後編

 

 妙な場面に出くわしたのは帰宅途中だ。



 通学路に面する本屋の前で言い争う声が聞こえた。周囲の人々は何事かと様子を窺っているが、誰も仲裁に入ろうとしない。――まあそれが普通だよな。俺だって余計なトラブルには巻き込まれたくない。足早に通り過ぎようとした瞬間、聞き慣れた声がして心臓が跳ねた。顔を上げると、騒ぎの中心に柚季がいた。


 「だからっ万引きした本返しなさいって言ってるでしょ!?」

 「うるせぇな! さっきから言い掛かりつけてんじゃねーよ!」

 「ちょ、ちょっと二人とも落ち着いて……!」


 いかにも気弱そうな男性店員が狼狽えつつ、必死に場を収めようとしている。しかし柄の悪い男に「うるせぇ!」と一喝され、「ひっ」と短い悲鳴を漏らして黙り込んでしまった。他方、柚季は物怖じせず、毅然と向き合ったまま男と睨み合っている。一発触発の空気が漂い、緊張が走る。俺は咄嗟に間に割り入り、柚季を背中に隠した。


 「面倒なことに巻き込まれてんな」

 「涼太!? なんで――」

 「話は後だ。柚季は黙ってろ」


 珍しく強い口調で窘めると、彼女は驚いて口を噤んだ。「あぁ? なんだお前。関係ない奴はすっ込んでろ!」、突然現れた部外者に気分を害した男が俺の襟首を掴む。俺は男の手を上から握って拳にし、体の外側に力いっぱい上体を倒した。相手の手首に対して巻き込む力が働き、男は膝を折って地面に尻餅をつく。 


 「……くそっ!」

 「さっき警察に通報したからそろそろ警官が到着する頃だと思うぞ。後ろめたいことがあるならのんびりしてる暇ないんじゃないか?」


 警察と聞いて男が怯む。僅かな葛藤の後、鞄の底に隠していた本を抜き取ってこちらに投げつけ、一目散に雑踏へ消えていく。俺はひとつため息を吐いて屈み、本を拾い上げた。それを店員に向かって差し出すと、青白い顔で硬直していた彼はハッと我に返る。


 「す、すみませんっ怖くて動けませんでした……。助けて頂いてありがとうございます」

 「いや、むしろ勝手に取り逃がしてすみません。警察呼んだっていうのははったりです」


 店員と話して別れた後、俺は厳しい面持ちで柚季を振り向いた。


 「このバカ!!」

 「きゃっ!?」


 ビクッと身を竦めた柚季と視線が交わる。普段温厚な俺が本気で怒鳴ったことにショックを受けたのか、瞬きもせず瞳を見開いている。それでも苛立ちが収まらず、俺は奥歯を噛み締めた。


 「ああいう時は店員に任せるか警察呼ぶんだよ! 一人で真っ向突っ込むバカがどこにいる!?」

 「だ、だってあの人、万引きしたのにしてないって言い張って本持ち去ろうとしたから……!」

 「だからって無茶しすぎだ! もし俺がいなかったらもっと危ない目に遭ってたかもしれないんだぞ! 殴られて怪我でもしたらどうする!?」


 ぐっと声を詰まらせた柚季は肩を震わせた。瞳がじわっと潤んで透明な膜が張る。俺はギョッとして息を呑み、言葉を失った。二人の間に気まずい空気が流れる。


 「あー……とりあえず帰るか」

 「……うん」


 柚季は小さく頷き、手の甲でごしごし涙を拭った。俺は柚季の涙に弱い。無条件で胸に痛みを走らせ、何かしてやりたいという気持ちが湧いてくる。俺は勢いに任せ、やや強引に彼女の手を掴んだ。そのままぐいっと彼女を引き寄せ、駅に向かって歩き出す。振り解かれるかと思ったが、意外にも抵抗されなかった。


 半歩後ろからくっついてくる柚季をこっそり見遣る。俯きがちに睫毛を伏せた表情は儚げで、勝ち気な姿とのギャップにドキッとする。今の彼女はしっかり捕まえていないとどこかに消えてしまいそうで、握る手に力がこもった。柚季はピクッと反応し、躊躇いがちに口を開く。


