夜の湖に、篝火が揺れる。

 龍が告げていたように、里から迎えがやって来たのだ。

「おまえはどうするんだ、すず」

 藤吉がすずの隣に立ちながら、迎えの舟を待つ。

「龍神様はおまえが必要ってわけじゃねぇんだろ? だったらこんなところに居てもいいことなんかない。里に戻ってきたらいい」

「じゃが……」

 すずは俯いて視線を迷わせた。里に戻る。戻ったところで、何になるのだ。だがそれは、ここに残ったところで同じことだった。

 すずがやって来たときから、そうだった。龍は花嫁を求めていない。

 舟がなんの障害もなく辿り着いた。

「姫は……」

 すずは衣を握りしめたまま動けなかった。

「すず姫、はよう舟にお乗りください」

「姫は……」

 さくり、と背後で草を踏む音がした。すずがぱっと振り返れば、青年の姿のままの龍が立っていた。

「龍!」

 数刻ぶりに会う龍のほうが、すずにはずっと慕わしかった。駆け寄ろうとするすずを、龍は手で制する。龍の目が青く光っていた。

「花嫁などいらん。さっさと帰れ」

 水よりも冷ややかなその声に、すずは言葉が出なかった。ただ一言だけ告げると、龍は背を向けて去っていく。

 いらない。

 花嫁など、はじめから龍は求めていなかった。

「いや、嫌じゃ! 龍! 龍!」

 その背を追いかけようとすると、すずの細い腕は男に掴まれた。ずるずるとそのまま有無を言わせずに舟に連れて行く。

「嫌じゃ、姫は──」

 すずがどれだけ叫んでも、龍は戻ってこない。舟は無情にも進み、島はみるみるうちに遠くなった。




 里に戻るなりにすずは風呂に放り込まれ、磨き上げられる。肌触りの良い上等な衣を着せられて、長兄の元へ連れて行かれた。里長であった父は、五年前に地の女神のもとへ旅立ち、今は長兄が里長であると教えられる。

「……あにさま」

 長い黒髪をそのまま背に流し、机に向かって筆を握ったままの兄はちらりともすずを見なかった。すずの倍以上生きている兄は、昔から近寄りがたくおそろしかった。

「死んだはずのおまえが、まさか生きているとはな」

 ──死んでいるはずの。

 なぜ兄はそんなことを言っているのだろうか。すずの目に疑問が浮かんだ。まるでその目が見えているかのように、長兄は言葉を続ける。

「龍神の花嫁とは、つまり供物だ。若い娘を捧げることで、この里は龍の加護を得ていた。……おまえが無事に死ななかったから、このようなことになったのかもしれんな」

「このようなこと、とは……」

 兄は目を伏せた。

「先代が死んだ頃だったか。京では先の帝が討たれ、新王が即位されたと聞いている。その影響か、あちこちで戦が起きていてな。この里も幾度か巻き込まれた」

「いくさ」

 それまでの龍の里には、無縁の言葉だった。龍神の庇護のもと、この里は長く平和に暮らしていたのだ。京や帝など無関係に。近隣の里のなかではひときわ大きな里である。

「おまえには、帝に嫁いでもらう」

「……帝に?」

「娘を差し出すことで、帝の庇護が受けられることになっている。そのための、娘が要る」

 どういう理屈でそうなったのか、すずにはわからない。だが龍神と崇められていたのはただの偏屈な龍で、彼が里を庇護していたわけではないのは知っている。ならば、人は人の王に頼るしかないのだろう。一度は龍神に嫁がせ、死んだも同然の娘が戻ってきた。長兄にとっては好都合であったに違いない。

「……龍神の次は帝か。姫はつくづくめんどうなところへ嫁がされるのう……」

 苦笑しながら零すと、兄は眉間に皺を寄せた。ようやっと、兄はすずを見た。

「嫌だと喚いても無駄だぞ」

 すずが不平を漏らすとでも思ったのだろうか、有無を言わさぬ兄の声に、すずはただ苦笑した。

「いいや、あにさま。姫はもともと花嫁になるためだけに生かされた娘じゃ。……何も言うまい」

 もとより龍の里に、すずの居場所はない。いつか嫁ぎ、いなくなる者だったから。

 ただ、とすずは小さく零した。

「……京はきっと、あの島のようにあたたかくはないだろうの」




 すずに用意されていたのは、幼い頃に過ごした離れだった。

 その離れで一日二日と、ぼんやりと過ごしているうちに、すずの輿入れの準備は着々と進んでいた。今回の相手は帝だ。まさか龍神のときのように花嫁衣装だけを用意するわけにもいかない。

