三節
やがて、頭上に夜空がひらけた。堂主とともに来た草原に辿り着いたのだ。
森もだが、草原はすっかり春になっているようだった。新しい緑の匂いが漂っている。
月のせいで、空には明るい星しか見えない。それでも皇都の夜空より、星はたくさん散らばっていた。ソレルは草原の端に立ち尽くして、夜空を見上げた。
この夜空の下に、去ったアニスがいる。ソレルの父も、母も……皇帝も。
生きている者が、いる。
すべては空の下にある。
「……堂主さま!」
ソレルは深く息を吸い込むと、叫んだ。「堂主さま! いるのはわかっているんですよ! 返事をしてください!」
「はーい!」
すぐに、返事が返ってきた。
ソレルは泣きそうなほど、ほっとした。返事のしたほうへと、よろよろ進む。
「堂主さま……堂主さま、……」
「なんだ君、泣いているのか」
草のあいだで、堂主がむくりと身を起こす。ソレルはそれに向かって駆けた。途中で盛大に躓いて、堂主のすぐそばに倒れ伏す。
「おい、君、だいじょうぶか」
「君、じゃないです。僕は、ソレルといいます」
ソレルは両手をついて身を起こすと、覗き込んできた堂主をじっと見た。
「知ってる」
堂主は怪訝そうにうなずく。
「そう、呼んでください」
告げると、堂主は、月明かりの下で、その白みの強い顔を曇らせた。
「君、……」
「ソレル、ですよ」
「……名を呼ぶなんて、勘弁してほしい」
「ローゼリア」
ソレルが呼ぶと、堂主はぎょっとした。
「おい、君」
「名前を呼んでください。一度でいいんです。でないと、ずっとローゼリアと呼びますよ」
「わかったよ、ソレル」
根負けした堂主は、やっとその名を口にした。「もしかして君、……あの手紙を、読んだのか」
「竈の焚きつけにした紙のことですか? なんだかへぼな、詩みたいなことが書きつけてありましたけど……」
ソレルが言うと、堂主は目を瞠った。
「おい……焚きつけって……わたしは手紙を書くのが大の苦手なんだぞ! 何日も苦心惨憺してやっと書き上げたのに! 便箋も、いちばんよいものを使ったのに! 何度も書き損じたから、あれが最後の一枚だったのに……!」
「へえ?」
ソレルはあざわらった。「あれが? 苦心惨憺して? へえ!」
「君、……君でもそんな意地悪な顔をするんだな」
「これは意地悪な顔ではありませんよ、怒っているんです。あれが手紙だというのなら、……堂主さま、あなたは死のうとしたととれますが」
「そのつもりだったが、首をくくるにも縄を忘れたし、暗器はみんな、こっちに来るときに回収されてしまったし……包丁を使うと、その包丁が使えなくなってもったいないと思ったから、入水にしようと思ったんだが……そうすれば、動物たちが食べてくれる。だけど、ここはもうすっかり春だけど、淵の水はまだ冷たくて、入ったら寒そうだったし」
死ぬつもりだったというのに、なんだか生ぬるいことを言っている。ソレルは少しだけ、安心した。今のままなら、堂主は自刎などできないだろう。へたに勇気を出したらわからないが。
「堂主さまは肉が少ないから、あまり美味しくいただいてもらえないと思いますよ」
ふん、とソレルは鼻息を荒くした。「それより、早く廟堂に戻りませんかと言いたいところですが、僕は真夜中にとび起きて、急いで着替えて、駐在所から廟堂まで駆け通して、さらに廟堂からここまで急いできたので、すぐに動けそうにないほど疲れています。……なので、しばらくここでおしゃべりでもしませんか」
「おしゃべりって。疲れているんじゃないのか」
堂主は呆れたようだった。
「そうですね。……正確には、僕は堂主さまのお話を聞きたいです」
腕で自分を支えるのに疲れたソレルは、ごろんと仰向けに地面に転がった。見上げると、さかさに見える堂主の顔は、わずかに歪んでいた。
「だめですか?」
「……皇帝の提案を受けたわたしは、処刑人を束ねる男のもとへ連れて行かれてな。彼が師匠になった。彼に暗殺術を徹底的に仕込まれたあとで、わたしは、……さまざまなところへ行った。皇帝は国外へと同じように、国内にも間諜を放っていて、そうした者たちが、少しでも叛意のある者を見つけると、わたしはその家に入り込んだものだ……ときには使用人として、あるいは子どもの家庭教師として、あるいは侍女として、……妾や、愛人として」
堂主が微妙につらそうな顔で語り出した内容は、ソレルの想像していた範疇をだいたい超えていなかった。
