悪役令嬢の繰り返し ~アウフヘーベン・オンライン~

緋色の雨

悪役令嬢、冒険者になる

「アイリス、俺と踊ってくれるか?」


 笑顔の下に憂いを隠して、金髪の貴公子が手を差し出してくる。

 彼の名はクリス・グレイスフォール。

 この国と同じ名を持つ彼は王太子にして――わたくしの婚約者です。わたくしは笑顔で愛しい婚約者の手を取り、彼のエスコートでダンスホールへと移動します。


 この国の王太子と公爵令嬢。

 その組み合わせに気付いた者達が自然と場所を空けて行く。ぽっかりと空いたダンスホールの真ん中は、わたくし達のために用意された特別なステージとなりました。

 皆の視線が集まる中で互いにお辞儀をして、最初の三拍子で身体を寄せ合い、ゆったりとしたワルツに合わせて踊り始めました。


 繰り返される三拍子。クリス様のリードに合わせて優雅に、そしてゆったりと――血の滲むような努力で身に付けたステップを踏んでいきます。


 クリス様のリードにはほんの少しだけクセがあります。だから初めて相手をするご令嬢は踊りづらく、クリス様のリードは未熟だと思われているようです。

 だけど、それは過ちです。

 ダンスの相手がより輝けるようにというクリス様の想いが、ダンス相手への要求を高くしてしまっている。それがクリス様のリードにあるクセの正体。


 わたくしはクリス様の息遣いを感じ取り、ワルツの三拍子に独自のタメを作り、勢いのあるステップを踏む。手入れを怠ったことのない自慢の髪が広がり、魔導具によるスポットライトを浴びて青みを帯びた銀光を放ちました。

 周囲から溜め息が聞こえてきます。


 幸せなひととき。

 ずっとずっと踊っていたくなります。


「アイリスは本当にダンスが上手だな。おまえに見劣りしたくなくて必死に練習を続けてきたのだが……結局おまえには追いつけなかったな」


 クリス様の言葉に、わたくしはほんの少しだけ身体を寄せます。わたくしがワルツでこのように身体を預けるのは、クリス様をおいて他にはおりません。

 彼はそのことに気付いてくれているのでしょうか?


 物心ついた頃よりクリス様の婚約者となることが決まっていたわたくしは、彼の隣に立つに相応しい女性になるべく、ずっと努力を続けて参りました。

 ですが――


 三拍子に合わせてクルリとターンして、手を取り合ったままクリス様と距離を取ります。魔導具のスポットライトを浴びたクリス様の笑顔が、泣いているように見えました。

 青く澄んだ瞳には、全てを塗りつぶしてしまいそうな憂いが滲んでいます。


 なにかあった――いえ、いずれ来るべき終焉がついに訪れたのでしょう。

 再び身を寄せ合って次のステップを踏む。わたくしが周囲に視線を走らせれば、周囲で踊っている者達が徐々に姿を消し、わたくし達を遠巻きにしていました。


 もう少し、もう少しだけ。

 祈るように心の中で繰り返すけれど、やがて曲は終わってしまいます。わたくしは名残を惜しみつつもクリス様から距離を取り、深々と……いつもよりずっと深く頭を下げます。


 そうして静かに顔を上げると、クリス様は変わらずその場にいました。けれど、その両脇には伯爵令嬢のセシリアと、騎士見習いのサイラスが立っています。


「これより、セシリア暗殺未遂の罪でアイリス・アイスフィールドを糾弾する」


 いつかこんな日が来ると予想していました。さきほどのクリス様の態度から、今日がその日なのだと覚悟していたわたくしは驚きませんでした。

 ですが、周囲はそうではなかったようで、どういうことかとざわめく周囲の者達に、サイラスがクリス様の代わりに事情を説明します。


 先日、学園に侵入した暗殺者によって、セシリアが襲われるという事件が発生しました。

 からくもその襲撃は未遂に終わったのですが、その区画は一般人が立ち入ることの出来ない区画で、何者かが手引きしたという結論に至ったそうです。


 そしてその容疑者に上がったのがアイリス・アイスフィールド。

 つまりはわたくしですね。

 動機は、婚約者であるクリス様と仲睦まじいセシリアに嫉妬したからだそうです。

 それに伴い、様々な証拠が並べられていきます。

 わたくしが普段からセシリアを虐めていたという目撃情報から、暗殺者を雇って学園に招き入れたという記録まで、これでもかと言うほどに証拠が揃っていますね。


 彼は子爵家の次男ではありますが、将来は側近としてクリス様に仕えることが決まっています。それゆえ、既に相応の立場についていて、クリス様から大きな信頼を得ています。

 今回の襲撃事件で暗殺者を退け、セシリアを窮地から救ったのも彼でした。その彼が証拠を集めたようなので、万に一つも付け入る隙はないでしょう。


「……以上の証拠や証言などから考え、暗殺者を学園に招き入れ、セシリア嬢を襲わせたのはアイリス嬢以外には考えられないと判断いたします」


 サイラスが証拠の提示を終えると、ホールに重苦しい静寂が広がりました。

 公爵令嬢が学園で暗殺未遂など前代未聞も良いところです。周囲の生徒達が声を失うのも当然でしょう。このような場面に立ち会わせてしまって申し訳なく思ってしまいますね。


 不意に、クリス様が一歩前に踏み出しました。その見慣れた、けれどとても整ったお顔には、婚約者を糾弾することへの葛藤が滲んでいるように見受けられます。

 貴方は王太子なのですから、毅然と沙汰を下せば良いのですよ?


