おそらく彼女はきっと受け入れるだろう

橋本洋一

おそらく彼女はきっと受け入れるだろう

 赤が赤色であることには疑問を持たないけど、『赤』をきちんと説明できる人間は少ない。

 理由としてはどうしても主観的にならざるを得ないからだと僕は考える。たとえば赤は太陽の色だと主張する人が居る。でも人によっては、太陽は黄色だったり、オレンジだったりする。もちろん日本人は日の丸というものがあるから赤が主流だけど、外国に行ったら少数派になってしまうだろう。

 要はいかに多数派が納得できるか、少数派を説得できるかに依るのだろう。だからこそ民主主義の日本では議論が繰り返される。つまり議論が無駄ではなく、説得できない政治家が無能なのだ。


 そんなことを課題の小論文に書いたら職員室に呼び出された。


「なあ神谷。いい加減思春期から卒業しようぜ?」

「先生。僕はまだ高二ですよ? 卒業は早いです」

「あれ? おかしいな、先生ちゃんと『思春期』って言わなかったか?」

「ですから高二は思春期の真っ最中なんですよ」


 屁理屈を述べながら反抗していると担任の小山田先生が額に人差し指と中指を伸ばして当てた。彼のいつもの癖だ。


「いや別に古臭いことを言うつもりねえよ。俺だって昔は荒れてたさ。でも目を瞑るのも限度ってもんがあるわな」

「…………」

「スカートでの登校を免除してやってんだ。少しは丸くなったらどうなんだ?」


 僕は肩を竦めて「大人になったら考えますよ」と答えた。


「まだまだ子供なんですから。見逃してくださいよ」

「子供は叱ったら反省するもんだけどな。まあいい。今度から真面目に書けよ」

「真面目ですって」

「……なんで美術のテストで政治の話が出てくるんだ! 色彩のテストだろうが!」


 堪忍袋の緒が切れた小山田先生。やばいと思った僕は「すみませんでした! 失礼します!」と早口で言ってその場を後にした。

 その際、周りの先生の視線が嫌になる。異端児を見ているような目。

 まあ仕方ないだろう。

 女子なのに男子高校生の制服を着ているのだから。


 僕の通う高校において最も有名な奇人は村崎という三年生のお姉さんだけど、二番目に有名なのは僕だった。来期の奇人筆頭は間違いないだろう。

 胸が出ないようにコルセットで締めて、髪もショートにして、声も意図的に低くしていて、一人称は僕。村崎からは萌えると言われているけど、他のまともな人間からは気味悪がられている。

