三節
しばらく、部屋は重い沈黙に満ちていた。
「あなたは、ロラさまの妹……」
アニスはしわがれた声で囁いた。
「そうだ」
堂主は短く答えた。
「そうなのね……」
アニスはよろよろと手を上げると、顔を覆った。嗚咽が漏れる。
そこで、部屋の扉が叩かれ、応えを待たずにあいた。
「お皿を下げに参りました」
もちろんあらわれたのはホーソンだった。「全部、のめましたか?」
問いながらも、書きもの机に置いた空っぽの皿を見て、ホーソンは笑顔になった。
その場の空気の重さに気づいているのかいないのか、寝台に横たわるアニスに向かって言う。
「おいしかったですか?」
アニスは戸惑ったように、顔から手をどけた。涙で汚れたやつれた顔を、ゆっくりとホーソンに向ける。
「はい……」
「だったら、よかった。……このふたりはね、あなたを心配して、ずっとつきっきりで看病していたんですよ。だから元気になってくださいね。あしたもスープを作ります。あさってはパン粥にしましょう」
ホーソンの言葉に、アニスは目を瞠った。
もちろんホーソンは、アニスが何者か、何をして傷を負ったのか、何も知らない。だが、傷ついて、衰えていることはわかっている。
そして彼は、やさしい男だった。そんな女の子にかける言葉はやさしくあるべきだと考えているのだろう。
「あなたが……つくったの?」
「ええ。私はそこの、ソレルさまの従者です。料理どころか、裁縫も掃除も洗濯も、なんでもしますよ……ですが、ソレルさまのように、ついた傷を縫い合わせるなんてことはできないんです」
ホーソンは皿を手にすると、再びアニスを見た。「あなたの胸の傷は、私の主人が縫いました。縫い跡が残ってしまうようですが、それは、ご勘弁ください。主人は、せいいっぱい手を尽くしたんです。それをわかっていただけると、いいのですが」
純粋な善意にふれて、驚いたようにアニスはまじまじとホーソンを見つめる。
ホーソンは、アニスを傷ついたかわいそうな娘だと思っているのだろう。
「ホーソン、僕たちもあとで食事をしたいんだけど、いいかな」
「わかりました。スープを温めます。パンも少し、炙りましょう。そこのお嬢さんが目をさましたお祝いに、とっておきの乾酪の、最後のかけらも出しますね。広間でよろしいですか?」
「うん、……僕たちが食べているあいだ、彼女を見ていてくれるかい? 彼女はアニスっていうんだよ」
それからソレルは、アニスを見た。「彼はホーソンだ。いい男だろう。弱っている女の子に不埒な真似はしないから、安心して。水を飲みたかったり、お腹が空いたりしたら、恥ずかしがらずにちゃんと言うんだよ」
ソレルがそう告げると、アニスはゆっくりとまばたいて、はい、と小声で返事をした。
しばらく日が経つと、アニスは起き上がれるようになった。
「僕は駐在官だけど、君のことは、どうにもできないな」
寝台から出て歩けるようになった夜、ソレルは彼女に告げた。
「なぜですか……」
アニスは戸惑ったようだ。
「だいたい、自殺しようとした子をどんな罪に問えばいいのか。君を糾弾できるとしたら、神祇者だろう。神にもらった命を粗末にするな、とね」
その前に、アニスは堂主に襲いかかっていたのだが、ソレルはそのことは言わずにいた。アニスも、困ったような顔をしただけだった。
「あのね」
そこでソレルはちょっと笑った。「怖がらずに、聞いてほしい」
アニスは表情を強ばらせる。だが、黙ってうなずいた。
「僕は、堂主さまを悲しませたくないんだ」
「あのかたを……」
「彼女はたぶん……いや、君に生きてほしいんだと思う」
その言葉に、アニスは眉をひそめた。
「……わたしは、もう……あのかたを、殺せません」
「そうだろうね」
ソレルはうなずいた。それは確信していた。
「ただ、気になってることがあるんだけど」
「なんでしょうか」
「なぜ君はあのとき、自分を刺したんだい? 堂主さまでなく、自分を」
「……あのかたは、殺される準備をしていたと思ったからです……」
