二節




 少女に名を尋ねると、アニスと答えた。

 夜になって、少女はホーソンの作ったスープを飲んだ。口もとに匙を運ぶと、素直に口をあけた。おいしい、と呟き、涙を流した。

 スープをすべて飲んでから、彼女は自嘲するようにわらった。

「わたし、なぜ生きているの……」

 吐息のような、細い声だった。

「それは、この堂主さまと僕が、君を生かそうとしたからだ」

 ソレルはそう答えた。

「堂主……あなたは、誰なの」

 アニスはかすれ声で問う。「ロラさまを殺したのは、あなたなのでしょう。なのに、堂主だなんて」

 アニスの言葉に、堂主は息を詰まらせた。

 それから、隣に座っているソレルを、ちらりと見る。

「君は、……駐在官だ。彼女の話を聞いたほうがいいだろう。……彼女に話してもらうには、わたしの話も聞かないとならないだろう……」

 苦しそうに、堂主は口をひらく。

「そうなりますね」

 ソレルはうなずいた。

「わたしを罪人として糾弾するのはかまわないが、できれば、村人には、わたしの話したことは、……誰にも言わず、その胸にしまっておいてくれないかな……」

 ソレルは、どうにも答えようがなかった。

 まず、堂主を罪人として糾弾する気が、ソレルにはまったくなかった。

 今まで、ひとの心の機微がわからないという自覚があり、朴念仁とも言われてきた。だがソレルは、こうなって初めて、自分にはまったくひとの心がないと思い知っていた。

 たとえ堂主が、アニスの言うロラ神祇長を殺害していても、それを罪に問う気にはまったくなれなかったのだ。それどころか、もしその罪が露顕して堂主が罰されることになったら、彼女を連れて帝国を出よう、とまで考え始めていた。

 初めて、好ましいと感じた相手だ。それを奪われるくらいなら、すべてと引き換えにしてでも奪い返す。頭のどこかさめた部分が、そんなことを考えている。

 自分でもどうかしていると思う。

「それはまず、話を聞いてからですね」

 だから、そう答えるしかなかった。堂主はうなだれたが、すぐに顔を上げた。

「確かに、そのとおりだな」

 そして、寝台に向き直る。「君、……アニス。わたしは、……君の言う、ロラ神祇長の妹だ。どこから話せばいいか、わからないが……」

「ぜんぶ。ぜんぶ、話して」

 アニスはかすれた声で請う。

 堂主はうなずいた。

「ロラ神祇長は、本名をローレル……コルツフット・ローレルといった。わたしとは四つ離れていた。わたしたちは幼いころから異能があり、ふたりとも神祇館に通っていた。わたしが八つのときに……伯父が、……わたしたちの異能の師匠でもあった伯父が、皇帝に叛意があるとして処断され、両親も連座で殺された。伯父の妻や子も、父たちのほかの兄弟とその妻子もだ。わたしは兄に連れられて逃げた。子どもだけで三年も逃げつづけたが、最後には捕らえられた。わたしは兄と引き離されて、皇帝の前に引き出された」

 堂主は囁くように、そこまで一気に語った。

 ソレルは息をのんだ。会ったばかりのころ、堂主はソレルに皇帝のことを尋ねたが、知っていて、素知らぬ顔で尋ねたのだ。そう考えると、少し残念だった。といって、会ってすぐに、皇帝に面識があると堂主に言われても困っただろう。そう思い直す。

「皇帝は言った。コルツフットには気の毒なことをした、と。彼女は悲しそうだった。両親を殺した相手なのに、どうしてかわたしは、皇帝を気の毒に思った。それまでひどく憎んでいたのにな……」

 堂主の両親が叛逆罪で処断されたことは今までにも聞いていたが、それがどうして、兄を殺すことになったのか。ソレルはいやな予感がしたが、それでも先を知りたいと思った。知らなければ、余計に気になる。いやな想像をしてしまう。そんな鬱々したものを抱えたくはなかった。