「アイリス、なにか申し開きはあるか?」

「申し開きと言われましても。それだけの証拠を用意しておいて、今更なにを言えとおっしゃるのですか? わたくしに話すことなんてありませんわ」

「おまえは、この期に及んで、そのような態度を取るのか……っ」


 わたくしと同じ青い瞳を怒りに染め、クリス様が詰め寄ってきます。だけどサイラスが引き留め、クリス様は苦虫を噛みつぶしたような顔で踏みとどまりました。

 それを見たわたくしは、思わず溜め息を零してしまいます。


「次期国王たる貴方が、感情一つコントロール出来なくてどうするのですか?」

「……おまえは、酷いヤツだ」

「存じておりますわ」


 わたくしの言葉に、クリス様は無言で拳を握り締めました。それと同時になにかを呟いたようですが、その言葉は小さすぎてわたくしの耳には届きませんでした。

 クリス様は王太子として非常によく努力をなさっています。将来はきっと良い王になるでしょう。それをわたくしは疑ったことなどありません。


 だけど……ときどき感情的になるきらいがある。感情を抑えることは、差し当たっての課題ですね。今のままでは彼に付け入ろうとする狡猾な相手に太刀打ちできません。


 とはいえ、それを心配するのはもう……わたくしの役目ではありませんね。クリス様のお側には優秀な者が何人もついていますし、その者達がきっと支えてくれることでしょう。


 そんな風に考えていると、彼の後ろに控えていた乙女が一歩踏み出しました。

 今回の一件――わたくしの手引きで学園に侵入したという暗殺者に襲撃され、からくも被害を免れたというお嬢様。キャメロン伯爵家のご令嬢であるセシリアです。

 彼女はわたくしの顔を見ると、胸の前できゅっと手を握り締めました。


「アイリス様、本当に貴方が暗殺者を招き入れたのですか?」

「本当もなにも、サイラスの説明を聞いていらっしゃらなかったのかしら?」

「聞いていました。聞いていましたが、アイリス様がそのようなことをするとは思えないのです。貴方が私にキツく当たるのだって、理由があったのではありませんか?」

「理由もなにも、わたくしはただ、見苦しい貴方を見ていられなかっただけですわ」


 わたくしはセシリアを冷たく突き放しました。だけど、傷付いた顔をするセシリアを見て苛立ちが募っていきます。その苛立ちは溜め息となって外に零れ落ちました。


 ――いつからでしょう?

 まるで呪いを受けたかのように、わたくしが素直になれなくなってしまったのは。


 なにか切っ掛けがあったはずですが、どうしても思い出せません。ただ訳も分からず、わたくしは親しい相手にほど素直になれず、辛く当たるようになってしまいました。


 そうして少しずつ孤立して、いまは卑劣な令嬢として糾弾されています。

 変わることさえ出来れば、他の未来はいくらでもあったでしょうね。セシリアを本当に殺してしまうことも、逆に仲良しになることだって出来たはずです。

 でも、わたくしは変わろうとしなかった。だから、この結末はわたくしの自業自得。そう考えると、あまりに自分が愚かで、思わず笑いが込み上げてきます。

 それを見て取ったのでしょう。クリス様が拳を握り締めました。


「さっきからなにを笑っている! なぜこの期に及んで申し開きすらしない!?」

「申し開きなど、わたくしには必要ありませんわ」

「アイリス、おまえは――」

「――クリス殿下、もう良いじゃありませんか。これだけ証拠が揃っている以上、彼女からこれ以上はなにを聞いても結果は変わりません」

「しかし……」

「クリス殿下、これ以上はセシリア嬢の負担にもなります」


 冷静さを失いつつあるクリス様を、セシリアを盾に止めます。

 サイラスは本当に優秀ですね。わたくしの悪事の証拠を押さえた彼がいる以上、万が一にもこの状況は覆らないでしょう。

 ならばせめて、悪役は悪役らしく排除されるのが華というものです。


「サイラスの言うとおり、これ以上の話し合いは無駄ですわ」

「……アイリス」


 わたくしの言葉に、クリス様は顔を歪ませました。

 ……なんて顔をしているのですか。貴方は王太子殿下。いずれこの国を背負い立つ貴方が、婚約者一人切り捨てられなくてどうするのですか。

 わたくしは胸を張り、その権威を振るいなさいと、いまはまだ婚約者の彼を見つめます。


「……良いだろう。王太子の権限においてそなたの身分を剥奪し、修道院入りを命じる。正式な通達は後日となるが、それに伴い、そなたとの婚約を……解消する」


 婚約を解消すると口にするとき、彼は少しだけ言い淀みました。王太子としては減点ですが、乙女としてのわたくしは少しだけ救われた気がします。

 わたくしは胸の前できゅっと手を握り締め、承りましたと俯きます。そうして刹那に浮かんだ表情を消し、悪役らしく毅然と微笑みました。


「それでは、ご機嫌よう――クリス殿下」


 もはや他人となったクリス様に向かって膝を曲げ、殊更丁寧に頭を下げます。そうして婚約者だった彼に別れを告げて、わたくしは決して俯くことなく学園を後にしました。



 ――数日後、わたくしは正式に公爵家から除籍となり修道院入りが決定しました。わたくしが罪と罰を素直に受け入れたことで、身内に咎が及ぶことは免れたようです。

 思惑通りの結果に、わたくしは少しだけ安堵いたしました。


 けれど、王太子の婚約者という地位と、公爵令嬢という地位を同時に失ったことには代わりません。わたくしは、残りの人生を修道院で過ごすこととなりました。



 平民となったわたくしには、メイドを伴うことすら許されません。着替え一つ一人では満足に出来ないわたくしにとって、修道院での生活は決して楽なモノではありませんでした。

 それでも自分に与えられた罰なのだと受け入れ、必死に日々を過ごします。そうしてあっという間に月日は流れ、修道院に入って半年が過ぎました。


 最初は一人で着替えることすらままならなかったわたくしですが、いまではなんとか最低限のことをこなせるようになりました。

 その代償として、髪は傷みに傷み、手はアカギレでボロボロになりました。だけどそれは、わたくしに与えられた罰だからと甘受しています。


 ――ですが、素直になれないのはここでも同じでした。親切にしてくれるシスターに辛く当たってしまったわたくしは、この修道院でも孤立してしまいました。

 きっとわたくしの馬鹿は死んでも治らないのでしょうね。


 そんな訳で、わたくしは一人、裏手にある小さな畑で農作業をしていました。手のひらに出来たマメの痛みに耐えて、小型の鍬を振るう。

 刹那、背後の草むらから物音を聞いた気がして振り返ります。


「……誰か、いるのですか?」


 返事はなく、音も聞こえなくなりましたが、間違いなくなにかいます。

 草むらの深さを考えると、小動物でしょうか? さすがに魔物ということはないと思うのですが……念のために、攻撃魔術を展開出来るようにします。


 公爵令嬢としては最低限の嗜みですが、身を護るための魔術は一通り覚えているので、害獣が相手なら役に立つでしょう。

 そう思って警戒していると、草むらからボロボロの女の子が姿を現しました。ちなみに人間ではなく、手のひらサイズの羽が生えた女の子です。

 伝え聞くフェアリーのようですが、実際に目にするのは初めてです。人里に現れるなんて話も聞いたことがありませんし、とても珍しいのではないでしょうか?


