水槽の中の世界

七紙野くに

水槽の中の世界

 始めよう。これは私という人間が形成される過程の半昔語りだ。


 水槽の中に様々な生き物がいる。ペンギン、しろくま、パンダ、ライオン、色とりどりの鳥や魚、水浴びをする象。皆、親指の先ほどの大きさで、それぞれ食い合いをしている。水槽の蓋は開けられない。だから餌を与えるわけにもいかない。水槽内では殺され食い千切られるものもいれば新しく生まれる命もある。私はただ見ている。毎日、見ている。内部への干渉は許されない。今日もハイエナにたかられている死体がある。


 いつからだろう。このミニチュアの世界が私達姉妹の部屋に置かれる様になったのは。私は暇があれば水槽を覗き込むのだが姉は全く興味を示さない。


「好きね、よく飽きないわね」


 私から言わせれば、こんなに不思議な硝子ケースが平然と居住空間に存在するのに無視出来る姉の方が余っ程おかしい。


 親は学校の成績を気にしていた。最近、私の成績は著しく低下しており、度々、学校に呼び出され、「面談」という名目の説教が行われる。


 ある日、父が突然、部屋に入ってきた。その時も私の視線は水槽にあった。


「おまえが勉強しないのはこの水槽の所為だ」


 父は持っていた金槌を水槽の側面に叩き込んだ。丈夫な水槽だったが数センチの穴が空いた。


 水が流れ出ている。床で魚がピチピチと跳ねている。動物達はぞろぞろと穴を潜り、部屋を歩き出した。


 父はその様子に気付かないのか、或いは意図して気付かないふりをしているのか、こちらだけを真っ直ぐに見据え怒りのトーンを上げる。


 姉は一瞬、呆れ顔を私達の方へ向けたが、関係ないことだとばかりに平常運転を続ける。


 私は兎に角、早くその場を収めようとした。父や姉の視界に水槽や水槽内の住民が入っていないのは明らかだったので、「片付ける」のは私しかいない、と悟ったからだ。


「お父さん、ごめんね。今日からきちんと勉強するよ」

「みんなにも置いて行かれない様にする」

「直ぐには無理かも知れないけれど、テストも頑張るよ」


 在り来たりな言い訳を並べ、収束を図った。


 風呂場から洗面器を持ってきて魚を集める。歩き出した動物達はガムテープで穴を塞いだ水槽に戻す。一部はもう見付からないだろうが、それが何で、どのくらいの数なのか、見当も付かない。


幸い噛み付かれることもなく、拾える生は全て拾った。


 しかし困ったことになった。水槽の穴を修復する手立てはない。結界を破られた水槽内に元の秩序ある自然が戻るとも思えない。


 私は貯金箱を割り、床から集めた全てのお金を持ちペットショップへ直行した。可能な限り似た形、似た大きさの水槽の中から、買える物で一番、高額なものを選んだ。小学生には少し大きかったが何とか家まで運べた。


 バケツに「生き残った」動物を移し、穴の空いた水槽の水を新しい水槽へ入れた。元の環境に近い方が良いだろうという判断だ。陸地も適当に移動、造成し、ジャングルも砂漠も草原も再生した。


 新たなる大海へ魚達を帰す。バケツの住民も適当と思われる場所へ案内した。


 硝子の蓋を閉める。封印だ。上手く行けば水槽の中の世界はまた勝手に動き出す。


 数日が経った。水槽の中には小学生の工作だけが残った。生き物達は消え失せ亡骸さえない。


 何日か必死に水槽に目をやっていた妹を姉が馬鹿にした様に言う。


「どう、直った?」


 私はどうして、あの世界を取り戻したかったんだろう。何故、あの世界に惹き込まれたのだろう。


 私の成績は僅かだが向上し、中学、高校、そして大学へも進めた。人並みに泣き笑い、恋愛も経験し、小さな会社の事務員となった。


 

彼が長方形の段ボールを抱えて来た。


「誕生日おめでとう」


 開けるとあの世界があった。


「あなた知っていたの?」

「何を?」


 全く会話が噛み合わないところから察して本当に知らないのだろう。では何故これを。それに何処で手に入れたのか。


 私は少しの間、考え、何も訊かないことにした。だって世界が手元に戻ってきたのだから。


 それから私は時々部屋の水槽を眺めた。「時々」だ。常時、水槽に気を取られ、彼の気分を損ねたら大変だ。今度は窓から投げ落とされるかも知れない。


 何年か経過し、私達は結婚した。二人のこどもにも恵まれ、幾らか成長した彼らに部屋を与えた。


 部屋には水槽を置いた。


「ずっと見てちゃ駄目よ、この水槽は何もしなくても大丈夫だから、ほったらかして良いの」


 心配は杞憂に終わった。彼らが水槽に関心を抱く素振りはない。


 だが一人、ここに危険な人物がいる。私だ。彼らが学校に行った時間を見計らい、水槽の前に佇む。ミクロの生物達の営みに心奪われていく。


「いけない、今日の予定は」


 今のところ日常優先の平穏な日々だ。水槽の中の世界同様、私の世界も回る。


「頑固親父に穴を空けられないようにしよう、私の世界は」


 窓からの陽射しを浴びる水槽を横に、そう誓った。


 どうだっただろうか、私の半生は。少しの魔法を含む、この話を信じるか、大人に成り切れない女の白昼夢と看做すか、貴方次第だ。

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