ソレルは起き上がった。腕を伸ばし、逆さに見える堂主の鼻をすばやく、しかしやさしくつまんで、少しだけ、引っ張った。
「何をする!」
すぐに手を離すと、堂主は抗議した。
「ホーソンに、そうやって起こされることがあるんですよ」
「わたしは寝ていたわけじゃないぞ」
「何か寝言を言っていたじゃないですか」
ソレルは堂主に笑いかけた。「昔の話を聞きたいんじゃないんですよ。僕が聞きたいのは、堂主さまの好きな食べものとか、好きな色とか、好きな季節とか……」
「君、何言ってんだ?」
堂主は目をしばたたかせた。幼い子どものようだった。
「僕にだってね、いろいろと言えないことはあるんですよ。堂主さまだって、言えないことを言わないのを、相手に申しわけないなんて思わないで、黙っていても、まったく問題ないんですよ」
「言えないこと? 君に?」
ふん、と堂主は鼻でわらった。「君のような育ちのいい若さまに、なんの言えないことがあるって?」
「ありますよ、失礼な! ひとをなんだと思ってるんですか」
ソレルが憤慨すると、堂主は、へっ、と肩をすくめた。
「だったら話してみるといい。聞いて、本当に、ひとに言えないことかどうか、判断してやる」
子どものように言う堂主に、ソレルは内心でほっとした。
「わかりましたよ。では、とっておきの話をしましょう。――僕、実家が皇宮のそばなんです。子どものころ、皇宮の塀に穴があいてるのを見つけて、そこから入り込んで、森を歩いてました。それが森歩きをするようになった始まりです」
ソレルが語ると、堂主はぽかんとした。
「君、……それ、よく咎められなかったな」
「いやあ、それが最後には咎められましてね。侍女を連れた、ご婦人に。おっかなかったですよ! 逃げようとしたら侍女がすごい勢いで追っかけてきて、捕まったんです。殺されるかと思いました」
侍女たちは容赦なくソレルの首根っこを引っ掴んで、その婦人の前に連れていった。婦人は、侍女たちとソレルを見て、明るい声を立てて笑った。ソレルを追いかけ回した侍女たちは、それはそれは残念な姿になっていたのだ。
「それで?」
「そのご婦人がね、言うんですよ。何をしていたと。僕は正直に、森歩きをしていたと言いました。この森はめずらしい薬草がいっぱいあるんですね、と言ったら、薬草に興味があるのか、と言われたんです。それで僕は、以前に目が見えなかったときに聖上にいただいたおくすりのおかげで目が見えるようになったので、同じ薬草がないか探している、と言ったのです」
「……目が、見えなかった?」
堂主の声には、探るような響きが入り混じる。
「病気のせいですよ。――僕は当時、どうにもにぶい子どもで、そう告げた相手が、にっこり笑って、それはよかったな、送った甲斐があった、と言っても、なんのことやらさっぱりわからなかったのです」
覗き込んでいた堂主の瞳が、いっぱいに瞠られた。
夜なのに、昼の空がそこにだけ、あった。
「そのご婦人は、僕に赤い紋章の刺繍が入った手巾をくれました。これはだいじにしてきたものだ。世にひとつしかない。というのもな、とご婦人は言いました。お針子が、三日月の形を間違えて縫いつけてしまった失敗作なのさ。世には出せない。だが、これしかないことはわかっている。おまえにやろう。そして、門番に言っておく。紋章の三日月が逆に縫いつけられた手巾を持った者は、咎めず通せと。だから、気が向いたとき、好きなだけ森を歩いて、おまえの目を治したのと同じ薬草を探してみるといい……」
そこで、ソレルはそっと体を起こした。
帝国の紋章は、三日月と剣が重なっている。欠けた部分が上に開いた紋章なのが、あの手巾の紋章は、欠けた部分が下を向いていた。それでは世に出せないだろうし、お針子は罰されたかもしれない。皇帝の愛したお針子の、残念な失敗だ。死を悼み、その髪を未だに身に着けるほどに可愛がっていたお針子の……
「まあ、その薬草は東国にしかないので、皇宮の森にはありませんでしたけどね。どうです。おもしろかったでしょう? どうせ昔の話をするなら、これくらいにしてくださいよ。といっても、今の話は、ひとにしてはいけない類いのものだったので、内緒にしてほしいんですが」
堂主は、起き上がったソレルを見て、何か言いたそうに口をあけた。だが、結局はその口を閉ざす。
「どうですか? 堂主さまはこの話を、……ひとに話すべきではないと思いませんか? 皇宮の森に無断で入り込んでいたなんて」