 はっきり言ってしまえば僕は自分のことを男だと思っている。性的対象は恋愛をしたことがないから分からない。でも僕は男だ。たとえ身体が女でも。

 そんな僕に友達は居ない。たまにレズっぽいのが近寄ってくるけど、ガチだと気づくと離れていく。ま、そういうものだ。


 高校を卒業したら就職してお金を貯めて、男になる。そう決めていた。


 小山田先生に叱られた帰り道。てくてく通学路を歩いていると、河川敷で犬が鳴いていた。

 よく見ると野良犬が三匹、女の子を襲っていた。いや、一匹の犬が女の子を守るように三匹に向かい合っていた。


「ジョン! どこに居るの!? 誰か助けてください!」


 おお、こりゃやばいな。確か野良犬は人に噛み付くって聞いたな。

 僕は「なあああにやってんだあああああああ!」と大声を上げながら女の子と野良犬の間に割って入った。

 突然現れた乱入者に戸惑う野良犬。

 さて。どうしよう。まったくのノープランだった。


「……あなたは誰?」


 白っぽいゆるふわな服を着た女の子が僕のほうを見ながら訊ねる。


「誰でもいいだろう? 立てるかい?」


 野良犬から目を切らずに、女の子の手を取る。震えていた。


「だ、駄目、立てない……」

「そっか。うーんどうしよう……」


 もしも小説なら僕がばったばったと野良犬を格好良くやっつけるんだけど、生憎格闘技は習っていない。

 どうしたものかと悩んでいると「お巡りさん、こっちです!」と大声で叫ぶ人が居た。

 多分、近所のおばさんだろう。刺す又を持った警察官二人を連れて、こっちに来る。

 ああ、助かった。


「君ねえ。いくら守るためとはいえ、丸腰で割って入るのは危ないよ」

「すみませんでしたー」


 刺す又で追い払ってくれた後、説教された。まあ当然だから仕方ない。


「その格好どうしたの? 君は――」

「ああ、コスプレっす」


 女でしょと言われる前にそう言うと「そ、そうなんだ……」と微妙な顔をされた。


「まあ君が居なかったらこの子、危なかったから、今日のところはもういいよ」

「あざーす。そんじゃあ帰りますから」


 そう言って帰ろうとすると「ちょっと待ってください!」と声がした。

 振り返ると目を伏せた女の子が「あなたのお名前を教えてください」と言ってきた。傍らには彼女を守った勇者が居て、くうんと鳴いている。


「僕? 神谷音色かみやねいろ。あんたは?」

「わ、私は楠木香織くすのきかおりといいます」


 ふうん。香織ちゃんね。顔を見るとなかなかの美人さんだった。


「そっか。香織ちゃん。またどこかで会おうね」


 そう言って手を差し伸べた。でも握ってこなかった。

 不思議に思っていると警官のお兄さんが「その犬、盲導犬だよ」と耳打ちしてくれた。

 そっか。香織ちゃん、目が見えないんだ。

 僕はそっと手をつかんで、自分の手と合わせた。


「はい。握手。それじゃあねえ」


 そう言ってその日は別れた。連絡先を聞いていないからもう二度と会うとは思わなかった。


 香織ちゃんと再会したのは五日後だった。

 今日も今日とてつまらない授業とくだらない学校生活を終えて家に帰っていると、見覚えのある女の子が犬を伴って河川敷を歩いていた。

 香織ちゃんだった。僕は「おーい、香織ちゃん」と呼びかけると香織ちゃんは嬉しそうに微笑んだ。


「久しぶりだね。元気にしてた?」


 近づいて挨拶すると「音色さん、お久しぶりです」と応じてくれた。


「偶然だね。いつもここを散歩しているの?」

「いえ、その、音色さんにお会いしたくて……」

「もしかして、あの日からずっとここで待ってたの?」


 僕の指摘に顔を真っ赤にする香織ちゃん。盲導犬が肯定するようにわんっと鳴いた。


「大きな犬だね。名前は?」


 照れたままだと会話にならないので、敢えて話題を反らすと香織ちゃんは慌てて「ジョンって言います」と答えた。


「そうか。よーしよしよし。お前はご主人思いだな、ジョン」

「あの、これから時間ありますか?」


 僕は何の気なしに「あるけどどうしたの?」と訊ねた。


「お礼がしたくて、いいですか?」

「お礼? 別にそんなのいいよ」

「いえ、是非ともさせてください」


 僕は「そこまで言うならいいけど」と言って立ち上がった。


「お礼って何かな?」

「近くに行きつけの喫茶店があるんです。そこでケーキでもごちそうさせてください」

「ケーキね。うん分かった。行こう」


 すると香織ちゃんは嬉しそうに笑った。

 それは存外可愛らしい笑顔だった。


 行きつけの喫茶店はとても落ち着いた雰囲気だった。居心地の良い空間だった。

 マスターが中年のおじさんで、優しそうだったのも印象がいい。


「香織ちゃん。そこの人が助けてくれたの?」


 マスターが僕に紅茶を、香織ちゃんにはアイスティーを、ジョンには温めのミルクをそれぞれ出しながら訊ねた。


「そうなんです。優しそうな人でしょう?」

「そうだね。そのとおりだ」


 いや、マスターのほうがやさしいでしょ。男の格好をしている僕に何も言わないんだから。

 出されたケーキを食べながらいろいろ話をした。香織ちゃんは盲学校に通っている。年齢は十六才だった。僕の一個下だ。

 他愛のないことを話すと、意外と話題の合うことに気づく。良い友達になれそうな気がする。


「あの、音色さん。音色さんって彼女居ますか?」


 話が終わりかけたとき、香織ちゃんが顔を赤くしながらそんなこと訊ねた。


「いや。そんなのいないよ。どうして?」

「もし居たら、彼女さんに悪い気がして」

「居ないから良くも悪くもないよ」


 なんでこんなことを聞くんだろうと不思議に思っていた。


「じゃあこれからも会ってもらってもいいですか?」

「いいよ。じゃあ連絡先、ライン交換しようか。無料通話できるしね」


 香織ちゃんの代わりにスマホを操作して、無事にライン交換した僕たち。


「これからよろしくお願いします」

「うん。こちらこそよろしくね」


 気軽に言った僕だけど、気づかなかった。

 香織ちゃんが勘違いしているってことに。


 それから喫茶店で会うようになり、ときには散歩をしたりした。手をつなぐことも多かった。会話は楽しくて面白かった。僕にとって小学校以来の友人だったんだ。


 でもその終わりは突然起こった。


「なあ神谷くん。香織ちゃんのことをどう思う?」


 マスターがコップを拭きながら僕に訊ねる。ちょっと早めに来てしまったので香織ちゃんは居なかった。


「良い友達ですよ。一緒に居て楽しいです」

「目が見えなくても?」

「当たり前ですよ。それが何か?」


 するとマスターはコップを置いて「神谷くん。君は女だろう」と改まって聞いてきた。


「まあそうですけど」

「じゃあ声を低くしているのは? 男子の制服を着ているのは?」

「……僕が男の子になりたいからです」


 マスターは「どうして男になりたいんだい?」と訊ねてくる。


「それは――」

「男になりたい君に言うのはおかしな話だが、可愛らしい顔をしているし、小柄な体格をしている。何が不満なんだ?」


 マスターがここまで踏み込んでくるのは初めてだった。だから僕は正直に答えた。


「相応しくない気がするんです。何かが間違っているような気がするんです」

「ほう。間違っている」

「パジャマのボタンを掛け間違えたみたいな。朝ご飯食べて来なかったような。そんないつもすることをしてこなかった間違いをしている感じなんです」


 言うなら違和感と評すれば正しいだろうか。


「だからそういうのを無くしたいんです。男になりたいんです」

「じゃあ訊くけど、香織ちゃんが付き合ってって言ったら付き合うのかい?」


 唐突な問いに思考が停止してしまう。


「どういう意味ですか?」

「意味が分からないのかい? 彼女は君を男だと勘違いしている」


 マスターは溜息を吐いた。


「君はどう答える? 身体が女だから断るのか? それとも心が男だから受け入れるのか?」

「…………」

「君は目が見えないからといって拒むような人間じゃないだろう」


 目が見えない人にどうやって自分のせいべつを説明すればいい?

 僕には答えが分からなかった。


「もしも君が女だって分かったら、彼女はどうするのか……おっと、そろそろ来るみたいだ」


 僕はいつもの席で香織ちゃんを待つ。彼女が店に入る。僕は声をかける。嬉しそうに微笑む彼女。ジョンに誘導されて椅子に座る。

 そして彼女は僕に向かって言う。


「あのね。音色さん。私、音色さんのことが――」

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おそらく彼女はきっと受け入れるだろう 橋本洋一 @hashimotoyoichi

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