四章 冬

一節




 それからしばらくのあいだ、ソレルは自分の寝台で寝られなかった。

 ソレルの手術は成功していた。少女の傷はすっかり塞がって、心臓も滞りなく動き、呼吸もしていたが、彼女は目をさまさなかった。ソレルは、石の床に板を敷き、予備の寝具を敷いてそこで寝た。少女がいつ目をさますかわからないので、そのほうが都合がよかったのだ。

 堂主は翌朝の早いうちに村に行って、祭りのあとで公会堂に泊まったソレルが夜中に具合を悪くして帰ったことと、悪い風邪をひいたようなのでしばらくは村に来られないこと、駐在所に用がある者はうつらないように午前のうちに廟堂に来て自分を通すようにと告げてくれた。おかげでソレルは存分に少女の看病に尽力できた。

 堂主は、その後、毎日、昼を過ぎると駐在所にやってきた。よほどソレルは、駐在所に泊まるよう勧めたかったが、駐在所に用がある者が堂主に会いに来ることがあるかもしれないと考え、なんとかそう口にするのはやめていた。

 少女はしかし、まったく目をさまさなかった。


「わたしの異能の術で傷が塞がらなかったのは、この子に生きる気力が、生きたいという気持ちがないからだ……君がいてくれてよかった……」

 少女が眠って三日めだっただろうか、横たわる少女の枕もとに立った堂主はそう呟いた。

「堂主さまの術は、そういうものなのですか?」

「ああ。理の循環をずらすにしても、本人の生きる意思が必要だ。……目をさまさないのはそのせいかもしれない」

 そう告げる堂主は、少しやつれていた。

 医師として少女が目をさまさないことも気になったが、ソレル個人としては堂主のやつれようのほうが心配だった。

 少女は患者だが、堂主を殺そうとしたのだ。堂主のほうが、ソレルにとっては重要ではある。彼女を助けようとしているのは医師として、そして堂主がそれを望んでいるからだ。ソレルの頭の中のどこか冷静な部分はそう考えていた。

 もし少女が目をさましたとき、堂主に襲いかかったら全力でねじ伏せねばならないだろう。できればそんなことにはなってほしくないとソレルは願っていた。

 ソレルはホーソンに、堂主にたっぷり食べさせるように言いつけた。ホーソンは得意の野菜のスープを作って、乾肉を浸し、堂主に毎日食べさせた。

 そしてまた、数日経った。




 人間は十日も水をとらなければ渇いて死んでしまう。眠っている少女に水を飲ませようとしても喉が動かないので嚥下させられず溢れてしまう。せめて目をさましてくれればいいがと思い、気付け薬も使ってみたが、効果は出なかった。

 このままでは彼女は衰弱して死んでしまうだろう。ソレルがそんなことを考え始めたときだった。

 思い詰めた顔をした堂主が、午後遅くにやってきた。

「これを使ったら、目をさますかもしれない」

 ソレルの部屋に入ってきた堂主は、ホーソンが廊下に出て扉を閉めると、握っていた手をひらいた。

「なんでしょうか」

 堂主の手の中に入っていたのは、小瓶だった。中には、何かの欠片のようなものが詰まっている。黄色く、小さな欠片だ。乾いた花びらのようにも見えた。

「……それは、廟堂にあった。先代の日誌には、死者をも生き返らせる蘇りの霊薬だと書いてあった」

 堂主は言いにくそうに、そう説明した。「よほどのことがない限り、持ち出してはいけないと……」

「蘇りの霊薬……」

 ソレルは戸惑った。これは、もしや。

「これは、不死の秘草……ではありませんか?」

「よくわからない」

 堂主は首を振った。溜息をつく。「わたしが来たのは、先代が亡くなったあとだったからな。何度か枕辺に立たれたが、声が聞こえなくて」

「え……枕辺に、立たれたって」

 ぎょっとしてソレルは、堂主を見つめた。

「死霊が」

 堂主は肩をすくめた。いつもだったら笑っていただろう。そういえば、とソレルは考える。城門での一件以来、堂主の笑顔を見ていない。よく笑うひとだと思っていたが、もともとは、さほど笑うこともなかったのかもしれない。

