龍の島は大半が森で埋め尽くされた小さな島だ。その森のなかにひとつ、社がある。誰が建てたのか、いつからあるのか、すずは知らない。龍に聞いてみても知らぬ存ぜぬで教えてくれることはなかった。

「龍!」

 龍がまさしく龍の姿になるのを見たのは一度きり、すずがこの島へやってきた夜だけだった。あのままどこかへ行ってしまうのかと思ったが、龍は今も島に住みついている。


 あれから七年。すずは年相応に背も伸びたが、龍の姿は変わらず少年の姿のままだ。

「……五月蝿うるさい」

「かわいい妻が起こしてやっておるというに、五月蝿いとはなんだ五月蝿いとは」

 この島に人間はいない。いるのは偏屈な龍と、その花嫁のみ。そして──

「主は相変わらず、捻くれておりますねぇ」

「みずち」

 くすくすと嗤う声に振り返れば、糸のように細い目の男が立っていた。背は高く、二十四、五の青年の姿をとっているが、その正体はもちろん人ではない。蛇の妖だ。

「……おまえの主になった覚えもない」

「みずちも報われぬのう」

「いえいえ、すず殿ほどではございませぬ」

 みずちは、すずがやって来るよりも前からこの島に居着いてあれこれと龍の世話をしている物好きな妖だ。すずの衣食住もほぼみずちがやってくれている。

「そうじゃのう。もう少し妻を大事にしてほしいものじゃ」

「……誰が妻だ。子どものくせに」

「む。姫ももう子どもではないぞ。妻にするには十分な年頃であろ?」

 十四ともなれば既に初潮を迎え、嫁ぐ者も少なくない。すずにやさしかった三番目の姉もこのくらいの年頃で里の外へ嫁いでしまった。

「この姿の俺を子どもといったのはおまえだが」

「ええい、小さなことをねちねちと」

 七年前、里に戻るわけにも行かず、すずは島に残った。花嫁としてやってきた矜持もある。すずは、龍神の花嫁となるために育てられたのだ。いらんと言われて素直に納得することなどできるはずがなかった。

「いくつになろうと、俺からしてみれば赤子と変わらん」

「……そなた、いったいいくつなのじゃ?」

「さて、三百年を過ぎてから久しく数えてないな」

「とんだジジィではないか!」

 むう、とすずは頬を膨らませて抗議する。すずの隣でみずちは「はて、私はいくつでしたかねぇ」と呟いている。おそらくみずちもジジィに違いない。

「ジジィがこんな若い女子を嫁にできるのだぞ? 少しは嬉しそうにしたらどうじゃ」

 ふん、と馬鹿にするように笑う龍に、すずはますます頬を大きく膨らませて社から出て行った。その後ろ姿を見ながらみずちは微笑ましそうに目を細める。

「すず殿もうつくしゅうなられましたねぇ」

「……どこがだ」

 くすくすと笑みを零しながらみずちが告げると、龍は顔を顰めた。

「おやおや、すず殿が嘆いておられましたよ。近頃あなたが共寝してくれぬと」

「……添い寝が必要な歳でもないだろう」

「夫婦で共寝はおかしな話でもないでしょうに」

「夫婦じゃない」

 頑なに否定する龍に、みずちはますます笑うばかりだった。

「妙なことをおっしゃる。花嫁としてやってきた彼女を追い返さず、この社に連れてきたのは貴方様でしょうに」


 ──あの夜。

 すずがこの島に流れ着いた、あのはじまりの夜。

 濡れそぼり、寒さに震え、意識を失ったすずは、気がつけばあたたかい褥のなかで龍の腕に包まれるようにして眠っていた。あのままどこかへ行ってしまったかと思われた龍は、唇を真っ青にして倒れる子どもを拾い上げ、その子どもの熱が奪われないようにとあたためた。常人に比べれば冷たい龍の身体も、凍えたすずにはあたたかなぬくもりだった。