「貴方、どうしてこんな人里に――っ」


 わたくしは息を呑みました。身体が小さくて最初は分かりませんでしたが、酷い怪我を負っています。このままだと、すぐに死んでしまうでしょう。


「いと慈悲深き光の女神エスティアよ」


 体内に宿る魔力を活性化させて光の女神に呼びかけます。この世界を支える至高神の一柱の気配を感じたわたくしは、フェアリーをそっと抱き上げました。


「我が身に宿る魔力を糧として、かの者に癒やしの奇跡を与え給え」


 淡い光がフェアリーを包み込み、その傷を癒やし始めます。

 わたくしが扱える奇跡ではわずかな傷を癒やすことしか出来ないのですが、目に見える傷は綺麗に消え去りました。フェアリーが小さい分、効果が大きかったようです。

 傷が癒えたことに気付いたのか、手の中にいるフェアリーが弱々しく顔を上げます。


「……貴方が、傷を癒やしてくれたの?」

「傷だけ、ですけどね」

「ありがとう、痛みがなくなって凄く楽になったよ」


 フェアリーは青ざめた顔で、けれど綺麗な微笑みを浮かべました。

 さすが森の妖精、美形揃いと言うだけはありますね。


 けれど、彼女達にとってそれは、決して良いことばかりではありません。手のひらサイズであり、美形揃いの妖精達は高額で取引されています。

 本人の意思を無視するような真似をするつもりはありませんが、このように美しいフェアリーが話し相手として部屋にいてくれたら――と思ってしまいますね。


 そういった内心は表に出さないようしながら、なにがあったのかと問い掛けます。

 それによると、町の東にある森にフェアリーの隠れ里があったそうです。ですが何者かに結界が破られ、魔物の襲撃で散り散りとなってしまったようです。

 それがいまからおよそ一ヶ月前。その後も彼女は一人で生き延びてきたようですが、先日魔物に不意を突かれ大怪我を負ってしまった、とのことです。


 フェアリーの生態は良く知りませんが、おそらく親しい者もいたでしょう。そんな者達を失い、それでも一人で生き延びてきた。

 なんとなく、自分の境遇と重ねてしまいます。


「わたくしに出来ることはありますか?」

「優しいのね」

「ただの気まぐれですわ」


 反射的にそっぽを向いてしまいます。ここまで来ると病気ですね。そう思いながらも、わたくしは素直になることが出来ません。

 だけど、フェアリーはフルフルと首を横に振りました。


「嘘ついたって無駄よ。だって、フェアリーには心の色が見えるんだから」

「だとしたら、わたくしの心の色はよほど濁った色をしているのでしょうね」

「……いいえ、貴方の心はその瞳のように澄んだ青色よ。空のように温かくて清らかで、だけどどこか寂しげにも見える青。それが貴方の心の色」


 反論することが出来ませんでした。

 わたくしに向かって寂しげだなんて言う人は初めてだったから。戸惑うわたくしに、フェアリーは小さな手を伸ばしてきました。


「あたしはフィアリスって言うの」

「わたくしはアイリスと言います」

「……アイリスか、良い名前だね」

「フィアリスという名も、とても良い響きですよ」


 わたくしが笑いかけると、フィリアも力なくほほ笑み返しました。さきほどから彼女は随分と饒舌にしゃべっています。まるで、燃え尽きる前のロウソクのように。


「……フィアリス、力が及ばずごめんなさい」

「うぅん、貴方のおかげで楽になった。こんな気持ちでいけるなんて、思わなかったよ。貴方と、もう少し早く出会えれば良かったのになぁ……」

「そう、かもしれませんね」


 もう少し早く出会っていても、わたくしになにか出来るとは思えません。でも、死にゆく彼女がそう言うのなら、せめて否定しないのが優しさでしょう。

 そう思うと、自然と素直に接することが出来ました。


「ねぇ、お願い。もしあたしの同胞に出会うことがあったら……」

「分かりました。わたくしに出来る限り、その同胞を助けると約束します」

「あり、がとう……」


 フィリアリスは最後に微笑んで、ゆっくりと目を閉じました。手のひらに載る彼女の身体から力が抜け落ちていきます。

 彼女の身体は既に冷たくなっていました。ここに来るまでに、血を流しすぎていたのでしょう。それに、わたくしに治せるのは傷だけで、失った血や体力は取り戻せません。

 傷を再生させることで、彼女の残された体力を使い切ってしまったのでしょう。


 わたくしでは、彼女を救うことは出来ませんでした。公爵令嬢としてあんなに頑張ったのに、小さなフェアリー一人救えない……わたくしは無力ですね。


「……この者の魂が、どうか安らかな眠りにつけますように」


 せめてその魂だけでも救われるようにと、死を司る闇の女神に祈りを捧げます。それから修道院の裏手にある茂みの中に穴を掘り、彼女の身体を埋葬しました。

 墓標は用意することが出来ませんでしたが、名前は覚えておくので許してください。



 しばらくして畑に戻ると、他のシスター達が辺りを見回していることに気が付きます。わたくしを探していたようで、わたくしを見つけると小走りに駆け寄ってきました。


「アイリス、どこへ行っていたのですか? 心配したのですよ」

「どうせ、その辺りでサボってたに決まってますわ」


 気遣ってくれるシスターエリスに対して、もう一人のシスターが吐き捨てるように呟きます。でも、彼女が差し伸べてくれた手を最初に払いのけたのはわたくしです。

 無言で応じるわたくしに、彼女は一歩後ずさりました。


「なによ、その目は……っ」

「そう熱くならないで、ここは私に任せてください。見たところ作業も終わっているようですし、後は私が対処しますから、貴方は先に戻っていてください」

「……もう、シスターエリスは甘すぎます」


 彼女は文句を口にしながらもあっさり引き下がり、建物の中へと戻っていきました。そうしてこの場にはわたくしとシスターエリスだけが残されました。


「それで、貴方はなにをしていたのですか? 姿が見当たらないから心配したのですよ?」

「貴方に心配していただく必要なんてありませんわ」

「……貴方はまた、そのように」


 シスターエリスが悲しげに眉を落とす。

 わたくしはいつものように苛立ちを覚えます。自分を気遣ってくれる優しい人間を傷付けている、わたくしは救いようのない人間ですね。


