二節
目をさましたソレルは急いで着替えた。いつも翌朝の着替えはホーソンが枕もとに置いてくれている。それに感謝しつつ、服を着て靴を履いた。
うるさくしてしまったのだろうか。ホーソンが目を擦りながら起きてきた。
「どうなさったんですか。声が聞こえましたが、何かありましたか?」
「ちょっと気になることがあるから出てくる」
ソレルが言うと、ホーソンは溜息をついた。
「廟堂ですね。わかりました」
「なんでわかったんだ」
ソレルは思わず足を止めて振り返った。
「いや、むしろ、こんな真夜中に大急ぎで出ようとしていてるのに、そうじゃなかったら驚きますけど」
ホーソンは眠そうにつづけた。「堂主さまは……どうしてか、アニスさんが旅に出ると言ったとき、重荷を下ろしたように見えたんです。何故かはわかりませんが……僕は堂主さまも、それを機に、アニスさんと旅に出るつもりではないかと思いました。でも、……旅に出るだけならいいんですが、もしかしたらと、いやなことを考えてしまって」
ホーソンは溜息をついた。「何故そんなことを考えたか、自分でもわかりませんが……」
「行ってくる! 帰らなくても心配しないでくれ!」
「心配しないようにしますが、獣に喰べられたりしないように、気をつけてくださいね」
叫ぶにソレルに、ホーソンは物騒な言葉を向けた。
外にとび出したソレルは廟堂に向かって駆けた。見えるが、少し遠い。その距離を駆け通しに駆けた。
肺が熱くなるほどに息を切らせて辿り着き、神祇館の扉を叩く。
「堂主さま! 堂主さま! 入りますよ!」
いつものように神祇館は鍵がかかっていなかった。夜くらいかけてほしいものだとソレルは思ったが、それでも、自分が入れたのでよかったとも思う。
いつか来た寝室に向かう。扉を叩いた。
「堂主さま。ソレルです。セイバリー・ソレルです」
名乗るが、返事はない。ソレルはごくりと喉を鳴らして扉をあけた。
中には誰もいなかった。寝台はきれいに調えられている。ソレルは小窓から射し込む月明かりを頼り、室内を見まわした。書きもの机の上に、何か紙が置いてあるのが見えた。蝋燭が刺さった手燭もあり、傍らに火打ち石も置かれている。
ソレルは震える手で蝋燭に火をつけると、その紙を照らした。
「親愛なる聖上……」
それは、皇帝にあてられた手紙だった。ソレルは素早く文字の羅列に目を走らせる。
〈親愛なる聖上
この北限の地、ミルフォリウムでも雪が溶けて、春になりました。皇都ではすっかり春でしょう。
聖上にはこれまで、身に余る数々のご寵愛を賜りました。
自分はそれを深く感謝しております。
好きにせよ、とおっしゃっていただいたものの、何もすることがないと申し上げた自分に、この廟堂をあずけていただいたこと、恩に感じております。
しかし、どうやら自分の役目は終わったようです。
せっかくの聖上のご厚意を、このような行為で返すことを心苦しく思います。
ですが、自分にはもう、この方法しかありませんでした。
この身を、自分がもっとも美しいと思った場所にて、天に返そうと思います。
今までのご寵愛は、本当に、自分にとって過ぎるものでした。
母の子であるというだけで救っていただいたこの命ですが、最後は、自分の使いたいように使わせていただくことを、どうかおゆるしください。
そして、堂主ゼラではなく、元の名前に戻ります。
廟堂につきましては、日誌に残しておきました。
次の者にお渡しください。
今まで、たくさんのお気遣いをありがとうございました。
そのご恩をこのようにしかお返しできぬ自分をおゆるしください。
これからは、地の底で、聖上の世がますます栄えることを祈ります。
いつでもあなたの忠実なるしもべ コルツフット・ローゼリア〉
ソレルは蝋燭を吹き消すと、その手紙を手に握り締め、暗闇の中を厨房へと向かった。
竈の火は消えていた。
ソレルは、自分の小嚢から火打ち石を取り出して、手紙に火をつけた。これは軍人専用の火打ち石で、すぐに火がつく。めらめらと燃える手紙を竈の灰に入れて、薪をくべた。竈の火が燃え上がると、手探りで松明用の薪を探し当て、竈に入れて火を移す。
松明を手に外に出た。
あの手紙には、「自分がもっとも美しいと思った場所」と書かれていた。
その場所に向かって、ソレルは歩き出す。
間に合ってほしい。いや、どうしても間に合わせる。
そんな決意が、胸を激しく打つ。
ソレルは松明が消えない程度の早足で、森に向かった。
森に入る前、ソレルは迷ったが、松明を捨てた。火打ち石があるから、灯りが欲しければいつでもつけられる。松明の火で森を燃やすのは忍びなかった。へたをすれば、あの草原も燃えてしまうかもしれない。そう思ったからだ。そんな自分を、ソレルは冷静だと思った。
しかし、怒ってもいた。もちろん、堂主に対してだ。
なんて勝手なひとだ。
何が、何が地の底だ。
絶対にそんなことはゆるさない。
ソレルは、森歩きで迷ったことがない。方角がわかるのだ。一度入った森は、その後、何年経っても、どこに何があるかがわかり、どこを歩いているかがわかった。だから方向音痴などとは汚名である。
以前、堂主と歩いた道を見つけることは困難ではなかった。それに、暗がりの中を目を凝らすと、明らかに、新しく人間に踏まれた草の跡があった。こんなわかりやすい跡を残せば、自分に追うことなどたやすいのだ。
絶対に、逃がさない。
そのようにして半刻ほど森の中を歩きつづけると、水音が聞こえてきた。ソレルは用心深く、可能な限り歩調を速めて歩き、とうとう淵に辿り着いた。
それまでは木々の枝葉で暗かったが、月あかりが水面を照らしてきらめいている。
しかしそこに堂主の姿はなかった。
てっきりここにいると思ったソレルは、注意深く、薄明かりの中で目を凝らしてあたりを見まわした。しかし、流れを横切って淵の周りを歩いても、誰もいない。
ソレルは立ち尽くした。焦りが胸を覆う。ここではなかったのか。堂主は確かに、ここを、この世でいちばん美しい場所だと自慢した。だが、ソレルは、ここより下流にある、薬草が豊富に生えた草原を、美しいと思った……
うつむきかけていたソレルは、そこでバッと顔を上げた。流れる水が返す月の光を辿る。あのときは、かなり歩いたはずだ。ソレルは用心して、獣と鉢合わせないように、それでも可能な限り急いで歩いた。草を踏みしめ、濡れている岩を踏んで滑りそうになりながら、焦りに苛まれて歩く。
もし、もし、もし、……間に合わなかったら。
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