「皇帝は、わたしを殺したくない、と言った。だが、今までの叛逆罪に問われた者は、すべて三親等まで処断してきた、赤子でも、……だから、いくらあの器用なアイヴィの嫁いだコルツフットの子どもでも、アイヴィと同じ黒髪の美しいおまえでも殺さねばならない……だけど、そうしたくないと。アイヴィというのは、わたしたちの母の名だ」

 堂主の声は震えていた。「父を、母を殺したのに、そんなことを、皇帝は言ったんだ。わたしは、……彼女が憎くて、だけど、彼女も母を殺さなければならなかったことを悲しんでいるとわかって、……どうにもできなかった、苦しかった。それでも、生きたかったから……彼女の提案を受け容れた」

「聖上の、提案……」

 ソレルは胸がざわついた。あの皇帝が、何を提案したのか。

「皇帝は、わたしを死んだことにして、生まれ変わり、自分に仕えよと言った。わたしは元の名を捨て、ゼラとなり、……皇帝の命じるままに、……さまざまなひとの急所を学び、……十三のとき、初めて皇帝の勅命を受け、勅命処刑人として暗殺を実行した」

 ソレルはゆっくりと、膝の上の手を握りしめた。

「……あなたも、わたしと同じなの……」

 それまで黙って聞いていたアニスは、ゆっくりと口を開いた。「わたしは、……両親は、賊に殺されて……神祇館の施設に引き取られて、ロラ神祇長に出会ったの……」

「同じといっても、君は手を汚したことがないだろう。なんとなく、わかるよ」

 堂主はぎこちなく顔を動かした。アニスに向かって微笑みかけたつもりなのだろう。

「……兄も助けられていたのは、ずっとあとになってから知った。皇帝はわたしたちの命を惜しんだが、だからといって野に放つのはできなかったようだ。そして、わたしを処刑人にしたのは、女のほうが、相手が油断するかららしかった。皇帝は、そうやって何人も、処刑人を使っていた。どこかの貴族の病死も、ほんとうに病死とは限らないようだ……」

 とにかく、と堂主はつづけた。「兄は男で、異能が強かった。さまざまな新しい術を編み出せるので、皇帝は兄を神祇者にした。兄はおとなしく従ったが、やがて、皇帝の暗殺を考えるようになったらしい。兄は皇帝に絆されなかったんだ。だが、それを押し隠して皇帝に仕えていたんだろう……」

 そこで堂主は深く息を吐いた。そこで、枕辺に置いた湯呑みを取り、口をつけて飲む。さきほどの、蘇りの霊薬を混ぜた湯だ。ソレルは一瞬、ハッとしたが、堂主が吐き出しもしなかったので、味もなかったのだろうと思い直す。ちらりと見ると、花びらはぜんぶ、湯呑みの底に沈んでいた。効能はもう消えてしまったのかもしれない。

「これ、おいしいな」

 堂主はそう言うと、湯呑みをソレルに差し出した。「君、飲んでみるか?」

 蘇りの霊薬などといっても、いったいなんなのかわからない。いつもだったらソレルは断っただろう。しかし笑顔で受け取り、そっと湯呑みを半回転させてから口をつけた。堂主はアニスに視線を戻していて、ソレルのしたことに気づかなかったようだ。

 霊薬の混じった湯は、ほんのりと味がした。おいしいと堂主が言ったのもわかる気がした。皇都で貴婦人の好む花茶のようだ。もしかしたら、ただの花茶だったのかもしれない。アニスが目をさましたのは、ただの偶然だったのかもしれない……

「わたしが処刑人となって十年ほど経ってから、皇帝にひそかに呼び出された。行くと、皇帝は憂鬱な顔をしていた。アイヴィの娘よ、と彼女は言った。おまえに頼みがある、と。そして、この頼みを受けてくれるなら、おまえを自由にする、と言った……さすがに十年ものあいだ、闇に潜んで暗殺をしていたら、飽きてしまっていてな。わたしは、まず話を聞かせてもらうことにした。そこで、……皇帝は……ロラ神祇長という者に叛意が見られると、言ったんだ。だが、事情があって、公には処断できない。だからわたしに……と」