 「……ごめんなさい。さっきは私のせいで涼太が危ない目に遭った。軽率だったって反省してる」


 しゅんと項垂れる彼女は珍しく素直だ。俺は歩みを止め、まっすぐ柚季を見据えた。


 「なぁ、覚えてるか? 幼稚園の頃、俺がガキ大将にいじめられてて、お前が代わりに怒ってくれてただろ。お前は気付かなかっただろうけどあいつ、お前のこと好きだったんだよ。だから幼馴染みの俺を目の敵にしてた」


 ガキ大将は意地悪でむかつく奴だったが、年相応に純情で素直になれず、注意する柚季のことをブスだのお節介ババァだの罵っていたあたりまだ可愛げがある。それより問題は、成長に従って男子の多くが柚季に夢中になったことだ。嫉妬から不特定多数に嫌がらせを受け始めた俺は危険を感じて護身術を習得し、今では大抵の相手を撃退可能になった。


 「はじめは自分のために身につけた護身術だったけどさ。だんだん成長して、お前がどんなに勝ち気でもやっぱり女の子なんだって意識したら守ってやらなきゃって思うようになったんだ。結果論だけど、自分のために磨いた力が誰かの役に立つって嬉しいもんだな」

 「涼太……」


 柚季が微かに息を呑む。柚季は今や学年首席な上に生徒会役員で、様々な部活の助っ人を頼まれる学園のアイドルだ。俺みたいに地味でぱっとしない男が身近にいることを快く思わない奴は少なくない。周囲の視線が気にならないと言ったら嘘になる。それでも彼女と距離を置かないのは、譲れないものがあるからだ。


 「お前がああいう時見て見ぬ振りしない奴だからこそ憧れるし尊敬するけど、向こう見ずな行動はなるべく控えろよな。何かあったらおじさんもおばさんも悲しむだろ」

 「ん、分かった。助けてくれてありがとう」

 「おう。トラブったらひとりで解決しようとせずに周りに頼れ。お前なら喜んで助けるって奴は大勢いるだろ。それに俺も、少しでもお前の声が耳に届いたら必ず駆けつける。だから安心しろ」

 「……っ!」


 屈託のない笑顔を向けると、真っ赤になった柚季がさっと視線を逸らした。確かに俺はイケメンとはほど遠い(まさに平均レベルであっさりした顔立ちだ)が、こうも露骨に避けられるとさすがに傷付く。高校生にもなって手を繋いで帰るのがお気に召さなかったのかと勘ぐり、俺は彼女の小さな手をそっと離す。しかし、


 「なんで離すの?」


 不服そうに頬を膨らませた柚季に睨まれ、予想外の反応に狼狽した。


 「いや、その、いつまでも手握られてるのが嫌だったかなーと思ってな。ほら、お前生徒会長と秒読みなんだろ? こんな場面、知り合いに目撃されたらまずいもんな。誤解させるような真似して悪かった」

 「なんでそうなるのよ!? 生徒会長は確かにいい人だしお世話になってるけど恋愛対象じゃないから!」

 「ええええ!? おま、理想高すぎだろ!? 会長以上にハイスペックな男いないだろ!?」


 そう、生徒会長は全校生徒憧れの的だ。


 彼は全国大会に出場するような強豪バスケ部の元キャプテンで得点王、高校は首席で入学し、1年生の頃から生徒会役員に抜擢された超イケメンである。おまけに医者の家系で金持ちだが、気さくな人柄で老若男女問わず人望がある。まさに文句のつけようがない完璧な優良物件だ。それを恋愛対象外と言い切るとは度肝を抜かれた。


 「……お前一生独身かもしれないぞ」

 「うるさいわね大きなお世話よっ!」

 「痛!? いだだだだっやめろ頭をぶつな――!」


 頭をボカボカ叩かれ両手でガードしたが、ちょっと大げさにリアクションしているだけで実のところ大して痛くはない。いつもの調子を取り戻した柚季との日常的なやり取りが楽しくて、つい乗せられてしまうのだ。ひとしきり攻撃を終えて気が済んだのか、彼女はフンッと鼻息荒く腰に手を当てた。


