こひぞつもりて
青柳朔
前
提灯のあかりが、湖面にゆらゆらと映り込んでいた。夜の湖は昏く、先導する舟のあかりが紅く闇夜を照らしている。
二艘の舟に引かれる舟には、小さな人影がひとつきり。綿帽子に白無垢を纏っている。まだ幼い横顔がちらりと伺えた。花嫁と呼ぶには幼すぎる、まだ十にも届かぬ娘だった。
紅を塗られた唇はきつく閉じられたまま、伏せられた睫毛の奥で黒檀の瞳が静かに己の手を見つめている。
「──ここより先は、花嫁ひとりで。よいな、すず」
振り返った人影に見えるように、すずはこくりと頷いた。
湖には、小さな島が浮かんでいる。昼間であれば湖岸からも見える赤い鳥居が大きく見えることが、島が近いことを教えていた。龍神の住まう社が、あの島にはある。
すずは、龍の里の里長の末娘として生を受けた。
船頭のいないすずの舟と他の舟とを繋いでいた縄が切られる。不可思議なことに、龍神の島に近づくと花嫁の舟は呼ばれているかのように龍の島へ引き寄せられた。これより先は、龍神の花嫁だけが進むことが許される。すずはただ、舟が流れ着くのを待てばよいのだ。
里長の父と、里の男たちが乗っていた舟がどんどんと遠ざかると、あかりはすずの舟の提灯ひとつきりになる。湖の上に吹く風はきよらかで冷たい。
「さすがに夜ともなれば冷えるのう……」
ひとりきりになれば、どんな文句を言ったところで小言を言う者はいない。ぶるりと肩を震わせて、すずは小さく呟いた。まだ春も遠いこの季節の夜は寒い。
「足のさきなんぞは水に浸かってるみたいにひえて……」
凍えた足をさすろうと指を伸ばした先で、ちゃぷんと水に触れる。
「……みず?」
すずは黒い目をまあるく見開き、昏い夜闇のなかで事態を把握した。──水。水だ。
「ふ、舟に穴が空いておるではないか……!」
いったいいつから空いていたのか。小さな舟にはみるみるうちに水が流れ込んでくる。このままでは間もなく沈んでしまうだろう。
「な、なんのこれしき! 姫は生まれてからずっとこの湖のそばの龍の里で暮らしてきたのだぞ! 泳いだことはないが!」
こうなったら根性で泳ぎ、龍神の島にたどり着くしかあるまい。すずは腹をくくると勢いよく綿帽子を取り湖へ放り投げた。舟は既に沈没寸前、小さなすずの身体を支えることもできずにぐらぐらと揺れている。
「う、わ!」
揺れる舟の上で立っていることもままならず、すずの身体は湖に呑み込まれた。水飛沫があがり、小さな身体は闇の色を溶かしたような水へと落ちる。
水のなかで必死にもがき、どうにか犬のように水をかいて水面に顔を出す。ぷは、と大きく息を吸い、沈まぬようにと必死で手足をばたつかせたが、すずはまだ七つ、すぐに体力が尽きた。腕が重い、足がうまく動かない。まるで、湖の中から何かに引き込まれているようだった。
「りゅう、じ、ん」
──すず様。すず姫様。貴女様は、龍神様の花嫁になるのです。
落ちてゆく意識の中で、生まれてからずっと言い聞かせられてきた言葉が何度も蘇る。こんなところで死ぬわけにはいかない。すずは、役目を果たしていない。
──そのために、うまれたのに。そのために、いきてきたのに。
「りゅうじん……!」
呼ぶ声は水に呑み込まれ、天へと伸ばした小さな手は昏い水のなかで何も掴めずに力尽きた。夜の昏い水のなか、流した涙も溶けてゆく。月もない夜の湖の底は、さぞ昏かろう。
己の指先すら昏い水の色に呑み込まれていく。その闇の中で、まるでひとつの星のひかりのような青い銀を、見つけた気がした。
「……また死体が流れてきたかと思えば、今度は子どもか」
ひやりとした氷のように冷たい声が、ぼんやりとしたすずの耳に届く。
──死体? なんて物騒な。
「姫は死んでおらん!」
勝手に殺すでない! と叫びながらすずは勢いよく起き上がった。
「……うぬ?」
そこには、呆れたようにすずを見下ろす少年がひとり。
ぽたぽたとすずの黒い髪から雫が落ちる。うつくしかった花嫁衣装はぐっしょりと濡れて、見るも無残な有様だった。濡れた手足には泥や草がくっつき、白い衣装は泥だらけだ。
「死にかけていたくせに威勢のいい子どもだ」
「子どもではない、姫はすずじゃ! そなたとてまだ子どもではないか!」
少年は、見たところまだ十三、十四歳ほどのようだった。長い黒髪をひとつに束ねている。
「……まぁこの姿は子どもだろうな」
呆れたように笑う少年に、すずはむぅ、と唇を尖らせる。そして、はっと周囲を見渡した。傍らには緑と水の気配。しかし、里のあかりが見当たらない。
「もしや、ここは龍の島か? とんだ目にあったが無事に着いたようじゃのう」
ほっと胸を撫で下ろしながらすずは立ち上がった。どうやらすすが溺れてからまだそれほど時は経ってないらしい。見上げれば星々を散らした藍色が空を覆っていた。
