しにたいきもち

かるま

hello, my thanatos!

 ぼくは、どうして死にたいのだろう。

 なにか、決定的な出来事があったわけではない。少なくとも、思い出せない。

 ただ、このまま生きて、高校に通い、大学へ進み、社会へ出て、家庭を作り、年月を経て、やがて死んでいくまでに、やらなくてはいけないことの途方もないひとつひとつが、ぜんぶ面倒だとしか思えなかった。あえてぼくが生きて、取り組む意味が、いったいどこにあるのだろう。

 たぶん、そんなものは、ないはずだ。


       *


 風邪をひいた。

 三十九度二分の熱なんて、今まで生きてきて、出したことなんかなかった。

 前の晩からなんだか熱っぽいなとは思っていたが、朝になっていよいよ体の節々が痛く、意識がふらふらとし、この記録的数字をたたき出したので、高校は休み、母親に付き添われて、即行、病院にかかった。インフルエンザでも変な感染症でもなく、本当にただの風邪なんだそうだ。季節の変わり目だし、仕方ないよね、とのことだった。お医者に仕方ないと言われちゃあ、それまでだ。

 風邪薬と頓服の熱冷ましが出た。タクシーで家に帰って、すぐに母親に熱冷ましを飲まされ、あとは自分の部屋で横になっているよう命ぜられた。命ぜられなくても、立っているのがもう限界。壁にもたれながら階段を上って、自分の部屋のドアを開けると、閉めたかどうかももう覚えていないくらいの頭で、とにかくベッドへ、ベッドへと歩いた。

 崩れ落ちるように倒れ込んだベッドに、足をはみ出さしたまま仰向けになる。自分の荒い呼吸の音が、悪寒とともに、ただひたすら頭の奥で増幅されて聞こえる。

 ぼくの部屋が、ゆるやかに揺らいでいた。

 どこを向いても、右から左へ、左から右へ、輪郭がゆがみ、とろけて混ざりあっている。それにつられて、ぼくのからだとこころも、どこかへ流れ出しそうだった。

 ふと、このまま死ねたらいいのにな、と思った。それなりに苦しく、けれど、それなりに心安らかで、呼吸と時計の音だけが波打つ世界でひとり、とろけるように眠って死んでいけたなら、どんなにか楽だろうと妄想した。

 その妄想に浸りながら、ぼくは目を閉じた。眠れるかは分からないけれど、死ぬことはないのだ。それは分かっている。それでも、その妄想はぼくにとってとても心地よかった。熱冷ましが効くまで、つかの間の慰めになってくれるだろう。

 暗闇の中で、ぼくはいくつもの声のかけらを聞いた。

 聞いたことのあることばが、聞いたことのある声で、頭の中を通り過ぎていく。ぼくはそれを覚えていられなかった。

 ただ、一つだけ、聞き覚えのない声が、ぼくを呼ぶのを、覚えていられた。

「ノータ」

 誰だろう。

 女性の声。

 ぼくの意識は、動かなくなり、だんだん暗闇の奥底へと沈んでいった。


       *


「ノータ」

 呼び声がして、ぼくは意識を取り戻した。

 ゆっくり、静かに目を開く。

 部屋の天井が黙って、じっとしている。少しぼんやりするが、頭が振り回されるような感じもなくなった。頬がまだ火照っているけれど、熱がいくぶん、冷めてきたのかもしれない。

 ぼくが二、三まばたきをすると、

「あっ。起きたあ」

 ぼくを呼んだのと同じ声が、うれしそうに言った。

 その声は、ぼくの枕元から聞こえた。おもむろに首をそちらに向けると、ベッドの端で重ねた両腕の上にあごを乗せて、喜色満面でこちらを眺めるポニーテールの女性がいた。

「ん……?」

 ぼくはうめきついでに、「誰?」という意味合いで疑問符をのせた。

 母親ではない。こんなに若くないし、こんなに可愛らしくもない。親戚にもこんな子はいない。どう考えても見知らぬ女性がひとりでぼくの部屋に来ているのに、しかもパジャマ姿なのに、不思議と驚きはない。なぜだろう。風邪で弱っているせいか。