「すず、おまえは本当にいいのか」

 藤吉は時折すずのもとに顔を出しては、浮かない顔のすずに渋面していた。

「いいも何も……」

 そこにすずの意思などない。すずはそのための娘だ。曖昧に笑うすずに、藤吉はますます眉間の皺を深めた。

「七つで嫁がされて、死んだものと思っていたくせに生きてるとわかりゃあ連れ戻され、今度は帝の嫁だぞ。怒って暴れてもいいくらいだ」

「そう言われてみると、散々なもんじゃのう……」

 じゃが、とすずは苦笑いを浮かべた。

「姫は、そのために生まれたようなものじゃからのう」

 里長の娘は、必ず龍神の花嫁として龍の島へと渡る。それが古くからの決まりで、だからこそ里長は娘のひとりを龍神の花嫁として育てるのだ。

「大きな声じゃ言えないが、里長様は自分の娘を帝に差し出したくないだけだぞ」

 声を低くした藤吉に、すずは目を丸くした。

「なんと。いつの間にやら姪御が生まれておったのか」

「今年で七つだ。おまえが龍神様に嫁がされたのと同じ年だぞ」

 七つ。しかしただの娘がその年で帝に嫁ぐのはさぞ辛かろう。

「姫がまだ里の役に立つというのなら、仕方あるまい」

「あのなぁ、すず」

 呆れたような苛立つような藤吉の声に、すずは首を傾げた。

「役目だのなんだのは置いておいて、おまえ自身はどうしたいんだ」

 りゅう、とすずの心が小さくこうた。

 りゅう、りゅう。まるで幼子が呼ぶような声がすずの胸に響く。

「おまえ、本当にこのままでいいのか?」


 りゅう。

 あいたい。




 まだ夜半だ。部屋の灯りをつけず、すずは障子を開け月明かりだけを楽しんでいた。島での夜はそういうものだった。

「今夜は妙に冷えるのう……」

 季節は初夏。寒さよりも暑さが増す頃であるが、今宵は薄い夜着のままではぞくりと肌に鳥肌がたつ。

 凍えたあの夜、幼いすずは確かに死を覚悟した。体力も尽き、体温も奪われ、そのような状態で幼い子どもが生き延びることなど万に一つもなかった。

 しかし、目覚めてみれば、ひやりとした身体に抱きしめられていたのだから驚いた。平熱のすずにとっての龍の体温は冷たい。けれどそのぬくもりは確かにあたたかかった。以来、夜になると龍を探しては褥に潜り込んで困らせていた。