「わたくしは、生きている価値のない人間です」


 心の中で渦巻いていた言葉を零してしまいます。その次の瞬間、わたくしの頬に鈍い痛みが走りました。遅れて認識した乾いた音に、わたくしは頬を叩かれたのだと自覚します。


「叩いてごめんなさい。でもアイリス。そのように自分を卑下するものではありません。貴方がとても優しい人間だと、私は知っていますよ?」

「わたくしが優しい? どうすればそのように見えるというのですか?」


 なにを言われているのか理解できませんでした。

 いつも素直になれず、気付けば減らず口をたたいている。そんなわたくしの本心を理解してくれる人間なんているはずがありません。

 なのに、シスターエリスは「貴方は優しい人間です」と繰り返します。


「たしかに、最初は傲慢なだけでなにも出来ないお嬢様だと思っていました。ですが、貴方はここでの生活に文句一つ言わず、ひたむきに仕事を続けているじゃありませんか」

「そのようなこと、わたくしの境遇を考えば当然のことですわ」


 公爵令嬢としての生活しか知らなかったわたくしが、平民としての過酷な生活を送る。それがわたくしに与えられた罰なのだから、それを全うするのは当然のことでしょう。


「そうですね、当然のことです。でも、当然のことを当然のように出来る人は多くありません。貴方が努力していることは、見る人が見ればちゃんと分かります。貴方のトゲのある言葉に込められた、優しい気遣いだって同じことです」

「なにを……」


 こんなにも愚かなわたくしのことをちゃんと見てくれている人がいる。その事実に目頭が熱くなり、涙が零れそうになりました。


「私も、以前は素直になれない人間だったんです。それが原因で、掛け替えのない存在を死なせてしまったんです」

「掛け替えのない存在を……死なせた?」


 どうしてでしょう? その言葉は、わたくしの琴線に強く触れました。そうして動揺するわたくしに向かって、彼女は静かな口調で独白を続けます。


「ええ。あの日……降りしきる雨の下、亡骸を抱きしめた私は強い後悔を抱きました。私がもう少し素直になっていれば、こんなことにだけはならなかったのに、と」


 なぜでしょう? そんな経験はないはずなのに、わたくしには彼女の後悔が身に染みるように理解することができました。

 だけど――


「私はこれからも悔やみ続けるでしょう。でも、貴方はまだ間に合うのではありませんか?」

「間に合う、ですか?」

「ええ、そうです。皆に言われているような悪事なんて、本当はしていないのではありませんか? いまからでも無実を訴えれば、きっと――」


 彼女がその続きを口にするより速く、わたくしは差し出された手を振り払いました。そうして驚いた顔をする彼女に冷たい視線を飛ばします。


「不愉快ですわ。そのようにしたり顔で、知った風な口を利かないでくださいませ」


 本当に度しがたい。

 愚かなわたくしの口から零れたのは、シスターエリスを拒絶する言葉でした。それでも、シスターエリスは怒りませんでした。代わりに、その瞳に深い悲しみを滲ませます。

 罪悪感に苛立ったわたくしは、ツンと顎を逸らしてそっぽを向きました。


 どれくらいそうしていたでしょう? やがてシスターエリスは「ごめんなさい」と呟いて、とぼとぼとその場を立ち去って行きました。


 わたくしはそんな彼女の背中に手を伸ばし――けれどもう片方の手でそれを引き戻しました。そうして彼女が足し去った後、わたくしは無言で土の上に座り込みます。


 修道院に来て、もしかしたら変われるかもしれないと思った。

 本当は、ずっと変わりたいと願っている。だけど、結局は同じでした。わたくしは愚かなままで、いまでも同じことを繰り返しています。

 それはきっと、死ぬまで治らないのでしょうね。


 ――その日の夜。

 寝付けずに深夜まで裁縫仕事をしていたわたくしは、ただならぬ気配に振り返りました。そうして椅子から立ち上がったわたくしの前に、黒尽くめの人が立っていました。


「貴方は、セシリアを襲った……」


 顔を隠しているため、外見で見分ける術はありません。でも、ひりつくような殺気は、セシリアを襲った暗殺者のものだと断言できます。

 あの日、最初に暗殺者の侵入に気付き、凶行を止めようとしたのはわたくしですから。


 ……もっとも、結局は取り逃がし、セシリアへの襲撃を許してしまいました。それが原因で、わたくしが暗殺者を引き入れたことにされてしまったのだから皮肉なものですね。


 それより問題は、どうやってこの状況を乗り切るかと言うことです。

 あのときは相対したのが廊下だったので、下がりながら魔術で応戦するという手段が取れましたが、この狭い室内ではそうも行きません。


 助けを呼ぼうとして――その声を寸前で飲み込みます。修道院にいるのは戦う術を持たないシスターと、現役を引退した警備の者だけ。

 ここに誰かを呼び寄せれば、被害が増えるだけとなるでしょう。


 ……大丈夫。油断できない相手ではありますが、部屋から逃げ出せれば対処できない敵ではありません――と、そう思ったそのとき、彼の身体が闇に溶けました。


 次の瞬間、彼はわたくしの懐の内にいました。闇に紛れ、地を這うように距離を詰めてきたのだと理解して身を捻るのと、鈍い銀光が視界に映り込むのは同時でした。


 鈍い銀光の正体は、月明かりに照らされた黒塗りの刃に違いありません。

 体を捻るわたくしの胸元に刃が迫り来る。反応が遅れたわたくしよりも、その刃がわたくしに届くのがわずかに先。深手を負うタイミングではありませんが、確実に負傷はします。

 嫌な予感を抱いたわたくしは反射的に無詠唱で風を放ちました。


 未熟なわたくしが無詠唱で扱えるのは初級のみ。ですが、その風を攻撃に使うのではなく、自分の身体にぶつけます。わずかな衝撃を負いつつ、回避の速度がわずかに加速する。

 迫り来る刃が紙一重、寝間着の肩紐を片方切り飛ばしました。傷は負いませんでしたが、乙女の柔肌を晒そうとするなんて万死に値します。


「風よ、我が敵を切り裂けっ!」


 暗殺者が次の一手を打つより速く魔法陣を展開、風の刃を放ちました。

 簡易詠唱による魔術の一撃に大きな威力はありませんが、展開速度は速く、不意を打つことに長けています。その一撃は容赦なく暗殺者に吸い込まれ――残念、浅かったようです。