 ソレルは、皇帝を思い浮かべた。年取った美しい貴婦人。血みどろの皇位争いを生き延びて皇帝に即位した女性。

 なんとむごいことを言うのだろう。もちろん、皇帝はわかっていながら、堂主に告げたのだ。

 彼女は慈悲深く、また残酷なのだ。

「そして皇帝は言った。彼は子どもたちに暗殺を仕込んで、自分に仕向けようとしていると」

「そうよ」

 アニスはしゃがれた声で肯定した。「わたしたちは、……さまざまなことを学んだわ。ひとに紛れて、ふつうの顔をして暮らすこと。学問や武芸、技芸も。わたしの笛を聞いて、ロラさまは、術を編んでくれたわ……」

 堂主はじっと、アニスを見た。その横顔は、虚ろだった。

「わたしはロラ神祇長を観察するために、彼の住む神祇館へ行った。そして、物陰から見たロラ神祇長を見て、すぐにわかった……兄さん、……兄は、父さんに、そっくりになっていた」

 そこで堂主は、ふとソレルを見た。その視線に気づいて、ソレルは手にした湯呑みを差し出した。

「お好きなだけどうぞ。ぜんぶ飲んでしまってもかまわないでしょう」

 いつもの調子で言うと、堂主はぎこちなく顔を動かした。笑ったようだった。

「ありがとう」

 堂主は再び、湯呑みを取ると、飲んだ。こんなときなのに、ソレルは満足した。

 堂主は湯呑みを手にしたままつづけた。

「皇帝には命を救ってくれた恩義がある。だが、……だが、ずっと、どこでどうしているかと案じていた兄が、目の前にいる。どうしても抑えられず、わたしはその夜、神祇館に忍び込んだ。兄はすぐわたしに気づいたよ。わたしは、母にそっくりなんだそうだ」

 さぞ美しい母親だったのだろうな、とソレルは思った。

 堂主は言葉をさがしているようだったが、意を決したようにつづけた。

「兄は、おまえが生きているとは思わなかったとよろこんでくれた。わたしは兄に尋ねた。今はどうしているのかと。すると兄は言った。神祇長をやっている。皇帝は浮世を離れ神祇者になるのと引き換えに自分を生かしたと。そして、……皇帝をいつか殺す、と言った。今はその準備を進めていると。そのときに、吹笛にのせた術で相手を酩酊させ、心地よいままに殺す術を編んだばかりだとも言っていたな」

 それが、アニスのあの笛の音なのかとソレルは思った。だが、あれがわるいものとは思えない。油断させるためにしろ、あれが術なら、ひとを心地よくさせるための術としか思えなかった。

「子どもたち……廟堂の、神祇館で育った子どもたちは、どこの子も、ひとりは皇宮に上げられるだろう? だから、そばに行けば、どんな方法を使ってでも殺すことはできると、兄は言ったんだ……」

 そこで堂主は、深く溜息をついた。

 堂主の兄は、皇帝を憎んだのだろう。その憎しみを押し隠して、生き延びた。

 しかし妹の堂主は、……堂主は皇帝の悲しみを受け取り、ゆるすことにしたのだろう。なのに。

 ソレルには、皇帝はそんな堂主のやさしさにつけ込んだとしか思えなかった。今のままでは、皇帝に次に会うことがあったら、何を言ってしまうかわからない。そうしたらソレルも叛意があると処断されてしまう。連座で一族に影響が及ぶくらいなら、もう二度と会わないほうがいいかもしれないと考えた。

「わたしはその夜は去った。だが次の夜、兄を殺しに行った。子どもたちも殺したよ」

 堂主はそこまで話すと、これで終わりだというように口を閉ざした。

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