「わたしは誰だろうって、思ってるんでしょう?」

 パジャマ姿の女性は、少し身を乗り出すと、目を細めて、ぼくにこう言った。

「わたしは、ノータの『しにたいきもち』」

「ん……?」

 ぼくはうめきついでに、「は?」という意味合いで疑問符を乗せた。

「きみの『しにたいきもち』が、わたし。人型になったの。分かる?」

「……分からない」と、ぼくはつぶやいた。

 実際、言ってることの意味が、まだ熱に浮かされている頭じゃあ全然分からない。

「ま、そのうち分かるから」女性はにっこり笑うと、左手を上げて、ぼくの頭を優しくなでた。「今はゆっくりおやすみ」

「……」ぼくは言われるがままに、また目を閉じた。「うん」

 自分でも本当に不思議だった。謎のひとをそのままにして、ただ眠ろうとしている自分のことが。けれど、彼女に頭をなでられるたびに、またあの、高熱で死ぬ妄想が脳裏にあらわれて、すうっと気持ちが安らかになっていくのを感じた。それで、気づいたら、何もかもどうでも良くなっていた。


       *


 どうでも良くなかった。

 そう時間も経たないうちに、母親がスポーツドリンクとおかゆを持ってきたとき、パジャマの彼女は引き続きぼくの枕元にいて、まろやかに変な子守歌を歌っていたのが、母親は、それを全く無視して、というか、彼女を、お盆を枕元に置いたのだ。ようやくぼくは、我に返って、彼女がぼくにしか見えていない、幻覚的ななのだと理解した。

 母親がお盆を片付けて出て行ったあと、ぼくは小声で彼女にたずねた。

「あなたは、幻覚ですか」

「そうね。幻覚っちゃあ、幻覚ね」当人にも、自覚があるようだ。「きみの意識が熱でもうろうとしたから、がぐちゃぐちゃになったでしょう。それが元に戻るすきに、きみの世界の一部にの」

「本当に、そこにいるみたいだ」

「でしょ? 本当に、ここにいるんだよ」

 彼女は、とても幻覚とは思えないほど、はっきりと姿形を持っていた。母親は突き抜けるけれど、ぼくは触れられる。さっきは頭をなでられたし、いま、布団から手を出して彼女の手にさわると、ちゃんと生々しい感触がかえってくる。

「それほど、きみの『きもち』が強いからさ」

「きもち?」

「『しにたいきもち』が」

「ああ……」そんなことも言っていたな、と思いだした。確かに、そのことには自負もある。「強い『きもち』は、人の姿で幻覚になれるってこと?」

「そう。四六時中思ってもらうと、そういうレベルにまでうまく育つの。だから、四六時中エッチなことを考えている少年だと、『やりたいきもち』が出てくる機会をうかがってる。残念だったね。わたし、淫魔じゃないよ」

「別に……」ぼくは少しだけ笑った。「じゃあ、あなたは、死神かなにか?」

「うーん、死神っちゃあ、死神なのかなあ」腕を組んであいまいに答えたあと、彼女は居ずまいを正し、らんらんとした瞳で言った。「それより、名前をつけてよ。わたしに」

「え?」

「名前」彼女はどこからともなく、画用紙と黒マジックを取り出して、ぼくに差し出した。「これに書いて、命名して。わたしを。『しにたいきもち』じゃ、言いにくいでしょ」

「はあ……」

 ぼくは半身を起こして、それを受け取ると、「急に、名前って、言われても……」自分でも、病身で何やってるんだろうな、と思いながら、マジックペンのキャップを取った。「名前、名前……」回らない脳みそでしばし考えると、ぼくは、思いついた文字を大きく画用紙に書いて、彼女へ掲げて示した。

「安直だけど、これで、どうすか」

 彼女はそれをしばらく見て、声に出して二、三回読むと、喜びを爆発させるように、がばっとぼくに抱きついた。

「うわ」その勢いで、ぼくはベッドに押し倒された。「重い」

「安直だけど、とてもいいよ。ありがとう」ぼくの耳元で、かみしめるように彼女が言った。「これからは、この名前で呼んで、わたしのこと」

 彼女に抱きつかれている間、目に映るもの、レースのカーテン越しに差し込む陽の光が照らす、空中のほこりくず、彼女の髪、壁に掛けた詰め襟のボタンなんかが、なんだかきらきら輝いて見えて、体調は最悪なのに、いまがとてもすてきな瞬間に思えた。

