第十話 分かったと言っているだろう

「ひとつ解ったことがある」

 京子きょうこは言った。

「こいつらとは会話が成り立たない」




 ◇◇◇




 潮の匂いが交じる夜風が吹いていた。ぽつぽつと点在する街灯が所々を照らし、海の生き物たちが辺りを浮遊している。──正確には生き物かどうかは分からないけれど。


 「空遊魚くうゆうぎょ」は夕方になって現れる。

 夕暮れ前に言った京子の「海のあいつら」と珈久の「海のあの子たち」とは、往々にしてこの空遊魚のことだ。

 夕暮れ時になると桃色の小魚が海面から姿を見せ、次第に真っ白の深海魚が飛び出してくる。それから薄い碧のクラゲだったり、真夜中になれば暗い影のようなザトウクジラが港を優雅に泳ぎ始めるのだ。


 空で遊ぶ魚。ゆえに空遊魚。


 近づけば逃げ、触れればシャボン玉のように消える空遊魚かれらについて科学的に証明されているものは一切無い。

 突然現れたものなのか。

 懐古出来るほど昔から存在するものなのか。

 はたまた誰かに作られた存在なのか。


 唯一分かることと言えば、港でしか発生せず、万人に見える訳では無いということだけ。

 それも「他で見たことが無かったから」という曖昧なものに過ぎないのだ。


 結論、何も解らない。


「──いや、何かを言っているってことは解るのさ! ただ、言葉がしっちゃかめっちゃかで意味が理解出来ない!」

 京子は声を張って、遠くに腰を下ろしている友人に告げた。新緑色のスカートが海風になびく。

 あちらこちらを泳ぐ空游魚に悪戯に触れては霧散させる京子の後ろに、昼間とは違う服飾の魚月なつきが控えていた。夜をそのまま落としたような色の羽織は相変わらずだが、その下は紺色の浴衣で、足元は現代に似合わない下駄を素足で履いていた。耳飾りがチリリリと鳴いている。

 京子とは違って彼らの声が聞こえない魚月は、少し離れた場所から彼女の奮闘と空游魚の様子を微笑ましく観察していた。正直こちらからは物言わぬ玩具に必死に会話を試みようとしている風にしか見えないので、微笑ましい程度を通り越して滑稽とすら感じている。

 

「ねぇ、ちょっと其処のあんた。……おっと、振り向いた。そうそう、あんただよ。あああんまり近づくとあんたの方が弾けちまうから……なんだい、話が出来るやつもいるじゃないか。――ちょっと訊きたいことがあるんだけどさ………………え? 羊羹が食べたい? 知るかいそんなこと―――ってちょっと! 何処行くのさ! ………………ああもう」


「ねぇ坊主、ちょいと話があるんだけどさ……はいはい、ああ、愉しい旅行だったんだね、それより……ん? 人探し? お母さんとはぐれた? そりゃ難儀な…………………あ、消えちまった………………」


「うんうん、そうかい………………ああ、よく分かった。分かった、うん、あんたの言いたいことはよく分かった。……分かったと言ってるだろう、落ち着け、分かったから」




◇◇◇




 潮風が頬を撫でる。自分の何倍も大きい黒い影が目の前を通っていった。

 船着き場とほど近い場所にある遊歩道を肩を並べてとぼとぼ歩き、目先の長椅子に腰を掛ける。

 寄せては返す波の音がやけに近い。

 暗闇に目を凝らすと、正面の岩場に白波が立っているのが見て取れた。今は顔を出している岩場だが、満潮時には全て浸かってしまう。

 眼前に気を取られていると、足元を白くて長いものが通った。あれは確か―――リュウグウノツカイ。

 浮世では滅多に姿を見せない彼だが今のこの港では珍しくなく、この時間は見かけることも多い深海魚だ。

 白く美しいヒレが遠くに消えていく。空游魚には淡水も海水も、浅瀬も深海も関係ないらしい。

 ふぅ、と短い溜息が京子から漏れた。

「期待なんて初めからしてなかったけどさ」

 空游魚が残留思念のようなものに過ぎないことは、彼らの言葉が聞こえる京子が一番良く判っている。


 ──だから、これは、当然の結果だ。


「……仕方ないな」

 何かを吐き捨てるように呟き、京子はおもむろに時計塔の方を見やった。

 一体どれほど長く彷徨うろいていたのだろう。

 京子は目を細め、針を読もうとして──止めた。

 どれだけ凝らしても時計塔のシルエットしか判らなかったからである。

 昼間はよく見えるが、ほのかに淡く発光する空遊魚と歩道しか照らさない街灯程度の明かりでは時刻を知らせる鐘すらも判別できない。

 さすがに日付までは越えていないだろうが、隣で俯く友人への申し訳なさが募っていく。

「済まないね、魚月。こんな遅くまで付き合わせてしまって」

 波の音を心地好く聞きながら魚月がぽつりと呟いた。






「…………海」






「ん?」


 音も立てずに魚月が立ち上がった。

 それからカタリ、カタリ、と下駄を鳴らす。

 舗装されたコンクリートを跨ぎ、海沿いの岩で作られた階段をりると、


 足音がゴトリ、と変わった。


 羽織がはためく。金色の耳飾りが月光を反射して優美に煌めいた。


 夜目にも判るほどの飛沫が上がり、海水が跳ねる音が響く。


 落ちた、と遅れて理解した。

 どうやら踏み外したらしい。


「いやいや、おいおいおい!」


 慌てた京子が海面に浮かぶ袖に手を伸ばした。

 浅瀬が幸をそうしたらしく、生身の腕を掴んで心底からホッとする。

「魚月、魚月、しっかりしな、どうしたんだい」

 年齢こそ離れてはいるものの、出会いから暫くは同じ時間を幾度か過ごした間柄だ。

 それでもこんなことは────突然入水自殺でもするように海に向かうことは、一度足りとて無かったはずだ。聞いたこともない。


 ──いや、自分が知らないだけかもしれないが。


 自身も膝下まで海水に浸かりながら魚月の肩を揺さぶった。

「……………………」

 力が抜けているのか、半身が水底に浸かっていても魚月は大して気に止めていないようだ。


「…………と」


 藍色の髪から雫が落ちる。


「友達……………の………………」


 魚月は焦点の合わない虚ろな目で遠く見つめた後、しばらくしてハッと思い返したように顔を上げた。

 困惑した表情の京子と顔を見合わせる。

 理由を尋ねる前に魚月が首を傾け、蚊の鳴くような声で言った。


「なんで俺……海に浸かってんの?」


「………………そいつはあたしが訊きたいよ」


 小さな桃色の魚が二人の間を旋回した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る