「異能者だからな、たまに、……夜は死霊がやってくる。声が聞こえないので、何もできないが……」

 そこで堂主は顔を歪めた。「わたしの異能は中途半端でな。死霊は見えても、声が聞こえない。死霊を浄化するにはその声を聞かないとならないから、そういう仕事にはつけなかったんだ……聞こえないならどんな恨み言を言われてもわからないから都合がいいと言われたがな」

 誰に言われたのか。ソレルがそんなことを考えていると、ホーソンが気を利かせて、椅子をもう一脚、広間から持って来た。堂主は礼を述べてそれに腰掛ける。ホーソンは用を済ませると再びへやを出ていった。

「中途半端なんてことはありません。堂主さまは、村人の怪我を治したし、僕の傷の血も止めてくれました。彼女の傷も、……血が失われなかったから、手術できたんです」

「君には迷惑をかけた」

 堂主はふと、心配そうな顔をした。「腕の傷は、いいのか。すぐに手術もしていたが」

「左腕でよかったですよ。表皮だけだったのでとっくにかさぶたは剥がれました。でも、右腕だったら手術はちょっとむずかしかったかも。……それより、その、……」

 ソレルは口ごもった。ああ、と堂主はうなずく。

「蘇りの霊薬だな。これが君の言う不死の秘草かはわからないが。代々の堂主に伝えられてきたものだ」

 そう言うと、堂主は小瓶をソレルに渡し、服の合わせに手を入れた。何をするかと思ったら、そこから古びた冊子を取り出す。

「これに、使いかたが書いてあるらしい」

「なんと……」

 ソレルは驚きのあまり目を瞠った。その本を、ソレルは皇都の図書館で見たことがあった。ずっとさがしていた、皇都の図書館では持ち出し禁止の稀覯本だ。

「きのうの夜、書庫の棚の隙間に落ちてるのを見つけたんだ」

「僕がお借りしたかったのはその本ですよ。道理で見つからないはずですよね……」

 値のつかない稀覯本がそんなふうに隠れていたとは。ソレルはちょっと笑った。

「ここに書いてあるように用いるといいらしい」

 堂主は本をひらいた。しおりを挟んでいたようだ。すぐに必要な項目を見つけ出す。

「『ひとつまみを湯に入れて、その匂いを対象者に嗅がせる。たちどころに対象者は、どんな傷を負っていても塞がり、血の気を取り戻し、息を吹き返す。ときには、半日前までなら、亡くなった死者にも用いることは可能だが、その際、傷があるとそこから血が流れ出すので、傷を塞いでから使うこと』とあります。気付け薬のような使用方法のようですが……」

 ソレルは堂主が指し示した記述を読み上げた。それだけか、という気持ちになる。

「ああ。効き目があるか、わからないが」

 堂主も自信がなさそうだ。

「このままでは埒があきませんから、やってみますか」

 ソレルはそう言うと、小瓶を堂主に返して立ち上がった。部屋を出て厨房に向かうと、広間にいたホーソンに見とがめられる。湯が必要だと言うと、一緒に厨房に来て、竈にかけられていた鉄瓶から、湯飲みに汲んでくれた。飲むかと思ったのか、湯呑みをふたつ渡される。

 ソレルは湯呑みを両手に持って戻った。扉をあけるのが難儀だったが、湯飲みをひとつ抱えてあける。すぐに湯飲みを持ち直して部屋に入った。扉はそのままだ。堂主に湯飲みを渡して、すぐに扉を閉めて戻る。

「ひとつまみってどれくらいでしょうか」

「わからんが、これもたいした量じゃない。どうせだめで元々だし、全部使ってしまってもいいぞ」

 堂主はやや思い詰めたように言うと、小瓶を窓から射す光にすかした。確かに、たいして量があるわけではない。……しかし。おそらくこれは、ソレルが見つけるように命じられた、不死の秘草なのだろう。

 皇帝は。必ずそれを持ち帰れと命じたわけではない。あればあったと知りたい、なければないと知りたい。そう言った。で、あれば……あったが、使ったのでなくなった、と報告しても、咎められないのではないか。