アニスはゆっくりと口をひらいた。「そんなひとを殺しても、復讐にならない。わたしは、……ロラさまを殺した相手を憎んできた。殺したいと思っていたけれど……わたしが苦しんだように、苦しませたかったんだと、気づいたんです」
ソレルはじっと、彼女の述懐に耳を傾ける。
彼女が復讐を考えた気持ちは、痛いほどわかった。ソレルも、もしホーソンが誰かに殺されたら、相手を憎むだろう。手にかけたいと思ったかもしれない。
愛し親しんだ相手を奪われれば、ひとは憎しみに囚われる。
憎しみは愛の相対ではない。愛と憎しみは、硬貨の表と裏だ。愛するからこそ、憎む。
同じもののも違う側面だ。
「誰も自分を惜しまないと、あのかたは言いました。わたしは、……それが憎くて、悔しくて、でも、殺しても、思い知らせることはできないと、考えたんだと思います……だから、あのかたの目の前で、自分を殺しに来た相手が自ら死ねば、あのかたが、傷つくと思ったんでしょう……おかしなことですが」
アニスはそこで、くすりと笑った。そうすると、笛を吹いていた、あの可憐な姿を思い出せた。
「わたしは、どうしても、思い知らせたかった。でも、あのかたは、すでに思い知っていたんですね……」
「そのようだね」
堂主は毎日、駐在所に来る。事件から十日以上経って、ソレルはまだ寝込んでいることになっているので、村人が心配しているらしい。きょうは乾酪の塊を託されて持って来てくれた。それを受け取ったホーソンは、ひどく機嫌がよくなっていた。
最初、ソレルを、悪評高い前任者のようではないかと疑っていた村人が、今は案じてくれている。
ひとは、変わる。さまざまな面を持っている。愛や憎しみも、そうなのかもしれない。
「たぶん堂主さまは、君に幸せになってほしいと思っているんじゃないかな」
「……しあわせ……」
アニスは呟いた。「なれるような気がしませんが……でも、何か、重いものが落ちた気がします。どこか、心が軽くて」
彼女は苦笑した。「まるで今まで、ずっと夜の中を歩いていたような気がするんですが……周りが、明るく感じるというか」
「それでいいんだよ」
「ロラさまは、薄情な弟子だと思われているかもしれない……」
アニスは呟いたが、その瞳は悲しそうというより、ぼうっとしていた。
「どうだろうね。話を聞く限りでは、君たちを利用しようとしていたんだろう。君にとってはやさしいかただったとしても」
アニスに気を遣って、ソレルは付け加えた。
「そうです。わたしにとっては、やさしいかたでした。わたしは、命を救われたので……どんなことでも、ロラさまに命じられれば、受けるつもりでした」
「堂主さまも、聖上に対してそうだったのかもしれないね」
ソレルが言うと、アニスははっとなった。
「あのかたも……」
「それに、ロラ神祇長は、堂主さまの兄上だ。もし本当に叛逆罪として処断することになれば、堂主さまも連座に問われたかもしれない……だから皇帝は、ロラ神祇長をひそかに処分したかったのかなと、僕は思ったよ。いくら死んだつもりになって生まれ変わったとしても、堂主さまがロラ神祇長の妹であることは変わらない……探られて関係性が露顕しなかったとも限らない」
「……何もかもが、絡み合う蔦のようですね」
アニスはしずかに呟く。
部屋の外で足音がした。ホーソンが食事を持って来たようだった。
冬じゅう、アニスは駐在所の宿舎で過ごした。
ソレルはさすがに悪い風邪をいつまでもひいているわけにはいかなくなり、ミルフォ村へ出た。村人たちはみんな、本気でよろこんでくれたようだった。
雪が降り始めたのはそのころだった。
一晩で雪は降り積もり、あっという間に銀世界となった。有能な従者のホーソンは、アニスが長逗留になることを見越して、薪も食料も祭りのすぐあとに多めに手に入れており、滞在者がひとり増えても何も問題はなかった。
冬が深まるうちに、アニスの傷はすっかり癒えた。
傷が癒えるにつれ、彼女は笑顔を見せるようになった。
堂主は毎日、午後になると駐在所にやってきた。そのうち、パン焼き番の女の子たちは、目当ての堂主が不在では、わざわざ雪をかきかき廟堂までやってくる甲斐がないと思ったのか、午前のうちに仕事を済ませて、堂主とともに駐在所に来るようになった。
