第十一話 あんたと同じ目の色だ
営業時間はとっくに過ぎているものの、店主がいる限り喫茶店の明かりは消えない。
自動車が道路を走る音を何となく聞き流しながら、珈久は手元の新聞を捲った。
「最近よく海に落ちるんです」
へぇ、と京子が返す。
「何かに呼ばれているんじゃないかなって、私は思うんですけどね。まだ港近くは足が付く深さだから笑い話で済むんですけど。魚月は何も覚えてないって言うし」
「夢遊病って言うやつじゃ」
「どうでしょうか……ところで、ご自宅には帰らなくても良いんですか?」
「良いの良いの。誰もあたしの事なんか気にもしないよ。こーんな
そうですか、と珈久が呟いた。何を思うのか、少しだけ悲しそうな顔をしている。
三十分近く前に海に落ちた魚月はずぶ濡れのまま店に戻るなりそのまま店の奥に引っ込んでいた。それきりまだ出てきていない。
「店主さんこそ休まなくて良いのかい」
「お客さんをほったらかして引っ込んではいられませんので」
「……ふふ、そうかい。それじゃあしばらく付き合って貰おうかな。ねぇ、ハニーミルクが飲みたいんだけど」
「……貴方って人は……それになんでメニューに無いものを頼むんですか」
あたしが飲みたいからさ。京子はいたずらっ子のように笑って「早く早く」と足をばたつかせた。
数分後。
珈久は二人分のハニーミルクが鍋で煮立ったのを確認して、店の食器棚とはまた別の小さな棚の中からカップを二つ取り出した。
ひとつは白地に青色の円が連なった模様、もうひとつは綺麗なライトグリーン一色。後者は京子が家から持ち出していつの間にか店に置くようになったものだ。勿論、京子以外は誰も使わない。
互いのカップを二つ抱えて厨房を出ると、京子は海際のテーブル席で外を眺めていた。
「お待たせしました」
「悪いね、付き合ってもらって」
「今更です。何を見てたんですか」
珈久が問いかけると、外から目線を外してニンマリと笑って言った。「何も」
そうやって意味ありげに笑う仕草がどこか子供のようだと思いながら、珈久はカップをテーブルに乗せ、京子の向かい側に座った。
京子がライトグリーンの取手を掴みゆっくり口元に運ぶ。ほんの少しだけ含んだ後、またテーブルに戻し、しばらくそれを繰り返した後、京子はおもむろに話し出した。
「あたしにも旦那がいてさ」
彼女の口から初めて聞く言葉だった。
何と返すのが正しいのか決めかねていたが、京子はそのまま話を進めた。
「異人なんだ。あの頃は見たこともない真新しいもので溢れかえっていたけれど、まだ都会よりも整備が進んでない田舎じゃあの人の稲穂みたいに綺麗な金髪と妙に嫌な洋装は酷く目立っててね。いつからあたしらが仲良くしてたのか全然覚えてないけどあたしがある時何処かの雑貨屋でこいつを見つけてさ、『あんたと同じ目の色だ』って言ったら、買っちまったんだよ」
京子は両の手でライトグリーンのカップを大事そうに抱えて、目元に優しさを浮かべた。
「いいんですか、そんな……大事な物を此処に置いてて」
──そんな大事な話を私にして。
「いいんだよ、……いいんだ、今夜はそんな気分だったんだ」
京子は、ほぅ、と一息ついてまたハニーミルクに口をつけた。
彼女の話はまだ少し続いた。
「──あの人だけだった、あたしと目を合わせてくれたのは。その時初めて自分の、この、奇怪な髪色が美しいと思ったんだ。あの人と同じ稲穂みたいな色。それから閃いたんだよ。
みんなあたしが羨ましかったのさ。
ないものねだりって言うだろう。自分には一生かかっても手に入らない物は、諦めるか自分より蔑むかしか方法を知らないからね。……そう思ったらみーんな滑稽に見えた! ……あっはっは、なんだいその顔は」
「いや……嬉しそうだなと」
「嬉しいさそりゃ。嬉しいし楽しい。ついでに皆が言うように何か物の怪が憑いてくれてたらなお楽しかっただろうな、残念だ」
京子はそう言い切り、いつになく面白そうに笑っていた。
窓から見える街灯がちらちらと点滅し、目を凝らすと淡い色をしたヒレの長い深海魚があちらこちらを廻っている。
午前三時を回っただろうか、珈久は時計を見ようとして止めた。たまには「時間に縛られない時間」を過ごしても良いと思った。
夜は全てを包み込み、全てを隠してくれる。
闇に溶け込んでしまえば誰も彼も判らなくなり、世界には自分ひとりしかいないような気さえしてくる。乗じて姿を晦ませば容易に消えていけるのに、彼女は夜明けを待ち続けた。
そうして、夜が明ければ陽の光を一番に吸い込んで、誰よりも清く、強く、輝き続けた。
「京子さんは、お綺麗ですね」
彼女の強さはあまりに美しい。
「彼らに賛同するつもりではありませんが…………私も、羨ましいと思いますよ」
京子からの返事は無く、代わりに穏やかな寝息が聞こえた。
ライトグリーンのカップの中はいつの間にか空になっている。
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