終章 ふたたびの、春

一節




 アニスは旅立つ前夜、食卓の席でかしこまって告げた。

「長いあいだ、お世話になりました。わたし、こちらで過ごして、初めて知ったことがたくさんありました。とても楽しかったです」

 もう、体も快復していて、口調もはっきりしている。その声は涼やかで美しい。

「あんな騒ぎを起こしたのに、いろいろとしていただいたて、……何も返せなくて……」

「いいんだ」

 堂主が急いで言った。「とにかく、君は元気になった。……その、まだわたしを殺したければ……」

「いいえ」

 アニスはそっと首を振って、堂主に笑いかけた。ホーソンは三人に給仕するため、テーブルの端に立っている。その顔を見たが、微笑みしか浮かんでいなかった。僕の従者は本当に有能だな、とホーソンは思った。もちろん今まで、アニスがどうして傷を負ったかについて、ホーソンに語ったことはない。

「もう、いいんです。……もう、わたしを苦しめるものは、何もありません」

 そう告げるアニスの表情はどこか神々しい。自分の師であった男を殺された恨み、苦しみを、乗り越えたのだろうとソレルは感じた。

 父の病院で子どもを亡くした母親も、こんな顔をして挨拶に来た。あの子はもう苦しくない、それだけが今は救いだと。亡くなった子は、病で呼吸がうまくできなくなって、苦しんで、苦しんで、亡くなったのだ。

 父がそのとき、自分を膝に抱き上げて言ったことをソレルはふいに思い出した。

 いくら失って悲しくても、それを得たことがよろこびだったと思うしかないと。そして、諦めてはいけない、と。失ったからと言って、得ることを怖れてはいけない。いつか失うとわかっていても、空の星を掴むように、手を伸ばすのだ。夜が暗くとも、果てはある。いつか朝という果てが訪れることを疑わず、諦めないこと。……それが生きるということだ、と。

 それが、生きるということ。

 アニスは失って、まだ何も得ていないのかもしれない。だが、生きれば、また得ることはできる。失っても、失っても、なお、いつだって生きていれば、得られるのだ。――愛を。

「わたし、もう一度、どこかの一座に入れてもらおうと思います。マジョラムねえさんには本当にお世話になったのに、あんなに急に別れてしまって、申しわけなかった……だから、いつかマジョラムねえさんにまた会って、お礼を言おうと思います」

 ふふ、とアニスは微笑んだ。「マジョラムねえさんにはね、いなくなった婚約者を捜していると言ったんですよ。それをやっと見つけたと言ったら、よかったね、と抱きしめてくれました」

 祭りの最後の夜の宴を、ソレルは思い出した。あれはそういうやりとりだったのか。

「今度会えたときは、婚約者に見切りをつけて、もっといい男をさがしてる、と言うといい」

 堂主が明るく提案した。

「そうですね。そうします」




 ソレルがミルフォリウムにやってきた一年後のその日に、アニスは旅立った。その報せを聞いて、パン焼き番の女の子たちだけでなく、何人もの村人が、城門まで見送ってくれた。

 女の一人旅だ。心配なのでと、堂主は一年前にソレルを送ってきた隊商が来るまでアニスを引き留めた。一年より二日早くやって来た隊商は、取引を終えると、アニスとともにミルフォリウムを去っていった。

「そういえば、去年、君にここで会ったな」

 アニスを見送ってから、堂主はソレルを見上げて、ひっそりと笑った。

 ソレルはその笑顔に、奇妙な不安を覚えた。




 その夜、ソレルは夢を見た。

 暗い中に、見も知らぬ黒髪の男が立っている。ミルフォ村の住人でないのは明らかだった。ミルフォ村に黒髪の者は少なく、男で、長い髪の者もいなかった。

 白い長衣は、まるで神祇者のようだとソレルは思った。

(こんばんは)

 男は、ソレルに向かって挨拶をした。

「こんばんは」

 ソレルも同じように返す。あたりは暗いので、夜なのだろうと思った。どこかで水音がする。川べりのようだった。空を見上げると、どこか赤黒い。まるでそういう色の蓋をかぶせたようだなとソレルは思った。

「あの……どなたでしょう?」

 男が微笑みながら自分をじっと見ているので、ソレルは居心地が悪くなって尋ねた。夢は、脳が過去の記憶を処理する現象だと、医師のソレルは認識している。しかし男は見たこともない顔をしていた。

(わたしは、……もう名前はなくなってしまったから、名乗れない)

 男は少し、残念そうな顔をした。

「名前がない……」

(それは些細なことだ)

 男は笑うのをやめた。言葉をさがして考えているように見える。

(君に、頼みがある)

「僕に」

 見も知らぬ男の頼み。それは自分に叶えられることだろうか。

「できることでしょうか……」

(君ならできよう。いや、……もう、君以外にはできない)

 男は溜息をついて、首を振った。どことなく、困っているように見える。

(あれを、止めてくれ)

「あれ、とは……」

 そこで男は、明確に困ったような顔をした。

(私の……いや、もう、私たちの絆は切れた。私がここにこうしているからには、もう、あれとは……なんの関係もないのだが、どうにも、心配でね)

 あれ、というのがひとであることに、ソレルは思い至った。

「どなたか、止めなければならないことをしているんでしょうか」

(うん。そうなんだ。君にも関係のあることだ)

「僕に」

 ソレルが首をかしげると、男はうなずいた。

(あれは、……自分の役目が終わったと思っている。ばかな子なんだ。思い詰めがちで、……生真面目で、不器用で)

 そこで男は、困りながらも笑った。その笑い声は明るく、ソレルに大切なひとを思い出させた。

(母親がお針子だったのに、不器用なんだ)

 ソレルははっとした。

「それ、は……」

(私は生きていたあいだの時間、半分も、あれとは一緒にいられなかった。おかしな話だ。同じ親から生まれたのにな……)

 ソレルは息をのんだ。

 この見知らぬ男は死者だ。そして、見知らぬ死者だというのに、ソレルの夢に現れている……それは、彼にとって縁深い者が、ソレルにとってなくてはならぬ者だからだ。もちろんホーソンではない。ほかの家族でもない。

「わかりました。おまかせください」

 ソレルは急いで承った。

(君に、……あれを、頼む。そして、伝えてくれ。あれが、……あれの罪は、私がこの地の底まで持って来たから、気に病むな、と)

「どういう意味かまったくわかりませんけど、絶対にそのように伝えます!」

 ソレルは夢の中で叫んだ。

 そして、自分の声で目をさました。


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