 ああ、このまま息できなくなって死ねたらなあ、とぼくはまたまた妄想に浸りながら、穏やかな気分になって、彼女の背中をぽんぽんと軽くたたいた。


       *


 彼女をシニと命名してから二日経って、ようやくぼくの風邪は治った。

 ぼくは、シニのことは風邪と共に去りぬとばかり思っていたので、病気中話し相手になってくれたし、別に彼女が嫌じゃないものの、いざ高校に行こうとなっても消えない幻覚をどうしたらよいものか、ちょっと悩みどころだった。支度をしながら考え込んでいると、

「もちろん、きみについてくけど、別に、普通にしていてよ。わたしも邪魔になるようなことはしないからさ」

 と、相変わらずのパジャマ姿で彼女が言った。「わたしに話しかけたいときは、念話テレパシーを使って」

「テレパシー?」

「わたしはきみのこころの一部なんだから、きみのこころの声が聞こえるの」

(こころの声ねえ……)

 ぼくが内心、口にすると、彼女は小さく拍手して、「そうそう。そんな風にしゃべれば、伝わる」

(ふうん)

 こうして、ぼくとシニの毎日が本格的にはじまった。

 ぼくは友達が少ないので、ひとり、シティサイクルでまちの高台にある高校へ行き、ひとり、帰ってくる。シニはどうするのかと思ったら、地面から一メートルくらい浮かんで、同じスピードで付いてきたので、そんな芸当もできるんだと驚いた。

 高校までの、急な上り坂で息を切らして自転車のペダルをこいでいると、シニは車道に対向車が来るたび、「こっちに突っ込んできたら、死ねるね!」と大声で話しかけてきて、ゆううつなぼくの気分をほぐしてくれた。

 授業中も休み時間も、彼女は教室の中を気ままに歩き回ったり、漂ったりしていた。確かにぼくの邪魔はしなかったけれど、積極的に、他の生徒や先生の邪魔――目隠ししたり耳を塞いだり、椅子を蹴ったり頭をチョップしたり――をするをした。彼女のことはぼくにしか見えないはずで、その手足も、誰の体にも当たらずに、突き抜けてしまうのに。(なんでそんなことしてんの?)と聞いたけれども、「ふふふ。秘密う」といたずらっぽく笑って、はぐらかされた。

 ぼくは勉強が苦手だけれど、とりわけ数学と英語が嫌いだ。どちらも先生が怖くて、やたら授業で生徒に当ててくるからだ。かと言って予習もろくにやる気がないので、授業間近になると、緊張と不安でがちがちに固まってしまう。そういうとき、きまってシニはぼくのそばにいて、席の後ろからぼくを抱きしめてくれるのだった。彼女のぬくもりを感じて、いいにおいを嗅ぐと、なぜか自然と、(そうか、このあと、校舎から飛び降りて死ねばいいんだ)と、こころの中に逃げ場ができて、ほんの少し気が楽になるのだった。

 放課後、ぼくは、幽霊部員をしているコンピュータ部の友達から、部室のパソコンに無許可で入っている某陣取りゲームの対戦へ誘われない限りは、すぐに高校を出る。けれど、まっすぐ家へ帰るわけではない。必ず近くの大きな公園や、河川敷に寄り道して、自転車を押しながら散歩する。首をれそうな場所を見て回るためだ。

「紅葉がきれいになってきたね」シニは楽しそうに並んで歩き、付き合ってくれる。

(そうだね)

 なるべく人目に付かなさそうな、大きめの木。長い橋の太い欄干。そういったところに自分が首を吊っているところを妄想すると、ぼくはとても安心する。

「見て見て、川にサケが帰ってきてる。一、二、三……、四匹も!」シニが橋の欄干から身を乗り出して、無邪気に川の流れを指さす。

(どれ……)ぼくも一緒に、川を見下ろした。(ほんとだ。すごいね)

「ね」

(……この橋、高さがあんまりないし、流れも浅いから、飛び降りても骨折して終わりかな)

「そうね。飛び降り方にもよるけど、確実じゃないかもねえ。――あっ、とんび!」

 家に帰ると、ぼくはすぐに自分の部屋にこもって、万能携帯スマートフォンで遺書を書く。ただ、これが特に難しかった。ぼくの「しにたいきもち」は、生きているのが面倒だから、生きている意味がないから、というだけの理由で出てきたものなので、文章がふくらまないというか、それだけで終わってしまうのだ。両親へのおわびと感謝について書いてみても、真に迫るものがないというか、空虚な気がする。小説が書けるくらい文才があったなら、どれだけ良かったろうと思いながら、文面に納得がいかないで、書いては消し、書いては消しを繰り返していた。

「なかなかできあがらないね」後ろから画面をのぞき込んで、シニが言った。

(シニは何か、アドバイス、ない?)