 縋り付くように龍の衣を握りしめ、すずが目覚めてみずちと対面するまでずっと、龍は幼いすずの傍らにいた。




「あんの偏屈ジジィめ!」

 島の鳥たちが驚いて飛び去るほど大きな声で不満を零しながら、すずは島のなかを歩いた。

「姫の何が不満じゃ! 姫は龍の花嫁にと育てられたのだぞ、そんじょそこらの娘よりずっと嫁に相応しかろうに!」

 やわらかな土はすずの足音を消し去るが、これが社の中であればどかどかとけたたましい音がしていただろう。

「……ん?」

 怒りに任せて歩いていると、ふと湖の傍に大きな塊がある。

 あれは──

「人ではないか!」

 それは、うつ伏せに倒れた男だった。

「おぬし、大丈夫か? しっかりせい!」

 肩を揺らし大きな声で話しかけると、男は唸りながらうっすらを目蓋を押し上げる。

「気がついたか。よもや死体を見つけたのかとひやひやしたぞ」

「……ぅ、あ……?」

「おぬし、龍の里の者か? 舟から落ちたか?」

 見ると男はまだ若い。体格は良いが、二十歳には届かぬほどだろう。

「……おまえ、すず、か……?」

 久方ぶりに聞いた己の名に、すずはきょとんと目を丸くした。

「そうじゃ。おぬし、姫を知っておるのか?会ったことがあるかのぅ」

 なんせすずが里にいたのは七つまで。その頃も会うことが出来る人間は制限されていたので、一度二度会った程度の者など覚えていない。

「なぜ、いきて……いや、つまりここは龍の島か……?」

「そうじゃが?」

「覚えてないか……そりゃそうだな。おまえは小さかったもんなぁ。俺はな、おまえんとこの離れで親父の手伝いしてたんだよ」

 庭師でな、と笑う青年の顔に、すずはわずかな面影を見つけた。

「そなた、藤吉とうきちか!」

「ああ覚えてたか。何度か遊んでやったよな」

 くしゃりと笑うと少年であった頃の顔とよく似ている。

「して藤吉、そなたなぜ湖に……いや、とりあえずついてくるといい。みずちに言って替えの衣を用意してもらおう」

 藤吉を立たせると、すずは来た道を戻り社に向かった。


 社の中に、龍の姿はなかった。みずちがすずと、その後ろにいる藤吉を見て細い目をさらに細めて愉快そうに笑った。

「──おやおや、男を連れて戻るとはすず殿もなかなかやりますねぇ」

「流れ着いていたのじゃ。みずち、着替えはないかのう」

「人間ごときに、と言いたいところですがすず殿の頼みですからね。しばしお待ちを」

 みずちがするりと立ち上がり、社の奥へと消えていく。

「……あれが、龍神様か?」

 困惑した顔で、藤吉が問いかけてくる。みずちの姿は古風で雅だ。しかし今の姿は人そのもの。驚くのも無理はないだろう。いや、とすずは首を横に振って床に座った。

「あれはみずちじゃ。龍はどこかへ行っておるようじゃのう」

 社のなかは、すずが来てから人間臭くなった。龍やみずちには必要のないものも、すずには必要だからだ。食べるものが要る。着るものが要る。褥はもともと寝るのが好きな龍のためにあったが、すずが一人で眠るようにともう一揃い用意された。

「……生きた人間がやって来たのは二度目だな」

 背後から聞こえた、いつもより低い声。だが確かにそれはすずが知る龍の声だった。

「……龍?」

 しかし振り返った先にいたのは、龍とよく似た面差しの青年だった。すらりと背が高く、すずより頭二つ分は高い。

「里には知らせを出してやる。迎えが来るまでそこらで暇を潰していればいい」

 それだけ告げると、龍はふいっと背を向けて立ち去る。すずは藤吉と龍を交互に見て、結局はぱたぱたと龍の背を追いかけた。


「龍!そなた、龍であろ? 何故いつもの姿でないのだ」

「子どもの姿は甘く見られることが多い」

 そう答える龍は、未だに青年の姿のままだ。背の高くなった龍を見上げていると、すずは妙に落ち着かない気持ちにさせられる。追いついたと思ったのに、龍は一瞬で姿を変えてしまう。人にも、龍にも。

「ちょうどいい。おまえもあの男と共に里に帰れ」

 追いつこうと手を伸ばすすずの手を払いのけるような、冷たい声だった。

「……何故じゃ」

 震える声で、すずは返した。しかし龍は動じる様子もなく、当たり前のような顔で答える。

「何故? こちらこそ聞きたいくらいだ。こんなところにいつまでもいてどうする」

「姫は──姫は、そなたの妻じゃ!」

 それ以上に、ここにいる理由など必要だろうか。

 天を裂くように吐き出されたすずの声も、龍の心には響かぬようだった。龍は冷たい声で、冷たい瞳で、ただ事実を伝えるように口を開く。

「妻ではないし、龍は妻など持たない。持つのはつがいだ」

「つがいでもなんでもいい! 姫は──」

 姫は。

 すずが紡ぐ言葉を断ち切るように、龍の手がすずの唇に触れた。冷たい指先が、なぞるように下唇を撫でる。

「やめておけ。違う生き物と添ってどうなる。運良く俺と同じ時を生きることができたとして、人の身のおまえは長すぎる時に耐えられないだろうよ。いつか狂い死ぬ」

 淡々と告げられた狂い死ぬという言葉に、背筋がぞくりと震えた。

「……長すぎる時を、そなたはひとりで寂しくないのか」

 人が狂い死ぬような、人にとって永劫とも言える時のなかで、龍は自らの傍らに誰かを置くことがない。心を寄せる者を作らない。

「俺はそういう生き物だ」

「たとえ違う生き物だとしても。寂しいと感じる心は同じであろう?」

 ──おそらくこの龍は、とても臆病な生き物なのだ。

 すずが手を伸ばして触れた龍の頬は、ひやりと冷たい。水面に触れるような心地だった。けれど、すずは龍のぬくもりを知っている。

「姫はずっと、そなたに片思いしているようだのう」

 どれだけ思いを寄せたところで、龍にはちっとも近づけない。苦笑まじりにすずが呟くと、龍がそっと頬に触れていたすずの手を取った。大きな手だ。すずの手がまるで幼子のように小さく見える。

「……こうていうのは俺だけだ。おまえのそれは、戀ではない」

 静かな否定に、すずはすぐに言葉が出なかった。

「こうことを知らぬおまえが、戀などできるはずもない」

「姫はっ……!」


 すず様。すず姫様。貴女様は、龍神様の花嫁になるのです。


 生まれてからずっと、呪いのように言い聞かせられた言葉。それだけがすずの生きる意味。それだけが、すずが存在する理由。

 いずれ花嫁として龍神に差し出される娘は、あらゆる贅を許された。望むまでもなく求めたものが用意されていた。美しい衣も、愛らしい鞠も、とろけるような甘味も、見たことのない珍しい果実も。与えられていないものなどなかった。ただひとつ、自由な未来以外は。

 そうだ、すずはこうことを知らない。乞うことも恋うことも。いつも受け身だったから。


 ぎゅっと衣を握りしめる。龍は、静かにすずを見下ろしたあとに踵を返して去っていった。

「それでも、姫は」

 ──知っている。

 龍のやさしさも、ぬくもりも。龍の島で過ごした七年、何ひとつ心を通わさなかったわけではない。

「……それでも姫は」


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