元を出たことがない。高校を卒業して地元で働いたのち、ほんの数年で結婚してしまった。はたして彼女に、東京に出るとか大学に行くとか、そういう選択肢があったのかどうかは謎だ。もしかしたら母の苦労を察して、進学を断念したのかもしれない。姉と私はそういうことを、腹を割って話したことは、一度もない。真実を知るのが、怖かったのだ。


「何か食べたいものは?」

「ううん、べつにない」

「じゃあ、ファミレス行きましょ」


 何もない、がらんどうの国道。畑や田んぼに混じり、時おり思い出したように飲食店や店の看板が立つ。どの店も大きな駐車場とドライブスルーがある。車を持つことが前提の田舎。ペーパードライバーとなってしまった私は、おそらくこの地で暮らしていくことは、もうできない。


「こんなところに、ファミレスなんてあったっけ?」

「去年、できたばっかりなの」


 地方とはいえ、国道にはまばらに車が走る。姉は慣れた風にウィンカーを出し、ファミレスの駐車場へと左折する。ピロティ構造の建物。一階は駐車場、二階は店舗。東京都心にはこんなお店、ほとんどない。

 それでも全国展開のチェーン店だ。店の中はふつうのファミレスである。自分の知らない街になりつつある地元に、わずかでも見慣れた風景の面影を見て、私はホッと胸をなで下ろした。


 金曜日、遅い昼食の時間。私はトマトとなすのスパゲッティを、姉はネギトロ丼の御膳を頼んだ。ドリンクバーから持ってきた、生々しい緑色のメロンソーダ。シュワシュワと立つ泡の向こうで、姉が笑っている。


 私より四歳上の姉。まだ三十歳にならないはずなのに、ずいぶん老け込んでしまった。私は姉と同い年の同僚の顔を思い浮かべた。笑顔で送り出してくれた先輩。東京で華やかな生活をする同僚と、寂れた田舎で家庭を持った姉。表を通る車の振動が、ボックス席まで響いてくる。


「東京での生活はどう?」


 姉は会うたびに、かならずそれを訊いた。


「べつに。変わらないよ。仕事と家の往復」

「何もないのがいちばんよ」


 私も上京してまもなくは、いろいろなことを語って聞かせた。でも今はもう、話すようなことは何もない。姉は家庭を持って老け込み、そして母は死んでしまった。母、姉、そしてわたし。ほんの少しの何かがなくなって、家族のかたちはこんなにも変わってしまった。


「ねえ、お姉ちゃん」

「なに?」

「お姉ちゃんは『おふくろの味』、どれだけ作れる?」

「なに? 藪から棒に」


 それでもみそ汁のわかめをすくう右手を止めて、姉は考える。


「そうねえ、肉じゃがでしょ。筑前煮でしょ。あとはかぼちゃの煮物……。やだ、こうやって考えてみると、煮物ばっかりね」


 空調が私の後ろ首を直撃する。風が少し、冷たかった。


「お母さんと同じ味に作れる?」

「かんぺきに同じかどうかは分からないけど……。でも、ほとんど同じに作れるとは思う」


 姉はみそ汁をすする。姉の箸の持ち方は美しい。店員を呼ぶベルの音が、賑わっていない店内に響き渡る。


「お姉ちゃんは、お母さんのレシピ帳、見たことある?」


 母。料理上手だった母。子どもふたりを養うために、必死に働いてきた母。手荒れでボロボロになった手。それでも暖かかった手。若さを失った横顔、穏やかな笑み。東京に出て行ってしまい、ろくに顔も出さなかった下の娘のことを、母はいったい、どう思っていたのか。


「あるわよ。何度も」


 姉は母にとって、かわいい子どもだったはずだ。お手伝いの大好きな、しっかりもののお姉ちゃん。対して私はどうだった? 手のかかる子どもだったのではないか? 母の手伝いなんてこれっぽっちもしたことがなくて、レシピ通りに作っても、母のきんぴらごぼうを再現できない。私はどうしようもない娘なのかもしれない。おふくろの味すらも再現できなくて、そして忘れていく。


「……」


 スマートフォンを取り出し、写真を見せた。きんぴらごぼうのレシピのページ。雑誌の切り抜き。暗い黄緑色の背景。おしゃれな白い小鉢に乗ったきんぴらごぼう。祖母や他の誰かから受け継がれたわけでもない、ただの雑誌の切り抜き。


