第十二話 店主が柔和な笑みを浮かべる。

 ねえ、おうさま。


 わたし、陸に行ってみたいの。


 おうさまが行っちゃダメだって言うから、ずっと我慢してきたけれど。


 おうさまは知ってる? 此処の天井は陸だけど、陸の天井は空って言うのよ。


 空は綺麗な水色で、橙色の太陽が陸を照らして、夜になったら今度は月が夜空を彩るの。


 陸のみんなに教えてもらったわ。


 此処を「海」と呼ぶことも、上には空があることも、空の上に宇宙があって、銀河があることも。


 ねぇ、おうさま。わたし、太陽を見てみたいの。


 ……寂しい。


 ひとりぼっちは寂しい。


 でも、みんなが戻りたがってる。




 * * *




 魚月なつきが目覚めた頃には既に頭の真上に日が昇っていた。

 こんな昼まで寝るようなことは滅多に無いはずだと思ったところに、ふと昨夜のことが薄っすらと頭をよぎる。確か、京子きょうこと散歩に出たのだ。

 昼間の賑やかさとはかけ離れて、異様に静まり返る普段通りの夜だった。


 また、あの声がした。


 まるで鳴くことを忘れたカナリヤのような、綺麗だけれど細すぎる声。

 なんと言っていたか……。


友達みんなが戻りたがってる』


「……友達みんなか」

 寝起きだからか、掠れた声が魚月の喉を震わせる。

 最近はいつもこうなのだ。

 少女の声が聞こえ、目の前が暗闇に包まれる。

 完全な暗闇ではなくて、青の混ざった、――深海のような闇。

 その闇の向こうで白く大きな何かが旋回していて、すぐにそれが少女の声が言う「おうさま」だと気付いた。

 人間ではない動物じみた瞳が魚月を捕らえる。それの話す言語は理解出来ないが、明らかに誘われていた。

 お前も来いと。

「嫌だね」

 掠れた声を覆うように首に手を置き、魚月は嘲るように笑ってやる。そうでもしないとまた惹き込まれそうな気さえしたのだ。

(確かに俺は、そちら側に近い存在かもしれんが。海に還るにはちょっと早過ぎるな)

 首にやった手でそのまま顔を覆い、長い溜息を吐く。兎に角、疲れていた。

 「珈琲でも飲むか」

 目覚めの悪い朝に珈琲は持ってこいだ。勿論、目覚めの良い朝でも良い。

 嗜好品にしては些か崇拝にも似た飲み物を調達すべく、覚束ない足取りでキッチンへと向かった。寝起きはどうも身体が鈍る。



「おや、まだ居たの」

 短い板張りの廊下を抜けて扉を開くと先客がいた。邪魔なのか、いつもは緩く纏めるだけの茶髪を今日は高いところで結い上げている。稀に見るポニーテールだ。

「おそよう魚月。『まだ』っていうのは私の言い分だよ。良かったね、今日が定休日で」

 店主が柔和な笑みを浮かべる。

 見慣れた表情かおに安堵しつつも、返ってそれが魚月にとっては少々心苦しかった。何とか言葉を選びながら会話を続ける。

「仕事ならちゃんと起こしてくれるからな珈久さんは。…………ところで……あの…………昨夜はまた迷惑をかけた。礼も言わずに寝込んでしまってすまない」

「あれは迷惑のうちに入らないよ」

 間を置かずに珈久が返す。

「ひょっとしてまだ寝ぼけてる? ほら、珈琲、飲むでしょう」

「あ、うん」

「魚月はブラックでいいね、私もその気分だ。京子さんは甘い方が好きだから砂糖を……」

「京子さん? また来てるの?」

 昨晩は随分と遅かったはずだ。魚月もさっき起きたばかりなので、てっきり今日は来ないだろうと思っていた。それに定休日でもある。

 そうやって魚月がひとり逡巡していると、珈久はさも当たり前の様にあっけらかんと言ってのけたのだった。

「京子さんは昨日から帰ってないよ」



 キッチンを抜けて客席に向かうと、確かにそこには京子がいた。

 二人分の椅子を並べて良い具合に寝具にしている。座部に収まらなかった蜂蜜色の長髪が零れ落ちて、ユラユラと揺れた。どうやら魚月と同じく寝坊助らしい。

「京子さんがそれでいいなら私もいいんだけどサ」

 初めて見る京子の寝顔にどこか新鮮さを感じながら、魚月と珈久は海が見えるカウンターに腰を下ろした。

 海面を陽の光が反射して宝石のように煌めく。白と青のコントラストが目に痛いくらいで、けれど、それすらも愛おしい。

 しばらく二人は無言のまま外の様子を眺めていたが、不意に魚月が潮の匂いを拾った。


 ……ああ、海だ。


 雨には雨の匂いがあり、土にも土の匂いがある。それと同じように、海にも海の匂いがある。

 生き物の匂いだ。

 生き物の、地球の匂い。



 だが。



「…………変だな」

 珈久が顔を上げて目を細くする。

「変って、何が」

「匂いだよ。確かに海の匂いには違いないけれど……しお……いや、これは……いそか」

 珈久はそう言って天井を見上げた。

 深呼吸を繰り返し、何度も確認するかのように息を飲み込む。

「潮の匂いも磯の匂いも、意味合いは大して変わらないけれど、私の中では区別を付けていてね、言葉は多様なほど素敵だから──いわゆる『磯臭い』っていうものの原因は、死んだ海の生物なんだ。海の生き物の、腐敗臭」

「……つまり?」

「この港の海の匂いじゃないってことだよ。確かにここには貨物船は来るけれど、漁船はもっともっともっと奥の船着場だ。この近くにはホテルだってあるし、匂いには一番敏感でそれなりに綺麗にしてある。第一……私たちこの部屋の窓を開けてないでしょ?」


 つかの間。


 視界の端に白い何かを捉えた。

 木綿のように見えたソレは、よくよく観察するとひとつの見慣れた生き物の形を成していた。否、珈久曰くソレは に当たるのだろうか。

 魚月が大きく目を見開いて呟く。

「リュウグウノツカイ……! いや、空遊魚くうゆうぎょだけど……けどまだ昼だぜ、なんでこの時間に……」

「私にも可視化できるってことは《大物》ってことかな。普段雑魚は見えないからちょっと嬉しいかも」

 傍らでほくそ笑む珈久を後目に、魚月は目の前の客を凝視した。確かにリュウグウノツカイの形状を模した上で白色で淡く光る空遊魚の特徴も満たしている。変なのは出現する時間帯だけか。

 空遊魚と名付けたそれらは、通常黄昏時の《向こう側》と《こちら側》を繋ぐ境目が曖昧になると言われている時刻に発生する。《浮世》と《常世》の関係に近い。

 何はともあれと現状を整理しつつ様々な可能性を弾き出していると、それも終わらぬ間にリュウグウノツカイは少しずつ肥大し始め、形を変え、骨格を変え、気が付くと大蛇になっていた。

「……こういうことってよくあるの?」

 珈久が問う。

「……こんなものが頻繁に跋扈してちゃ堪らないよ」

 魚月が応えた。

 大蛇から一層強い磯の匂いが漂う。確かに海の腐敗臭だ。魚月はともかく珈久はあまり得意でない。

 大蛇は何かを探すように首を動かし、京子を捉えたと思った瞬間パクリと頭から呑み込んだ。


 一寸の沈黙。


「ちょ、ちょっと!!」「嘘でしょ!」

 それから叫んだのは二人同時だった。

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懐古屋浪漫 喜岡せん @yukiji_yoshioka

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