「うーん」彼女は首を傾げて、「手書きにしたらどうかな。文章が単純でも、気持ちがこもって見えるんじゃない?」

(やっぱ、手書きかあ……)ぼくは椅子の背もたれに寄りかかって、伸びをした。(字が下手だから、嫌なんだけどなあ)

「味があるじゃん」

 彼女がまた、どこからか画用紙と黒マジックを出してきて、ぼくに差し出した。「とりあえず、これに書いてみなよ」

(どれ……)

 言われるがまま、ぼくはシニの画用紙に、首をひねりひねり、こうしたためた。

【遺書

 生きていくことに自信がありません。希望がありません。期待もありません。

 ただそれだけの理由です。誰にもいじめられてはいません。

 けれど、ぼくは、もう、何もかもから楽になりたいのです。

 お父さんお母さん、いままで育ててくれてありがとう。そしてごめんなさい。

 お二人の息子でいられて、しあわせでした。先立つ不孝を、お許しください。】

「あ、いいんじゃない? 素朴、すごい素朴」

 シニがぼくの両肩に手を置いて、内容をほめてくれた。

(ほんと? じゃあ、これでいこう)

 気がかりが一つ、融けてなくなっていくようで、ぼくは胸をなでおろした。

(――なんだか、シニが来てから、何もかもうまくいってるな)

 机の引き出しから古い便箋を取り出して、幻覚でできた画用紙の文面を書き写しながら、こころの中でぼくは言った。(前は……、自分は死にたい、でもどうせ死ねないんだ、って、そればっかり考えて、焦って、苦しかったけれど、いまはなんか、ああ、自分はいつでも死ねるんだなあ、って、こころに自信っていうか、余裕ができて、ずいぶん楽になった気がするんだ。きっと、シニのおかげだよ。ありがとう)

「うれしいこと言ってくれるね!」

 彼女が声を弾ませ、ぼくの頬にキスしてくれた。目の前の書きかけの遺書の文字の一筆一筆が、玉虫色のオーラをまとって、きらきら輝くように見えた。


       *


 それから二週間ほど経ったある日曜日の真夜中、ぼくは、シニと一緒にこっそり家を抜け出して、河川敷までシティサイクルを走らせた。

 いよいよ、死ねるかどうか、挑戦してみることにしたのだ。ちょうど荷造り用のひもと、ダンボール製の折りたたみ椅子をホームセンターで買ってきたタイミングで、次の日が月曜日だというのが大きかった。日曜の夜は特に人気が少ないし、明日から五日間また高校に行く面倒を考えたら、ここで死んでみるのもありだよな、と思ったのだ。

 リュックサックを背負ったぼくは、河川敷の目当ての場所に着くと、傾斜が急な法面の草地を自転車を押しながら降りた。辺り一帯、街灯がない。少し離れた住宅街と、月の灯りが、影でできた世界をぼんやり暗く浮かび上がらせていた。

 しんとした散策路と、さわさわ音を立てる川の間、がっしりとした雑木が何本も生えているところで、ぼくは少し緊張しながら自転車を停めた。がさがさやぶの中へ入ると、リュックサックを下ろし、道具一式を出して、まずは、自分のジャージのポケットに封筒入りの遺書を突っ込んだ。次に、組み立てた椅子を、適当な木の根元に置き、その上に乗って、ひもをぶら下げたとき首に掛かるような高さで、太い枝の付け根を探した。