「はて。姫はなぜここに? そなたが助けてくれたのか?」
「……流れ着いてそこにひっかかっていたのを見つけただけだ」
なるほどここまで運んでくれたのは少年らしい、とすずは素直に礼を言った。そこに、と示したのはまさに湖の際。その向こうを見れば、小さな里のひかりを見つけることができた。
「そなた、龍神につかえておるのか? 姫は龍神におあいしたいのだが案内してはくれぬかの?」
濡れ鼠になってしまったこの姿では、とても婚礼など出来るはずもないが挨拶だけは忘れてはならない。相手は龍神、そしてすずの夫となるのだ。
「ここに住んでいるのは俺だけだ」
「人は、そうであろ。だがここには何百年も前から龍神が……」
すずの言葉を最後まで聞くこともなく、少年は乾いた笑みを零す。
「人は勝手に神だのなんだのと持ち上げる。ここにいるのは偏屈な龍一匹だけだ、神なんかじゃない」
「だから、その龍に……」
「いるだろう、さっきからここに。おまえの目の前に」
ぱちぱち、とすずは何度も瞬きを繰り返した。──目の前に。
「……そなたが、龍……? どこからどうみてもなまいきな子どもにしか見えぬが」
「おまえこそ年の割には賢いみたいだが、口が達者なだけでうるさい子どもだな」
「な、なな、なんじゃと!? 姫は龍神の花嫁としてここにやってきたのだぞ! 舟に穴が空いて沈んでおぼれて死にかけて! そなたが龍だと言うのなら、すこしは己の花嫁をねぎらったらどうなのじゃ!」
「俺は花嫁なんて求めてない」
刃物で切りつけられるような、そんな鋭い言葉だった。
もとめていない。
しかし、里の者は、里長は──父は、すずに告げたのだ。龍神が花嫁を呼んでいる。おまえを呼んでいる、と。だからすずは、七日七晩かけて準備をして、こうして龍神のもとまでやって来た。
「そんなわけが……なんどもなんども、里はここへ花嫁をおくったはずじゃ」
すずのように捧げられた花嫁は、ひとりやふたりではない。
「生きた人間なんて来たことはない、あんたが初めてだ」
そんなわけがない。すずの前には、二十年ほど前に里長の血族の──すずのおばが、花嫁として舟に乗ったと伝え聞いている。ゆえに代々、里長は花嫁を用意していた。
──なぜ? 問いはいくつも浮かんだが、答えを知る者はいない。すずは疑問を振り払うように首を横に振ったあとで、龍と名乗る少年を睨むように見た。
「ええい! きてしまったのだからしかたあるまい! 姫がそなたの花嫁じゃ!」
きっぱりと言い切ると、龍は眉を顰める。
「そもそもあんた、花嫁なんて年じゃないだろ。子どものままごとに付き合うほど暇じゃないんだが」
「姫は七つになった! なぁに龍とは長生きなのじゃろ? 若い嫁のほうが長くいっしょにいられるではないか!」
「そんな数年、たいして変わらん。──どうせ人はすぐに死ぬ」
さっと龍は身を翻し、すずに背を向ける。長い黒髪が星明かりのしたで揺れた。
「じゃが……! それなら姫はどうすればいい……!」
縋るようにすずが手を伸ばした先で、龍の青い衣が指先をかすめる。
「知るか。勝手に花嫁だの騒いで勝手にやってきたはそっちだろう」
わずかに振り返った龍の瞳がなんの感情も秘めずにすずを見下ろした。先ほどまで漆黒だった龍の目が、青みを帯びる。黒い髪が、色が染み込むように青銀に変わる。
ちゃぷ、と龍が裸足のまま湖に入る。小さな身体がみるみるうちに大きくなって、それは青銀の龍へと変じた。
「……龍」
呆然とすずが呟く間に、龍は天へ高く昇り、藍色の空のなかでくるりと島をなぞるように一回転した。
──すず様。すず姫様。貴女様は、龍神様の花嫁になるのです。
そのために貴女様は生まれてきたのだから。そのために貴女様は生かされ、あらゆる贅を許されているのだから。
すず様、すず姫様。貴女様は、この里の為に龍神の花嫁にならねばならぬのです。
他に生き方など用意されていない、自分で生き方を決める術すら知らない幼い子どもは、どうしてよいのか分からずにただただほうけていた。
ぺたりとその場に座り込むと、もう立つ気力も沸いてこなかった。助け出されたとはいえ、体力は底をついたままだ。濡れたまま衣や髪はたやすく体温を奪っていく。冷たい夜風が小さな身体を死に近づける。
目を見張るほどにうつくしい夜空を見上げながら、すずは紫色に変じた唇の奥でかたかたと歯を鳴らした。
夜空に龍の姿はない。何処かへ消えてしまった。
「……いらない」
姫は、いらないのか。
小さな身体が寒さに震え、すずが意識を失うまでそう長くはなかった。
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