 またあるいは、と考える。皇帝は、実際のところ、見つかろうが見つかるまいが、特に気にしていないのではないか。あまりにも曖昧な命令であるし、命令を遂行できずとも厳罰がくだるわけではない。不死の秘草が存在した、ただその事実を得たかったのではないだろうか……この期に及んでソレルは、そんなふうに考えてしまった。

 ――皇帝が本当に何を考えているかは、わからない。だが、彼女の慈悲深さをソレルは期待した。また、この秘草が皇帝の求めるものかどうかもわかりはしない。使ってみて、そうだった、とわかれば、そのように報告すればいい。ソレルは覚悟を決めた。たとえ咎められても、医師としてのソレルは、この少女を救わねばならないと考えていた。

「その、……わたしが堂主を辞するとき、次代にあててそれについて書くのがめんどうだから、ぜんぶ使うと言ってるんじゃないぞ」

 黙ってしまったソレルの沈黙をどう解したのか、堂主はそんなことを言った。ソレルは思わず笑ってしまった。

「違いますよ。本当にこれが蘇りの霊薬で、僕の探している不死の秘草だとしたら、ここで使い切ってしまってもよいのかな、と思っただけですが……まあ、いんでしょう。そんな気がします」

 ソレルはそう言うと、そっと堂主に手を差し出した。堂主は瓶の蓋を抜くと、ソレルの手から湯呑みを取り上げ、空いた手に小瓶を載せる。

 ソレルは瓶から、手にした湯呑みに中身をすべて注いだ。はらはらとこぼれ落ちる黄色の花びらは、かすかに甘い匂いを漂わせる。それが水面に落ちると、匂いがいっそう、強くなった。

 ソレルは、花びらが沈んでゆく湯の入った湯呑みを、少女の顔のそばに近づけた。

 最初はゆっくりと、湯呑みからよい香りが漂ってきた。甘いが、甘すぎない。そして、どことなく爽やかさもある。何かの花の香りだ。しかし、それがなんなのか、ソレルにはわからない。薬草には詳しいが、観賞用の花には詳しくないのだ。

 次第に、湯呑みから沸き立つ香りが強くなった。湯の中で、黄色の花びらが渦を巻いている。その匂いは、やがて部屋全体を満たした。

 ……ソレルは、母方の祖母を思い出した。今も皇都の小さな家で、祖父と一緒に暮らしているだろう。仲のよい夫婦だ。子どものころ、ソレルが会いにいくと、よろこんで迎えてくれた。祖母の焼いてくれた菓子の匂いまで思い出した。元気でいるだろうか。皇都を発つ前に挨拶をしたが、老齢のふたりは、もう二度と会えないかもしれないと悲しみつつ、孫を送り出してくれた。

「兄さん……」

 堂主の声がした。見ると、彼女は少女を見つめたまま、涙を流していた。

「あなたの、したことが、これか……」

 その言葉の意味は、ソレルにはわからなかった。

 やがて匂いが最高潮に達したかと思えたとき、少女の瞼がぴくりと動く。

 ソレルは、湯呑みをそっと引いた。

 その動きに誘われるように、少女は瞼をあげた。

 ソレルは彼女に呼びかける。

「君、……目がさめたかい」

 少女の瞳が、ゆっくりと動いてソレルを見た。そして、堂主を。

「……ここは」

 かすれた声で彼女は呟いた。そして、痛みにか、顔をしかめる。

「ミルフォリウムの駐在所だ。君の傷は深かったが、縫って塞いだ。すぐには起き上がれないと思うが……」

 そう言いながらソレルは、ずっと置きっぱなしの薬箱から清潔な端布を取り出した。花びらの揺れる湯呑みに端布をつけ、濡れたところを少女の口もとに持っていく。口の端に当てると、少女はそれを唇で挟んで、すすった。水を飲む気はあるようだ。

 ソレルは湯呑みを枕辺に置くと、次に、薬箱から取り出した鉄製の吸飲みに、毎朝、ホーソンが取り替えてくれる枕辺の水差しから水を注いだ。吸い口を少女の口もとに持っていき、閉じた唇に挿し入れる。傾けて水が流れ込むと、彼女の喉が鳴った。

 水を飲んだ。

 吸飲みの中身は一気になくなった。

「……よかった」

 堂主が呟く。

 少女に生きる気力を取り戻させた霊薬の香りは、部屋から徐々に失われつつあった。

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