「……さすがに、厄介だな」

「あら、暗殺者が獲物を前におしゃべりですか?」

「ふん、暗殺者が物言わぬ人形なにかとでも思っていたのか?」

「暗殺者に志や矜持がある、と? ならば教えていただきたいことがあるのですが?」


 可能であれば情報を集めたい。そんなわたくしの思惑に彼は「質問によっては答えてやろう」と乗ってきました。


「ではお言葉に甘えて……今更わたくしを狙ってなんになると言うのですか? わたくしを陥れても、王家と公爵家の関係は揺るがないと理解できなかったのですか?」


 クリス様を始めとした王族はもちろん、誰もがアイスフィールド公爵家の力を理解しています。わたくしが罪を犯したとしても、公爵家を無下に扱うことはないでしょう。

 そして父もまた、クリス王太子の才能を理解しています。わたくしと彼の婚約が潰えたとしても、聡明なクリス王太子を見放すはずがありません。


「はっ、まさかおまえがそのように思っているとは……これは傑作だ」

「……なにがおかしいのですか? クリス様も、お父様も、感情に流されて物事を見誤るような愚か者ではありませんわ」

「おまえがどう思おうと自由だがな。だが、これが現実だ」


 不意に指輪が投げられる。わたくしはそれを反射的に掴み取りました。そのアイリスの花をかたどったデザインの指輪に見覚えがあったからです。


「答えなさい! なぜこれを貴方が持っているですか!?」


 その指輪は、わたくしがクリス様の誕生日にプレゼントした指輪でした。それをこの暗殺者が持っている。その事実に酷く嫌な予感がします。


「殺したときに奪い取ってきてやったんだよ」

「ふざけないでっ! クリス様が貴方ごときに――ぁ」


 詰め寄ろうとした瞬間、暗殺者が逆に距離を詰めてきた。それに気付いたときには、腹部に焼けるような痛みが走っていました。

 見下ろせば、そこに鈍い色の短剣が突き立てられていました。相手が短剣を捻ろうとするのを気配で感じ、とっさに突き飛ばしました。

 短剣が引き抜かれ、傷口から血が溢れてきます。


「いと慈悲深き光の、女神エスティア……よ」


 治癒の奇跡を行使しようとしますが、魔力が思ったように扱えません。それに、急速に手足の感覚が失われ、わたくしはその場にくずおれます。


「無駄だ、その刃には致死の毒が塗ってあるからな」


 わたくしは傷を手のひらで押さえつけ、暗殺者を睨みつけます。

 嫌な予感を覚えていたのに判断を誤りました。

 クリス様が害されたと聞けば、わたくしが冷静さを欠くと知っていたのでしょう。少しでも情報が欲しいという、わたくしの心理を逆手に取られました。


「命乞いなら無駄だ、俺は解毒剤を持っていないからな」

「違い、ます。クリス様を殺したと言うのは、本当……なのですか?」

「あん? ああ、なるほど。おまえを動揺させるための嘘だと思ってるのか? 残念ながら本当だ。おまえを失ったあいつらは面白いように自滅していったぞ」


 彼はうずくまるわたくしの髪を掴み上げて笑いました。クリス様が害されたと知り、胸の内で激情が渦巻きます。この者だけは、決して許しません。


「あな……だけ……は」

「あぁん?」


 わたくしの声を聞き取ろうと、暗殺者が顔を寄せてくる。その瞬間、わたくしは近くに落ちていた裁縫針を彼の腕に突き刺しました。

 男が悲鳴を上げて短剣を取り落とす。それを奪い取ったわたくしは最後の力を振り絞って投げつけました。その一撃は首筋をかすめるに留まったようです。

 だけど――


「お、おまえっ、なんてことをっ!?」


 慌てて覆面を脱ぎ捨て、首筋に指を這わせた男の顔が絶望に染まります。どうやら首筋を傷付けていたようです。短剣には毒が塗ってあると言っていましたからね。

 暗殺者が毒を使う場合、対象を確実に殺すために解毒剤を持たない場合と、自分の安全を考慮して解毒剤を持つ場合があると聞いています。

 この男はどうやら前者だったようです。喉をかきむしり、やがて痙攣を始めます。幼少期から少量の毒を採り続けていたわたくしよりも耐性が低いのでしょう。


「あの世で、クリス様に詫びなさい……っ」


 恐怖に顔を歪めて事切れる男を見届け、わたくしもまた意識を手放しました。




「ここは……町の広場?」


 いつの間にか、町の広場とおぼしき場所でたたずんでいました。どうしてこんな場所にいるのか、思い出そうとしても思い出せません。

 昨日は……そう、フェアリーを救えず、シスターエリスを傷付けてしまったわたくしはなかなか寝付けなくて……そこから思い出せません。

 もしやこれは夢なのでしょうか? それにしては妙に感覚がリアルですが――


AufhebenアウフヘーベンOnlineオンラインのチュートリアルを開始します』


 チュートリアルとはなんのことでしょう? いえ、それよりも、いまの声はどこから聞こえたのでしょう? 知っている声……ではありませんよね。


『まずはAufhebenアウフヘーベンOnlineオンライン(以下AO)について簡単にご説明いたします。AOの世界では、プレイヤー達の行動によって歴史が変わっていきます』


 謎の声による話が続きますが、こちらの疑問に答えるつもりはなさそうですね。

 プレイヤー達というのが良く分かりませが、歴史に影響を及ぼす力があると言うことは、貴族のような地位に立つ者のことでしょうか?


 謎の声が話を続けます。

 とにかく、この国の重要人物との関わり方で、この世界の歴史が大きく変化すると言うことのようですね。分からない単語はありますが、言っていることはわりと普通です。

 王と貴族が治めるこの国で、彼らに干渉すれば歴史が変化するのは当然でしょう。


 そんな風に考えているうちにも話は続き、アバターの制作に移りますという声と共に視界が切り替わりました。

 広場にたたずんでいる、可愛らしい女の子を正面から見つめています。


「何処かで見たような……っ!?」


 わたくしは思わず息を呑みました。

 疑問を呟いて小首をかしげる。わたくしの取った動作を、目の前の女の子がしたからです。真似たなんてタイミングではなく、完璧に同時でした。


「こ、これはもしや、わたくし、なのでしょうか?」


 感覚的には、鏡に映っている自分でしょうか?