「そうだな。驚いた」
驚いたのは事実のようだ。
ソレルがおとなしく、さらなる言葉を待っていると、ふ、と堂主は口もとをほころばせた。
「十年くらい前は、いま思うと苦しくてつらかったんだろうが、……もう、かなり忘れてしまっていてな」
「苦しくてつらいことなら、忘れても問題ないでしょう。人間は忘れないと生きていけないものです」
「……何人も、数え切れないほど、殺したのに? ……自分の命を惜しんで、殺されることを怖れて……あさましいことだ。……わたしは、死にたくなかった。親どころか一族をすべて殺され、兄とも引き離されても、生きていたかった、だから、……殺した」
堂主の声が引き攣って、かすれた。「わたしが手に掛けたのは、なんの罪もないわけではない者ばかりだったが、殺されるほどではないのではないか……そんなふうに思っても、わたしには、どうしようもできなかった。ただ、命じられた通りに、粛々と、命を刈り取った……」
堂主の心が決壊したのを、ソレルは感じ取った。いつぞやのように、それが閉じてしまわないように、ソレルは細心の注意を払って口をひらいた。
「僕たち軍人も、皇帝に命じられれば、戦場でひとを殺しますよ。軍医の僕だって、殺されそうになったらそうするでしょう。……そういうものです。この国の中で生きる限り、僕たちはそうせねばならないのです」
「だが、わたしは……」
言いかけた堂主を、ソレルは遮った。
「堂主さま。……牛の肉を食べるときは、牛の息の根を止めますよね。牛を殺したのは、その刃物ですか? それとも、刃物を持っていた人間ですか? 我々は、……皇帝の持つ、鉈や包丁です。だから、……堂主さまが、ご自身のなさったことを、人殺しだと悔いるのはわからないでもないですが、そうしなければ生き延びられなかったことを、誰が浅ましいと責められるでしょう。責めるとして、その者も同じ選択をしないとは、僕には思えない」
誰だって、生き延びたいはずだ。ソレルは確信していた。ゆるされるなら、誰だって、死にたくはないはずだ……
「この国では皇帝の命令は絶対で、だから、……必要以上にご自身を責めて、苦しまれるようなことは、……その」
ソレルはそこで口ごもった。「すみません、言ってて恥ずかしくなってきました」
「恥ずかしい? なぜ」
堂主は拍子抜けしたようだった。
「あのね、……僕は恥ずかしがりなんですよ。自分が言おうとしたことで我に返ってしまうくらいには」
「何言ってんだ君は」
堂主のうつくしい顔に、微笑みが浮かぶ。これは、彼女の本当の笑みではないか。ソレルはときめいた。
「堂主さま。あなたが苦しんだり、つらかったりすると、僕もそうなんです」
「……?」
端折りすぎたようだ。堂主はますます訝った。
「ああ、もう。朴念仁って、僕に言ったくせに。堂主さまのほうがよほど朴念仁では? 僕は、堂主さまが好きなんですよ……だから、苦しまないでほしい。幸せになってほしいんです」
「……憶えていなかったくせに」
ぼそりと堂主は呟いた。
「なんです? 父が僕に言ったことだったら思い出しましたよ」
憶えていなかったといえば、まさにここでした会話のことかと思い、ソレルは弁解した。
「君の父上が、君を膝にのせて言ったことか……違うんだがな、まあいい。なんとおっしゃったんだ、君の父上は」
「諦めてはいけない、と」
ソレルの言葉に、堂主は、何を? というような顔をする。
ソレルは思い出していたものの、また忘れかけていた父の言葉を、一生懸命思い出そうとした。
「……失っても、得ようとしなければならないと……決して、得ることを諦めてはいけない。失っても、得られたことに意味はあったのだと……」
「失うのは、怖いな。自分が奪ってきたから……いつか奪われる。そう思ってきた。だから、……」
「アニスが来て、ほっとしたんですね」
堂主は黙ったままだ。ソレルはよっぽど、彼女の肩を掴んで揺さぶりたくなかったが、それはよくない暴力衝動だと押しやった。
「……それもあるが……この土地に来てからずっと、もう何も持たないでおこうと思っていたんだ。そうすれば奪われることはないだろう? だから、そうしてきたつもりだった……」
堂主は、顔を歪めた。笑おうとしたようだ。
「あなたは実に愚かだ」
思わずソレルはそう言った。しかし以前、似たようなことを、堂主が自分に向かっていった記憶がよみがえる。あれも森歩きをしたときだったはずだ……