『俺に抱きついたところであたたまるわけでもないだろうに』

 おまえは馬鹿か、と笑われることもあった。鬱陶しいと邪険にされることもあった。

 それでも頑なに龍に抱きつけば、龍は諦めたようにすずを抱きしめてくれた。

 龍のそばはあたたかかった。与えられることのなかったぬくもりがたくさんあった。

 ぽたり、とすずの瞳から涙が落ちる。

「そうか」

 まるで他人事のように、流れ落ちる涙のあとを見つめた。畳の上にぽたりぽたりと、涙は染みていった。

「すずは、さみしかったのか」

 さむい、は、さみしい、だったのだ。

 りゅう、と呼ぶ。りゅう、りゅう。思えばすずは、龍の名すら知らないのだ。

 ぐ、と畳の上で拳を握る。昼間、藤吉から投げかけられた問いが頭の中で響いていた。

 握りしめた拳で、濡れた頬を拭う。離れに見張りなどいない。すずが逃げ出すなどと誰も思っていないのだ。

 与えられるだけ与えられ続け、求めることも知らぬ子ども。

「すずは……」

 月を見上げて、立ち上がった。

 夜着のまま離れを抜け出す。湖には舟があるはずだ。離れの庭を裸足で駆け抜ける。草履を探す暇も惜しい。何より履物が失せれば、すぐにすずの不在を気取られるだろう。

 石や草で足を切った。しかし不思議と痛みは感じない。

 舟を押して、湖に出る。漕ぎ方など知らないすずはとにかく見よう見まねで漕いだ。腕はすぐに疲れを訴えたし、体力は限界を告げる。すずの細腕に龍の島はあまりにも遠い。

「すず姫様!」

 里の方角からすずを探す声が聞こえた。びくりと肩を震わせて、それでもすずは舟を漕ぐ。

「りゅう」

 会いたい。

「りゅう」

 ただ、龍に会いたい。彼に触れたい。それだけだった。

 舟が追ってくる。赤い火がすずを追い立ててくる。

「龍!」

 藍色の空に向かって、すずは叫んだ。

 月が冴え冴えと光を落とす。星々が瞬いて夜空を彩る。そのなかに、青銀の龍が天へと伸びた。

「龍神さまだ……!」

 すずを追う者たちがざわめく。すずは不安定な舟の上で立ち上がり、天に手を伸ばした。

「すず!」

 追ってきた舟の上で、兄がすずを見ていた。

「すまんのう、あにさま」

 すずは笑って、兄を見つめ返す。


「すずは、人間の男などでは物足りぬよ!」


 なぜならすずは、龍神の花嫁であったのだから。

「龍……!」

 すずが呼ぶと、青銀の龍はまるで恭しく首を垂れるように舞い降りてくる。その首にすずが抱きつくと、再び天高く飛び、龍の島のほうへと消えていった。




 龍が降り立ったのは、すずが流れ着いたのあの場所だった。人の姿に戻ると、すずがしがみついて離れなかったせいでもつれ合うように湖へ落ちる。

「おまえ、何を考えてる。馬鹿か阿呆か」

 すずも龍もびっしょりと濡れてしまった。すずの下で呆れたような龍の姿は、七年前に出会ったときと同じ少年の姿である。

 馬鹿だとなんだと言いながらも、龍は来てくれた。すずの呼び声にこたえてくれた。

「そなたは相変わらずひねくれておるのう」

「五月蝿い。だいたい、今更何しに来た」

 こんな憎まれ口さえも懐かしいとは、とすずは内心で笑っていた。ふふん、と立ち上がり、月光を背に胸を張る。

 うつくしい花嫁衣装などない。髪を華やかに結い上げているわけでも、簪をさしているわけでもない。汚れた薄い夜着のまま、長い黒髪はびっしょりと濡れて肌に張り付き、手足には逃げ出したときの擦り傷がある。お世辞にもうつくしいとはいえないその姿で、すずはそれでも誇らしげに笑った。


「すずは、そなたの花嫁になりにきた!」


 龍が目を丸くしたあとで、呆れたように口を開く。

「言っただろう、俺は」

「ならばなぜすずの声にこたえたのじゃ」

 龍、とすずは呼んだ。

 七年前、湖に呑み込まれたときも、つい先ほども。いつだって龍はすずが心の底から呼んだときに応えてくれる。

 ぐ、と龍は反論を飲み込んで渋い顔をする。

「妻でもつがいでもなんでもよい。すずは、そなたのそばにいる」

「……物好きな娘だ」

 濡れた髪をかきあげながら、龍が嘆息する。

「そうじゃな。こんな捻くれ者に付き合えるのはすずくらいなものじゃろ」

 だから、とすずは笑った。

「観念して、すずと戀をしようではないか」

「やはりおまえは馬鹿か阿呆だな」

 心底呆れたように龍が口を開くので、すずはむ、と頬を膨らませた。

「言っただろう」

 ふ、と龍が笑みを零す。

「俺は、とうの昔に戀をしている」

 すずがえ、と言うよりも先に、龍の腕がすずを引き寄せた。ぱしゃり、と水飛沫があがる。

「だから、戀をするのはおまえだ、すず」

 目の前に龍のうつくしい顔があった。ほんの少しどちらかが近づけば口づけできそうなほどの距離だ。そんなことを思ってすずが顔を真っ赤に染めると、龍はますます笑みを深めた。いたずらを思いついたときの子どものような顔だった。

「覚悟はよいか? 花嫁殿」



 ふたりで。

 乞うて、恋うて。

 それがいつか、終わらない戀になればいい。

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こひぞつもりて 青柳朔 @hajime-ao

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