 ――いえ、違いますね。わたくしが感覚的に振り返っても、振り返るのは目の前の女の子だけで、わたくしはそれを正面から見つめたままです。

 噂に聞く使い魔の視点を借りれば、こんな感覚になるかもしれません。


 と言うか、この女の子……よく見ると、まだ小さかった頃のわたくしですね。自分を見て可愛いなどと、ちょっと恥ずかしい発言でしたね。


 ただ、言い訳をさせてもらうと、目の前の女の子は間違いなくわたくしですが、わたくしらしからぬ点が二つあります。それで可愛く見え、すぐには自分だと気づけなかったんです。


 一つ目は、貴族令嬢らしからぬ短いスカートを穿いていることです。側面から後ろは重ねたスカートが隠しているようですけど、前面は太ももが見えてしまっています。

 平民ならこのスカートを穿いてもおかしくはありませんが、わたくしは穿いたことはありません。当時のわたくしが穿いていたら、お父様は間違いなく卒倒していたでしょうね。


 そして二つ目は、幼くなって、穏やかな表情を浮かべていることです。外見からして……おそらく12歳くらいでしょうか?

 わたくしが一部の記憶を失う少し前、まだ素直だった頃ですね。もしかして、この頃のわたくしはこんなに穏やかな表情をしていたのでしょうか?

 こんな風に穏やかに笑えていたら、みんなと疎遠になることもなかったかもしれませんね。


 ――はい、言い訳終了です。

 微妙に言い訳になっていない気もしますが、忘れてしまいましょう。

 それより、この状況はどうすれば戻るんでしょうか?

 そう言えばさきほど、謎の声が容姿を調整することが出来ると言っていましたね。自分の容姿に不満はありませんが、幼い頃の自分というのは違和感があります。


『顔立ちを、イメージに合わせて変更しますか?』


 ……え? あ、はい、お願いします。

 思わずそんな風に考えると、目の前の身体がだいぶ自分のイメージに近付きました。まだ少し幼い気がしますが……これは浮かんでいる表情のせいでしょうか?


『身長や体格が大きく変化すると制御に不備が生じるため、一定の制限が掛かっています』


 なるほど、分かりません。

 最初は12歳くらいのイメージでしたが、いまは15歳くらいのイメージとなりました。わたくしは18歳なのでまだ幼い感じがしますが、最初よりはだいぶマシでしょう。


 ひとまず、これで良しとしましょう。

 そんな風に考えると、視界と感覚が元通りになりました。ただ先程は気付きませんでしたが、やはり背が少し小さいようですね。目線が違います。


 ……と言うか、なぜか馴染んでしまっていますが、冷静になると異常事態ですよね。このリアルさは夢でないような気がしてきました。……早く修道院に戻った方が良さそうです。