堂主も思い出したのか、奇妙な顔をして黙った。
「君の言う通りだ……」
そこで堂主は喉を詰まらせたが、再び口をひらく。「あの子が、……アニスが、わたしを刺そうとしたとき、どうしてか、君を思い出した。君だけじゃない。マリーたち、……パン焼き番の女の子たちや、コンフリーや、ヒソップじいさんや、……ミルフォ村のみんなのことを」
「……何も持たないでおこうなんて、荒野にひとりで住んだって無理なんですよ。わかりましたか?」
自分を思い出したと言われてソレルは胸が微妙に躍ったが、つづいた言葉に、複雑な気持ちになった。だが、それでいい、ともソレルは思う。
堂主は、自分が得ようとしなくても、いつの間にか与えられ、それを享受していたことに、あのときやっと気づいたのだろう。
「人間は、生きてる限り、何かを、誰かを、心に留めてしまうんです。……まあ、でも、僕はそういうわからずやの堂主さまが好きですけど」
「君、……そういうのは軽々しく言うもんじゃないぞ」
堂主は苦々しい顔をした。
「軽々しく言っていますが、本心です。重々しく言われたら、堂主さまはこれから気まずいでしょう。でもね、僕は先のことを考えたんです。堂主さまが、僕への態度をぎくしゃくさせないでくれるように……だから、僕が堂主さまを好きなだけなので、気が重いなら、忘れてください。本当に、気にしないでほしいんです。それに僕は、隙を見て、堂主さまに襲いかかったりしません。本当に、僕が勝手に好きなだけなので……」
想いを告げたが、返してほしいとは思っていない。堂主が自らのしたこととはいえ、未だに深く傷ついて、つらい想いを味わっているのは想像がつく。であれば、自分が好意を告げて、警戒されたり、同じものを返せないことを申しわけなく思ったりするのは、本意ではない。そんなことで彼女を煩わせたくなかった。
それでも告げたのは、このやさしいひとが、どれほどこの世から逃げ出したくなっても逃げられないように……何も持っていないと思っているとしても、その脚に引っ掴んで、決してこの世の外にとび出せないようにする、枷になりたかったのだ。何も持たないでおこうとしても、無理やりにでも彼女の心に少しでも跡を残したかった。しかしそれは絶対に傷であってはならない。彼女の傷は、きっと未だに癒えていないのだろうから。
アニスに殺意を向けられたとき、思い出したと堂主は言ってくれた。その時点で、もう枷になれているのかもしれない……だが、ソレルはもっと、もっと重い枷に、いや、重石になりたかった。彼女も気づかぬうちに、なくてはならぬ存在になりたかった。
そして、失いたくないと願う彼女から、何も奪われないよう、奪われてもすぐに与えられるよう、そばにいたかった。
だが、想いを告げた反応があまりにも薄いので、ソレルは内心でがっかりしつつ、恥ずかしくなってきた。言わなければよかったとは思わないが、こうも反応が薄いと切ない。
それまでほぼ正面に向き合って言葉を交わしていたが、堂主は少しだけ動いて、ソレルから顔を背けるようにした。その態度に、好かれなくてもいいけど嫌われたくないな、とソレルは悲しくなる。避けられるのも、つらい。
「君はさっき、話してくれたな。ひとに言えないかどうかと言われたら、話さないほうがいいだろう。何も、まずいからではない。君が法螺吹きだと思われるってだけさ。あんな頓狂な話、誰が本当だと思うんだ」
「うそは言っていませんよ」
ソレルは即座に返した。
「それは信じよう。……それでな。せっかくだから、あの話のお返しに、わたしも、……べつに話しちゃいけないわけじゃないが、ずっと、誰にも言わなかった話をしよう」
ソレルが何か言う前に、堂主はつづけた。「昔、最初に家を逃げ出したとき、兄と一緒に、別荘に行ったんだ。広い家で、わたしたちはしばらく過ごした。その別荘に手が回るまで、少し時間がかかっていたが、理由はわからない。……別荘の庭は、隣の敷地とは小川で区切られていた。あちらにある、流れのような小川だった。夏なので、流れの中でキュラスが咲いていたな……」
ソレルはあまりにも驚いたので、口をあけたが、声が出なかった。
堂主はしかし、そんなソレルを振り向きもしない。