 「そういう涼太こそどうなのよ。この前体育館裏で可愛い女の子に手紙渡されてたでしょ?」

 「なっ見てたのか!?」

 「た、たまたまよ! 偶然通りかかったの! それで? 付き合うの?」


 ずいっと顔を近付けてくる柚季にやや圧倒されつつ、記憶の糸を手繰り寄せた。ある日俺を呼び出した相手は柚季に及ばずとも同学年で指折りの美少女で、放課後話があると告げられた時は正直舞い上がった。ドキドキしながら甘酸っぱい気持ちで体育館裏を訪れると、先に到着して俺を待っていた彼女はほっとしたように駆け寄ってきた。頬を染め、躊躇いがちに手紙を差し、そして――


 「……付き合うも何も、そんな浮ついた話じゃなかったよ。好きな男が俺と仲良いいから、代わりに手紙を渡してくれって頼まれたんだ」

 「えっそれだけ?」

 「傷口に塩塗るなよ!」


 てっきり告白かと期待した俺のときめきを返せ! と叫びたいのを堪えてムスッと押し黙る。


 「ぶふっ」

 「笑うな!」


 制止も聞かず声高らかに笑い出した柚季はひーひーお腹を抱えた。おのれ調子に乗りおって! 復讐したい(腹をくすぐりたい)衝動をどうにか抑えた俺はふと、ひとつの可能性に思い当たった。最近柚季の様子がおかしいのは、もしかして――


 「まさかと思うけど、お前が急にそわそわしたり、赤くなって目を逸らす理由って……」

 「!!」


 柚季はぴたりと動きを止めた。明らかに動揺している。どうやら勘は当たったようだ。


 「俺に恋愛相談したかったんだろ? 残念ながら知ってのとおり恋愛に関してはアドバイスできるほど経験がない。すまんが他を当たってくれ」


 今更彼女を相手に見栄を張っても仕方がないので素直に謝罪した。面倒ごとには耐性があるが、進んで巻き込まれるのはごめんだ。しかし俺の見立ては的外れだったのか、みるみる怒りに打ち震えた柚季から見事な跳び蹴りを食らった。


 「ぐほぉ!?」

 「~~~~バカ! バカバカバーカ! 恋愛相談なんかするわけないでしょ!? するとしてもあんたみたいな筋金入りの鈍感男なんてお断りよ!」

 「なっ! なんで俺がディスられるんだよ!? 女心なんか分かるか! 何に悩んでるか知らんがとにかく他を当たれ!」

 「言われなくてもそうするわよ! いーーーーーっだ!」


 子供みたいに口の端を両手で伸ばし、舌を出す柚季は憎らしいほど可愛い。外面がよく、学園では大勢に慕われ、下級生にはお姉様などと信仰される彼女の凶暴な本性を知る人間は俺くらいのものだ。ほとほと疲れ果てた俺がこめかみを揉むと、ボソッと囁き声がした。


 「……あの子に見る目がなくてよかったわ」

 「は? 何か言ったか」

 「なんでも! せっかくだから寄り道して帰ろうよ。プリンはもういいからパンケーキ奢って。生クリームたっぷりで色んなフルーツ乗ってるのが食べたい。涼太にも一口あげるからいいでしょ? ねっ」

 「いやいや明らかにプリンより高いだろ! さらっとお礼の価格引き上げるな――って、おい待て!」

 「聞こえな――いっ」


 ギュッと腕に抱き着いてきた柚季がにっこり笑うので、逆らうのを諦め肩を落とした。いつかこんな風に他の男に甘える姿を想像すると気分が落ち着かなかったが、深く考えるのをやめた。


 この時はまだ柚季と肩を並べて歩くことは俺にとって当たり前の日常で、特別な意味はなかったんだ。だけど彼女からの思いがけない告白をきっかけに二人の関係が変わっていくのはそう遠くない未来の話である。

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学園一の美少女が幼馴染ですが最近様子がおかしいです 水嶋陸 @riku_mizushima

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