『次はステータスについての説明をします。まずは、各職業のレベルに応じて得られるスキルポイントを消費して、自由にスキルレベルを上げることが出来ます』


 職業、悪役令嬢……ですか? その後にも色々な職業が並んでいますね。表示されるレベルが高いのか低いのかは分かりませんが、悪役令嬢がずば抜けて高いです。

 そこはかとなく煽られている気がしますね。

 いえ、それよりも、わたくしは帰らなくてはいけません。


『ではチュートリアルを中断いたします。スキルにポイントを振る場合は、ステータスウィンドウからスキルを選択してください』


 頭の中に響いていた声が収まり、ステータスウィンドウというのも視界から消えました。

 そんな訳で、わたくしは修道院を探すことにします。公爵令嬢として生まれ育ったわたくしは、町を歩いたことがありません。

 修道院に送られてからも、町へ出ることは許されていなかったので同じことです。


 ただ、町の大雑把な地図は学園で見たので頭に入っています。その地図と目の前の光景を頼りに、修道院に戻ることが出来ました。

 だけど――


 修道院に戻ったわたくしは知らないシスターに出くわしました。相手もわたくしを知らなかったようで、警戒するように誰何(すいか)されます。


「わたくしはアイリスと申します。もはや名乗ることは許されておりませんが、アイスフィールド公爵家より送られてきた娘です」


 優雅にカーテシーをしようとして、短いスカートであることに気付きます。このスカートの裾を摘まみ上げるのは少々はしたないかもしれません。

 それに気付いてぎこちなく笑うわたくしに、シスターは怪しむ素振りを見せました。警戒心が最大ですね。その目が完全に不審者を見る目になっています。


「シスターエリスに問い合わせていただけませんか? 彼女ならわたくしのことを知っていると言ってくれるはずですから」


 傷付けておきながら、こんなときばかり頼るのは情けない話ですが、他のシスターは嫌がらせにわたくしのことを知らないという可能性が捨てきれません。

 ですが――


「冗談もそれくらいになさいませ。私はもう何年もここで働いていますが、シスターエリスなどという名前は聞いたこともありません」

「……え?」

「それに、アイスフィールド公爵家のアイリス様ならあちらにいらっしゃるでしょう?」


 彼女が指差した方に、立派な馬車が止められていました。その馬車にいままさに乗り込もうとしているのは、淡いドレスを身に纏う、青みがかった銀髪の女の子。


「アイリス様は教会に寄付をしてくださったのです。慈悲深く、将来は王妃となられる彼女が修道院に送られた――など、侮辱も良いところですよ?」


 訳が分かりません――と言いたいところですが、脳裏にある可能性がよぎりました。

 シスターエリスが修道院に入ったのは、過去の過ちがあったから。詳しい時期は聞いていませんが、少なくとも5年以上は前のはずです。

 そして、それ以前であれば、わたくしは何度か修道院に足を運んだことがあります。


「あの、つかぬことをお聞きしますが、いまは何年でしょう?」

「……いまは王歴212年です」


 わたくしの認識では6年前です。にわかには信じがたい話ですが、そのような嘘を吐く理由はないはずです。だとすれば、ここは6年前ということになります。


「それで、結局貴方はどこのどなたなのでしょう?」

「……いえ、すみません。どうやら訪ねるところを間違ってしまったようです」


 貴族の名を騙るのは重罪となりかねません。あの場にアイリスが存在している以上、ここで騒ぐのは得策ではないと判断して、理由をつけて退散いたしました。



 修道院を離れたわたくしは、広場の片隅に腰を下ろして落ち着くことにしました。かなり混乱していますが、こういうときこそ落ち着いて行動することが重要です。


 ひとまず、いま抱えている問題を纏めましょう。

 まず、これが夢か現かという問題があります。夢ならば話は早いのですが、さきほどから感じているリアルな感覚はとても夢だと思えません。

 夢だった場合に笑い話で済むことを考えれば、現実と考えて行動するべきでしょう。


 続いて、わたくしが誰か、という問題もあります。

 どうやらアイリス・アイスフィールドは別に存在しているようです。つまり、この世界においてのわたくしは、アイリス・アイスフィールドではないということになります。

 もし双子のようにそっくりなわたくしが現れたら騒動になっていたでしょう。そう考えると、外見を成長させたのは英断でしたね。


 昨日、眠ってからの記憶がないことが悔やまれます。なぜこんなことになったのか、その切っ掛けだけでも思い出せれば良いのですが……


 本当に困りました。この世界で、わたくしの行き場がありません。今後どのように動くにしても、まずは情報を集めた方が良さそうですね。


「悪い、ちょっと良いか?」


 振って下りた声に顔を上げれば、剣士風の恰好をした少年がわたくしを見下ろしていました。年はわたくしと同じくらい――いえ、いまのわたくしからみると年上ですね。

 わたくしは少しだけ警戒しつつ小首をかしげます。


「わたくしになにかご用ですか?」

「あぁいや、冒険者ギルドを探してるんだけど、どこにあるか知らないか?」

「冒険者ギルドですか? たしか――」


 冒険者ギルドは国になくてはならない存在。実際に行ったことはありませんが、地図の上でなら町のどこにあるか記憶しています。

 わたくしは記憶を頼りに視線を巡らし――斜め向かいにある建物を指差しました。


「あそこが冒険者ギルドです」

「お、あんなところにあったんだ。ありがとう、助かったぜ!」


 警戒は杞憂だったようで、少年はクルリと踵を返しました。そうして、近くにいる女の子のもとへと駈けていきました。


「聞いてきたぜ、彩華」

「ちょ、兄さんっ! こっちで本名を呼ばないでください!」

「んだよ、おまえだって俺を兄さんって呼んでるだろ?」

「それとこれとは話が別ですっ! とにかく、本名禁止!」


 兄さんと言うことは兄妹なんでしょうか? 仲が良いというのは良いことですが、兄妹で冒険者というのは随分と珍しいですね。


「――って、ちょっと待ってください!」


 わたくしはとっさに声を掛けました。女の子の着ている服が、わたくしの着ている服とまったく同じだったからです。

 スカートだけ、もしくは上着だけ、そうでなくとも色違いなら偶然かもしれません。でも上下のデザインが同じで、色もまったく同じ。

 三つの偶然が重なれば、それはもはや必然と言えるでしょう。


「あの、貴方はどうしてわたくしと同じ服を着ているのですか?」

「え? あぁ、そう言えば同じだね。多分だけど、初期アバターは最初に選んだジョブで決まってるんじゃないかな? 魔術師は人気職っぽいし、同じ服の人が多そうだよね」

「……なるほど」


 まったく分かりません。

 ただ、彼女はわたくしが理解することを当然のように思っているフリがあります。良く知らない相手に、こちらがまったく理解できていないと口にすることは危険です。

 怪しまれるだけならともかく、付け入られる可能性もありますからね。

 深入りはせず、少しずつ情報を集めた方がいいでしょう。


「教えてくださってありがとうございました」

「いいのいいの、こっちも冒険者ギルドの場所を教えてもらえたしね」

「冒険者ギルドの場所を知らないということは、これから冒険者になるのですか?」

「うんうん。それがこのフルダイブ型MMO、アウフヘーベンオンラインの醍醐味だもん。貴方がなにをするつもりか知らないけど、冒険者登録はしといた方がいいよ~」

「それも良いかもしれませんね」


 分からないのを隠して曖昧な返事で流します。ですが、それが消極的だと捉えられたのでしょう。彼女は「本当に冒険者登録はしておいた方がいいよ?」と繰り返しました。


「貴方も見たでしょ、あのトレーラームービー」

「いえ、その……すみません」

「見てないの? 絶対見た方がいいよっ。ムービー中に悪役令嬢を断罪するイベントがあるんだけど、あれが最初のシナリオのラストじゃないかって言われてるんだよ」

「悪役令嬢を断罪……ですか?」

「そうそう。クリス王太子とセシリアちゃんをハッピーエンドに導くの」


 見知った名前を耳にして息を呑みました。

 いまの話からすると、その断罪イベントというのは、わたくしが暗殺未遂の罪で断罪されたときのこと。つまり、悪役令嬢というのはわたくし――と言うか、アイリスのことでしょう。


 それにしても、彼女の口ぶりではまるで未来を知っているようですね。もしかして、わたくしと同じ境遇なのでしょうか?


「では、その悪役令嬢を断罪すれば、二人が幸せになると言うことですか?」

「じゃないかな? 色々予想されてるけど、現段階で有力なのは悪事の証拠を集めて、断罪イベントでアイリスを破滅に追い込むことがシナリオクリアの鍵だって言われてるね」


 アイリスを破滅に追い込む、ですか。 そのアイリスはわたくしのことではないと思いますが、心穏やかではいられませんね。


「貴方もその悪役令嬢を破滅に追い込むべきだと考えているのですか?」

「うぅん、どうかなぁ……っていうか貴方、あの悪役令嬢にどことなく似てるね。もしかして、あのキャラに似せてキャラメイクした? でも、外見って大きくは弄れないはずだよね」