「別荘に行ってすぐだった。わたしは庭へ、食べられるものがないか探しに行った。草の実か、木の実か……しかしたいしたものは見つけられず、魚でもと川に向かったらな、対岸から、ころころとちっちゃな子が転がってきたとかと思うと、川に落ちた。流れは急ではなかったし、浅かったので流されなかったが、見て見ぬふりもできないから、引っ張り上げてやったんだ。……その子が、あの夏だけ……初めての、わたしの友だちになってくれた。それまで、友だちなんていなかった。修業ばかりだったからな……」
――それは、僕ですよ。
ソレルはそう言おうとしたが、口が動かない。
ずっと、もう一度会いたい、会えないだろうか、と思っていたが、積極的にはさがさなかった。せいぜい、別宅の持ち主が変わっていることを確認したくらいだ。
だから、ずっと好きだった、などと言うつもりはなかった。だが、もう一度会いたいと思っていたのは確かだった。
「確か君、わたしよりふたつ下だろう? だから、憶えていなくても仕方がないと思ったんだ」
堂主は横を向いたままだった。その姿勢でそんなことを言われると、拗ねているようにしか見えない。だが、そうなのだろうか。ソレルは考えた。
「堂主さま」
ソレルは身を起こすと、そっぽを向いた堂主の前に移動した。踏んだ草が、折れて汁が滲む。
「ローゼリアだから、ローズ、と名乗ったのですか」
「それは家族が呼んでくれた名だ。……君、憶えていたのか」
目を伏せて、堂主は答えた。どことなく、怒っているように感じられる。
「……堂主さまは、いつ僕だって気づいたんですか」
「君が、わたしを男と間違えたときだ」
ソレルはその場に座り込んだ。城門で会ってすぐのときではないか。
何も言えない。ふたつ下だろうがなんだろうが、堂主は憶えていただけではなく、あのころとはまったく違う見た目になったソレルが、わかったのだ。
「あの、……すみません」
「最初は名前が同じだけの別人かと思ったが、話を聞いていくと当人のような気もした。だが、あのとき目が見えにくかったと言っていたことを思い出して、当人だとしてもわたしをわからなくても仕方ないなとも思ったんだ」
「そこで諦めずに問い質してくださいよ」
「なんといって? あれからわたしが何をしてきたか、どう生きてきたか……語れるはずもない」
堂主の答えは至ってまじめだった。
思い詰めがちで、……生真面目で、不器用で、と誰かが言った。あれは誰の言葉だったのか。ソレルにはもう思い出せなかったが、その通りだと、思った。
皇帝の密命を受けて暗殺をしていたとしても、悔いない者もいるだろう。殺さなければ殺されるからだとしたら、仕方のないことだとのみ込める者だっているはずだ。だが、堂主はそうではなかった。
そんな堂主への想いが、ソレルの胸をいっぱいにして、溢れそうだ。
「……自分のしてきたことは消せない。今はこんなに恵まれた生活をしているのに、思い出すと苦しくて……自分のしたことなのにな。苦しみや悲しみややりきれなさが極限に達すると、わたしはときどき、自分がからっぽになっていくような気がしていた。そんなときに、あのちっちゃかった友だちを思い出していた……思い出そうともしていなかったのに……」
そこで堂主は、空色の瞳をソレルに向けた。「君はね、ソレル。自分でも気づいていなかっただろうけど、何度でも、わたしを助けてくれていたんだ。……奪われても、何度でも、何度でも、わたしの中に戻ってきた……絶望にぜんぶ喰い散らかされて中がからっぽになっても、君を思い出して、……わたしの中には再び、ゆっくりとではあっても、いろいろなものが満ちていった……」
たまらない。ソレルは「好き」と告げたのに、そんな言葉を使わずに、彼女は想いを伝えてくる。そっと手を伸ばす。抱き寄せていいものか躊躇すると、堂主からソレルにもたれかかってきた。
「ありがとう。ソレル」
初めて会ったときとは逆だった。あのときは、傷を癒してくれたソレルが、彼女に礼を告げた。
今は、心の傷をさらけ出した堂主が、ソレルに礼を言ったのだ。
ソレルは、自分の心臓と大切な相手が壊れないように、そっと、彼女を抱きしめた。
「どういたしまして、ローズ……ローゼリア」
ずっと会いたかったんです。
ソレルが囁くと、堂主、――ローゼリアは、ソレルの胸に顔を伏せて、くぐもった声で、わたしも、と告げる。
ふたりがしばらくそうしていると、いつしか夜は、朝という名の果てに辿り着いていた。
【完結済】この夜の果てまでも 菅沼理恵 @Suganuma_Rie
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