「お母さんのきんぴらごぼう。このレシピで、間違っていない?」

「ええ、そうよ。そのレシピ。今でも貼ってある」


 姉はストローでオレンジジュースを吸う。不透明の液体。太陽の色のジュース。

 私は言った。


「お姉ちゃん、私……。この通りに作ってるんだけど……。どうしても、お母さんと同じ味にならないの」

「どれどれ?」


 姉の手が、私のスマートフォンを取り上げる。左手の薬指に光る指輪。母のガサガサに荒れた手にも、結婚指輪だけははまっていた。

 私の手は、小さく震えている。


「……」


 姉は目をすがめた。右手の箸を置き、画面を拡大させる。ややあってから、


「そりゃそうよ」


 かんたんなひと言。私はメロンソーダを吸うのを止めた。ストローの途中まで上がってきた緑色が、グラスに戻っていく。


「どういうこと? だって、きんぴらごぼうのレシピ、他にあるの?」


 何かが足りない。でも私は、その何かが何なのか、自分では分からない。


「愛情よ、愛情が足りないの」

「――え?」


 ふざけた答え。ロマンチックすぎる答え。

 だが姉の顔は真剣だ。いつもはのほほんとしている彼女が、こんなにも真剣な顔をしているのは、はじめて見た。




「かんたんな話よ」


 食後、姉はコーヒーの水面をスプーンでくるくるかき回した。溶けていく砂糖。私の目の前で、まだ飲み終えていないメロンソーダのグラスが、小さな泡を立てている。


「紗奈ちゃん、あなた、甘いの好きでしょう?」


 とくに煮物。


「……」


 その通りだ。私はおかず類、とりわけ煮物は甘い方が好きだ。肉じゃがも筑前煮もかぼちゃの煮物も、母の味付けより、心持ち甘いかもしれない。


「だからよ。あなた、昔、にんじん嫌いだったでしょう?」

「うん」


 ふつうに、それも好んで食べるようになったのは、割とつい最近だ。


「お母さんね、紗奈ちゃんが少しでも野菜を食べてくれるように、って……。だから野菜の入っている料理はいつも、ほんの少し、砂糖を多めに入れてたのよ」


「砂糖……。多めに」


 しょうゆ、酒、みりん。そしてほんの少しのめんつゆと白ごま。


 私の中で、きんぴらごぼうを構成していたのはそれらがすべてだ。その中に、ほんの少しの砂糖なんてものは入っていなかった。野菜嫌いの娘を思う愛情も。東京に出て行ったきり、満足に帰ってこなかった娘に対する愛情も。


「……」


 目から何かがこぼれた。目尻を伝う、母への想い。レシピ通りではなく、ほんの少しの砂糖を加える母の背中。おふくろの味は、雑誌の切り抜きの中にあるのではない。ちゃんと母の想いの、母の心の中にあったのだ。


「ちょ、ちょっと! 紗奈ちゃん?」


 とつぜん泣き出した妹を前に、姉は狼狽する。それでもこぼれていく感情は、私自身も止められない。

 母の背中を見るのが好きだった。厨房に立つ母、お裁縫をする母、宿題を見てくれる母。私が大きくなっていくにつれ、次第に小さくなっていく母。やせた母。水色の病衣の母。点滴の台とともに歩く母、車椅子に乗った母。


 そしてベッドに横たわり、動かなくなった母。


 母は何を思っただろう。手のかかった娘のことを、反抗期で家にいつかなくなった娘のことを。さっさと東京へと出て行った娘。たまにしか帰ってこなくて、そしてまたすぐに都会へと戻って行ってしまう娘。

 振り返らなかった私の背中を見て、母は何を思ったのだろう。


「……」


 心の中が、後悔と煮物の味で真っ白になる。姉が困ったように微笑みながら、コーヒーに砂糖を追加する。


 こぼれていく砂糖。そのほんのひとさじの中に、私の母の愛が、おふくろの味が、ひそやかに眠っている。


「……きんぴらごぼう、食べる?」


 明日は四十九日。これから用意することはたくさんある。姉の言葉に、私は首を振る。


「大丈夫……。東京に戻ったら、自分で作る」


 しょうゆ、酒、みりん。ほんの少しのめんつゆと白ごま。


 加えられたひとさじの砂糖を思いながら、私はメロンソーダの残りを吸った。

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