 彼女は首を傾げて黙り込みました。

 説得の余地はありそうだったのですが、なにかヤバいところに触れた気がします。いまのところ説得材料もありませんし、そろそろお暇した方が良いかもしれません。

 わたくしがそう思うのと、彼女の連れが声を上げるのは同時でした。


「おい、彩華。早く行くぞ」

「ちょ、だから本名っ! あぁもう……そういう訳だからごめんね!」

「いいえ、こちらこそ色々とありがとうございました」


 潮時だろうと、走り去る彼女の背中にお礼を言って見送りました。


 ……さて、考えることが増えてしまいましたね。

 このままだと、この世界のアイリスも破滅してしまいそうです。婚約破棄自体は仕方のないことだと思いますが、破滅は出来れば回避させてあげたいですよね。


 とはいえ、わたくしが破滅するのは6年ほど先に話です。ひとまず、この状況を把握するのが先決でしょう。なんだか、良く分からないことになっていますしね。


 ……そう言えば、冒険者ギルドに所属する方がいいとか言っていましたね。

 そう……ですね、悪くないかもしれません。

 冒険者ギルドというのは、仕事の斡旋所のようなものです。森への薬草採取のような依頼や護衛のお仕事だけでなく、魔術や剣術の指南なんてお仕事も存在しています。

 かくいうわたくしも、冒険者のお姉さんに魔術を教えてもらったことがあります。


 ――そう。冒険者は貴族と接する機会があるのです。

 もちろん、公爵令嬢と接触する機会が回ってくるのは超一流だけでしょう。

 ですが、下級貴族の二男、三男などは騎士となるために、冒険者として腕を磨いて実績を積む、なんてことも聞いたことがあります。


 冒険者となれば、貴族と接触する機会も巡ってくるでしょう。

 それに――わたくしはどうやらお金もほとんど所持していません。このままでは野垂れ死にという、元公爵令嬢としてはあり得ない最期を迎えてしまいます。

 幸い魔術も使えるので、無茶をしなければ生活くらいは出来るでしょう。



 ――という訳で、わたくしは少しだけ時間を潰してから冒険者ギルドにやって来ました。思惑通り、さきほどの二人も見当たりません。


 ただ、すぐに来たとしても出くわさなかったかもしれません。

 想像以上に人が多いです。

 冒険者は万年不足していると聞いていたのですが……この状況でも不足していると言うことでしょうか? それとも、熟練の冒険者が不足していると言うことでしょうか?

 どちらか分かりませんが、足りていないのはどちらかというと受付のように見えます。


 ……と言うか、わたくしと同じ服を着ている女性が多いですね。

 冒険者自体は男女同じくらいの数ですが、女性の数人に一人くらいはわたくしと同じ服装をしているようです。……この服、流行っているんですかね?

 まさか、全員がわたくしと同じ境遇、なんてことはありませんよね?


 冷静に考えると、さきほどの女性……彩華とか言いましたか? 彼女とこそ同類だと考えるべきですね。つまりは、アイリスを破滅させようとする者達。

 決して油断は出来ませんね。


 とはいえ、現時点でわたくしが狙われている訳ではありません。ひとまず、冒険者となって情報を集めるという方針に変更は必要ないでしょう。

 という訳で、新規登録用の受付が設けられていたのでその列の一つに並びます。

 列は一つで、受付は複数あるようです。

 ……なるほど、これなら受付ごとの作業速度の差による影響が少ないですね。このような方式は初めて見ました。……誰が考えたのでしょうか?


 なんて考えているうちにわたくしが最前列となりました。そしてほどなく「次の方、お待たせいたしました」と受付から女性の声が響きました。

 その声に、わたくしの鼓動がどくんと高鳴ります。


 その声をどこで聞いたのか、とっさには思い出せませんでした。だけど、わたくしはこの声を間違いなく知っています。泣きそうになるくらい懐かしい声です。

 たしかめずにはいられない。

 そんな衝動に突き動かされたわたくしは、早足でその受付の元へと向かいました。

 そして――


「お待たせいたしました。冒険者の登録でよろしいですか?」

「――っ」


 この辺りでは珍しい赤い瞳と赤い髪。年は18か19くらい……いえ、19ですね。女性らしい丸みのある体型で、穏やかそうな雰囲気を纏っています。

 彼女を見て、わたくしは失っていた記憶を思い出しました。


 彼女の名前はリーゼ。わたくしに仕えてくれた期間は決して長くはありませんでしたが、わたくしが姉のように慕っていたメイドです。


 そして同時に、わたくしが素直になれなくなった原因を作った相手でもあります。

 ある日、わたくしはなにか恐ろしい光景を目撃してしまいました。それがなにだったのかまでは思い出せません。

 だけどそれは恐ろしいなにかで、わたくしはその日のお稽古を休みました。


 だけどお稽古を休んだことで、わたくしは連絡の不手際で両親に叱られました。それ自体はなんてことのないお小言で、次からは気を付けなさいと終わる話でした。

 でも、リーゼはなにか事情があるのだと信じてくれました。なにがあったか事情を教えてくださいと、わたくしに問い掛けてきたのです。


 だからわたくしは本当のことを――自分が見聞きしたことをリーゼに話しました。だから怖くなって、お稽古に行くことが出来なかったのだと。

 彼女は真っ青になって席を外し――次の日、自室の天井からぶらさがっていました。わたくしはその光景を目の当たりにして、それらの記憶に蓋をしてしまったのです。


 だけど、心の底ではその悲劇を忘れていなかった。だから親しい人間には素直になれず、無実だと、事情があるのだと口にすることが出来なくなった。


「……リーゼ」

「え? あぁ、ネームプレートを見たんですね。自己紹介が遅くなりました。私が貴方の担当をするリーゼです。よろしくお願いします」

「貴方になんて――」


 反射的にいつもの悪いクセが出そうになり、とっさにその言葉を飲み込みました。リーゼが、わたくしの大好きなお姉ちゃんが、目の前で小首をかしげます。


 どうして、こんなことになっているのかは分かりません。

 だけど、死んだはずのリーゼが生きています。彼女がアイスフィールド公爵家に拾われ、わたくしのメイドとなってその命を落とすまで、まだ少し猶予があるはずです。

 もしかしたら、運命を変える方法があるのではないでしょうか?


 もちろん、ここが6年前とまったく同じ世界かどうかは分かりません。わたくしが素直になることで、また大切な人達を失うことになるかもしれません。


 ――だけど、わたくしが口を閉ざした結果も思い出しました。多くの友人を失い、大切な親友を傷付け、クリス様を死に追いやってしまった。

 どちらを選んだとしても、破滅の運命が待っているかもしれません。


 ですがさきほど、謎の声が良い言葉を使っていましたね。

 Aufhebenアウフヘーベン――それは、二つの相反する要素を対立の末に昇華させることです。いまのわたくしにぴったりではないでしょうか?

 ただ素直になれば良い訳ではなく、全てに冷たく対応すれば良い訳でもない。大切なのは、その状況に応じて最善を選び取ること。

 過ちは、二度と繰り返しません。

 だから――


「初めまして、リーゼさん。わたくしはアイリスと申します。分からないことが多いので、よろしければ色々と教えてくださいませんか?」


 わたくしはこのやり直しの機会を決して逃しません。クリス様やリーゼは死なず、アイリスも、わたくしも破滅しない未来を掴み取って見せましょう。

 たとえこの世界を敵に回したとしても。

 





◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 お読みいただきありがとうございます。

 今作は『悪役令嬢の執事様』のソフィアお嬢様の一人称視点や三章書き出しのテストを兼ねて、新作としてストックしていたアイディアを短編に落とし込んだものです。

 現時点で続きを書く予定はありませんが、みなさんの要望が多ければ長編化をいたします。

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悪役令嬢の繰り返し ~アウフヘーベン・オンライン~ 緋色の雨 @tsukigase_rain

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