 二本目の木に、ちょうど良い枝の付け根が見つかったので、荷造りひもを適当な長さで切り、枝を通してから端をきつく結んで、輪っかを作った。

 これで首吊りの準備は完了。

 ぼくはひと息ついて、椅子から降りると、シニにうなずいてみせた。

 ここまで、彼女は珍しくひと言も発さず、少し離れたところで腕組みしながら、優しい表情で、ぼくの作業を見守っているようだった。

「首、吊ってみるよ」ぼくは彼女に言った。「うまくいくか分からないけど。そばにいてくれる?」

「もちろん」シニがようやく口を開いた。いつもの陽気な声だった。

「ああ、ぼくの人生、これでおしまいか」緊張をほぐすように、大きく深呼吸する。

「心残りはない?」

「ないこともないけど」まともな大人になれなかったこととか、シニとさよならになることとか。「――でも、もう、いいよ」

「そっか」

 ぼくは二、三回、息を吸って吐くと、「よし」と決心して、もう一度椅子の上に足を乗せて立った。そして、目の前にひもの輪っかを持ってきて、首をくぐらせると、ネックレスのようにぶら下げた。ひもにはまだ少し、余裕がある。椅子を蹴飛ばせば、木の枝の付け根に通したこのひもが、落ちる体の重みで首に食い込んで、しっかり首を吊れる算段だった。

 ぼくはまた二、三回、深呼吸した。「よし」

 そして、

 そのまましばらくの間、動けなくなった。

 椅子を蹴飛ばそうと思うと、胸の鼓動が早くなる。

 からだがこわばって、呼吸が震える。

 怖い?

 死ぬのが?

 ここまできて?

 どうして?

 あんなに待ち焦がれていたはずじゃないか。

 ぼくはまた、何度も、何度も息をした。「よし、よし、……よし!」

 気がつけば、シニが浮かんで、ぼくの目と鼻の先にいる。にっこりと、何度も頷いてくれている。

(ここで、ここで死ねなきゃ、なんなんだ!)

 ぼくは目を固く閉じて、首にかかったひもを両手でつかむと、

 ひと思いに、ダンボールの椅子を蹴った。

 からだががくん、と小さく落下して、ぼくの全体重が細いひもにかかり、

 ぴんと張ったひもが、つかむ首元の両手にきつく食い込む。

 手がちぎれそうなほど痛い。

 その手がひもの勢いで首を圧迫して、

 頸動脈けいどうみゃくのどくん、どくんという動きが伝わってくる。

 のどが押し潰されそうで苦しい。

 この両手、

 ひもを首から引きはがそうとする両手を、ひもから放せば、ぼくは首を吊れる。

 それなのに、ぼくはどうしていま、じたばたもがいている?

 警鐘を鳴らすように、加速する鼓動。

 短く浅い、浅い息しかできない。

 背筋から、足元から、すっと冷めていくからだ。

(手を放せ! 手を放せ!)

 鼓動。鼓動。

 呼吸。呼吸。

 両手。両手。

 恐怖。恐怖。

(誰か! 誰か――)

 助けてくれ。

 ぼくを――。


「はーい、そこまで!」


 シニが高らかに告げた。

 しゃり、というはさみの音。ぷつん、とひもが切れる音。と同時にぼくのからだが、ずるりと木の幹を滑り落ち、足が地面のどこかに付いた、その勢いのまま、やぶの中へくずれ倒れた。あんなに苦しかった首元の締め付けは、もう残っていない。

 ぼくはやっと目を開いて、横倒しになった視界と、むさぼるような呼吸と、軽くしびれたからだを、その場にうずくまったまま、味わった。

 ぼくは、死ねなかった。

 無様にもがいて、それだけで終わったのだ。

 ぼくの横倒しの暗闇の中へ、パジャマ姿のシニのほの白い裸足が踏み込んできた。ぼくはつかんだままだったひもをその辺に退かし、握りこぶしで体を起こして、彼女の姿を確かめた。

 やや強く涼しい風が、草木をざわつかせながら吹き抜ける。

 シニは、ぼくがひもの調整に使ったはさみを持って、横ピースサインのように頭上に掲げ、もう片方の手は腰に当て、満面の笑みでぼくを見下ろしていた。そのはためく輪郭は、じんわりと白く光っているように見え、はさみはもはや、きらめいていると言ってよかった。

「ごめんね!」

 彼女は言った。

「ぎりぎりで助けちゃって。ぎりぎりまで助けないで」

 そのことばの意味が、ぼくには痛いほど分かった。

 つまり、ぼくの『しにたいきもち』は、やっぱり、じゃなかった。本気になろうとしても、とうとうなれなかったから、シニがひもを切ってくれたのだ。

 いや、待った。

 って?