おかげで旅芸人の一座にいた笛吹きの少女が駐在所にいることが知られ、あのとぼけた駐在さんが愛人を囲っているという噂が流れ、ソレルはたいへん不名誉な思いを味わった。その噂を消して回るのに苦労するうちに、年が改まり、新年になった。
そのころになると、毎夜、雪が降った。日中は晴れて明るいが、夜になって気温が下がると、一気に寒くなる。ホーソンが気遣って、毎晩、焼いた石を寝具に忍ばせてくれた。
そんな寒さだというのに、アニスは、寝台を占領しているのが申しわけないからと固辞した。なのでホーソンが厨房の竈の前に寝床をつくった。アニスはそこでならと、火の番をしながら寝るようになった。それはソレルが勧めたことでもあった。できるだけあたたかい場所で寝たほうが体の回復にもいいと考えたためだ。清潔な布で乾いた藁をしっかりくるんでしつらえた簡易な寝床に、納屋にあった古ぼけた分厚い毛布をかけて、アニスは熾火に照らされて眠った。
相変わらず、堂主は日替わりで別の女の子を連れてやってきた。そのおかけで、昼の駐在所はひどく賑やかになる。
パン焼き番の女の子たちは、アニスに頼んで横笛を教えてもらい、アニスはその代わりに編みものを教えてもらっていた。堂主もそれに混じって、神妙な顔で編み針を操っていたが、とても器用とは言えなかった。ためしにつくった襟巻は、網目が不揃いで、ほつれがちだった。母は器用なお針子だったのに、と堂主はぼやいた。
そしてときにはみんなで遊戯に興じた。ミルフォリウムの子どもたちが、雪に埋もれる冬に屋内でするのは、かくれんぼや、言葉遊び、手遊びなので、何も道具は要らなかった。ときにはマリーの持って来た本を、代わる代わる朗読した。
アニスは朗読がうまく、声色を変えて芝居っ気たっぷりに読んでくれた。腰から下が魚の尾ひれの、海に棲む人魚の話などは、最後に主人公の人魚の姫が海にとび込んで空気の精になってしまうところで、マリーは咽び泣いた。マリーの評判を聞いて、それからはパン焼き番の女の子たちは、アニスの朗読を聞きたがった。
とはいえ大きな傷を負ったばかりのアニスは、長く読めない。せいぜい、人魚の姫の話くらいの長さしか読めないので、彼女が疲れると、堂主が変わって読み上げた。
楽しい日々は、雪が溶け始めるまでつづいた。
雪解けは突然やってきた。
もうその日、起きたソレルは空気の違いを感じた。春になっているのだ。空気があたたかい。前夜、雪は降らなかったようだ。それからは毎日晴れて、雪はどんどん溶けていった。しかし、夕暮れが過ぎると凍るので、帰りが遅くなると、堂主は駐在所に泊まっていくようになった。そんなとき、ソレルは少し不安だったが、アニスと一緒に厨房の竈の前で眠っていた。ふたりがどんな話をしたか、ソレルはついぞ知ることはなかった。
とけた雪は夜に凍るが、昼になるとまた溶ける。しかしやがて、雪解けの水はすべて地面にしみ込んだ。これが井戸の水にもなるのだろう。
そして、ソレルが赴任して一年めが終わりに近づくと、アニスは、堂主も同席している夕食の食卓で、ミルフォリウムを去る、と告げた。
それからは、アニスのために旅のしたくをした。ソレルは医師として胸の傷を改めて診て、もうすっかり塞がり、痛むことはあるかもしれないが、強く打ったりしなければだいじょうぶだと判断した。そして、旅のあいだに痛んだときのためにと、ありったけの薬草で、鎮痛薬をたくさんつくった。
ホーソンはアニスのために、堂主とともに村の商店へ行って、新しい服を買い求めた。アニスは駐在所ではずっと、ホーソンの古着を身に着けていたのだ。若い女の子だからと、可愛い服ばかり選ぼうとするホーソンと、旅に出るのだから実用着がいいと言う堂主のうち、堂主に軍配が上がり、ホーソンはマリーに愚痴った。するとマリーは、パン焼き番の女の子たちと相談して、アニスにと、美しい金髪に似合いの華やかな髪紐を贈った。
それをアニスがもらった夜、厨房からは彼女の啜り泣きが聞こえた。
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