「幻覚じゃ、ない……?」ぼくは驚愕きょうがくして、もう一度彼女の全体を見た。

「そのとおり」

 シニが大きく頷いた。「きみの『しにたいきもち』が限界まで高まれば、わたしは現実になれる。『きもち』って言うのは、そういう存在なの。だから、ぎりぎりまで待ってた。のをね」

 そう言ったところで、彼女の手から、はさみが無造作に落ち、彼女の光もふっと消えた。

「ありゃ。もうおしまいか」

 幻覚に戻ったシニは、草やぶの影にまみれながらしゃがみ込むと、それを突き抜けて、ぼくの方へ、

「わたしと一緒に生きよう。ノータ!」

 と、力強く手を差し出した。「『しにたい』けど死ねない。それでいいんだよ。その代わり、わたしと一緒にいっぱい妄想しよう。妄想の中でいっぱい死のう」

「……」

 ぼくはそのことばに、目が覚める思いがした。

「こんなぼくでも、生きていられる?」

「生きていられる!」シニがまっすぐに言い切った。「わたしがいればね!」

 へたり込んだままだったぼくは、ひもの締めあとが痛む右手の指を開いて、彼女のほうへふらふらと腕を伸ばし、差し出された手をつかんだ。

 その瞬間、

 ぼくの脳髄にびびっ、と電流が駆けぬけ、ぼくの目に、からだに、あたたかい光が満ちあふれた。それからのほんのひととき、ぼくは、淡いパステルカラーの世界の中で、何回も、何回も、何回も、死んだ。

 駅のホームから落ちて特急電車にひかれ、

 高校の校舎の屋上から飛び降り、

 道路から飛び出してきたトラックにはねられ、

 若い男性の通り魔に包丁で刺され、

 拳銃の銃口を頭に向けて撃ちぬき、

 海に入り波にさらわれて溺れ沈み、

 そして、川辺の木で首を吊って、

 最後に、眠るように横たわったまま、

 あこがれの「死」が、夢のような生ぬるい生々しさで、めくるめくように浮かんでは消える。ぼくはそれを、こころが洗われるような思いで、見て、感じた。

「これだよ。こうなりたいんだよ……」

 ぼくは、その心地よい気休めに、これ以上ないほど満たされた気がした。

 そして、シニを引きずり込み、もう一度やぶの中に倒れ込んで、二人、大の字になって、笑った。

「ああ、しにたい。しにたい。しにたい。しにたい」

 手をつないで、そうつぶやき合いながら。

「しにたい! しにたい! しにたい! しにたい!」

 そう叫び合いながら。

 ぼくたちは、笑った。

 やぶの影のその向こうに、空一面の星の瞬きが見えた。


       *


 翌朝、何事もなかったかのように、ぼくは、家を出て高校へ向かった。

 実際は、ほとんど寝ていないので、頭もからだもひどく重たく、つらい。シティサイクルをこぐ上り坂もいつも以上にきつくて、今日一日、今週一週間またやり過ごすことを考えると、輪をかけてゆううつの極みだった。

(しにたいなあ)

「しにたい?」自転車の荷台に乗っているのシニが、ぼくの背中に頭を預けて、言った。「じゃあ、かなえよう」

 坂道の先、朝のまぶしい陽射しの中から走ってきた白い乗用車が、ふらり反対車線に蛇行したかと思うと、こちら側に急転回し、歩道に半分乗り上げて、いきおいそのままに真正面からぼくをはね飛ばした。ぼくは宙を舞ってアスファルトに叩きつけられると、そのままごろごろごろごろと坂道を転がり、電柱に激しく頭を激突させて、死んだ。

 ような幻を見た。

 白い乗用車は、何事もなく、ぼくの真横を走りすぎていく。

(ありがとう、シニ)

「ふふふ。がんばれそう?」

(なんとかね。……よし!)

 ぼくは『きもち』を仕切り直して、一つ、また一つ自転車のペダルを立ちこぎしながら、シニと一緒に、眩しすぎる陽射しの先に向かっていった。



 いのちから逃げだせぬいま行き止まり死のにおいを嗅いで立ち向かう


(終)

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