失敗を秤に乗せて
鮭の切り身も千切りの玉ねぎも、悪い味はしない。
それでも、何かが足りない気がする。
「はぁ……」
深夜のリビングに座るエプロン姿の俺から、深い溜め息が出た。
こんな調子では、要らぬ心配を彼女に抱かせてしまう。
『そんな気にする必要はないと思うぜ、栄』
「うるせー」
『ハッ、オイラがこんなに励ましてやってるってのに! お前もっと愛想持った方がいいぜ!』
「今はそんな気分じゃねえんだ」
『ナイーブだなー!』
頭の中で響く声を振り払って、俺は再び厨房へ戻る。
多重人格であることが、メリットだとは思ったことがない。
物心ついた時から、奴……ヌーって名前が俺の中にいて、その煩い声で喋っていた。
『おい、そこの答えは15だ!』
『席替え、誰と隣になるかね? 結子ちゃんなら最高だよな!』
『気にすんなよ、たかが高校だろ? 今から勉強して、大学とか仕事はよろしくやろうぜ!』
『栄! まさかお前とオイラに、料理の才能があったなんてな!』
奴の言葉は時に合ってて、時に的外れで、でも、とにかく煩かった。
『栄、お前はさぁ、几帳面すぎんだよ! 塩の量なんて適当にこう、ササっとだな!』
「料理なめんな、目分量は地獄をみるぞ」
スランプというやつだろうか。最近、何を作っても美味しくできない。
店を出して、その辺のブログに高く評価されて、それなりに有名になった。そんな今になって、自分の味に自信が持てなくなった。
『でも上手く行かねえんだろ? たまには俺の言うこともさぁ』
「ったく……」
自分で作っても上手く行かない。かといって、ヌーの的外れな指摘を受け入れたくはない。
いろいろ考えた後、俺は目を瞑った。
『おいどうした、玉ねぎが染みたか?』
「……そんなに色々と口出しするなら」
『お?』
「…………」
「……おっ、おおぉ!」
『お前が、一から作ってみやがれ』
ヌーが目を開くと同時に、キッチンが俺の思考に流れてくる。
「おいおい、どうした栄! 身体を譲るなんて何年ぶりだ?」
『たまには、お前にも苦労してもらおうと思ってな』
専門学校に入る前は、気分転換にこうして身体を譲ることもあった。
最近それが無かったのは、双方それを強く望んでいなかったからだ。
『包丁は右から三番目の棚。調味料は』
「よっしゃぁー! 栄に代わってプロの実力、見せてやるぜぇーっ!」
『……はぁ』
思考の中だろうと、溜め息は吐けるらしい。
そんなどうでもいい発見をしつつ、俺はヌーを見守った。
その結果は、とても見事なものだった。
「助けてくれぇーっ! 栄ーっ!」
『はあぁー……』
見事なまでに、俺の予想通りだった。
黒い煙が立つフライパン。
キャベツに刺さった包丁。
排水溝に流れていく米。
「何故だ! 栄の言う通りにしただろぉーっ!」
『いや計量してなかったし、火は強すぎ、米研ぎは荒い、包丁は持ち方が』
「だってよー! ワイルドに作った方が格好いいじゃねーかぁーっ!」
『料理に格好よさは要らねえだろ』
確かに、中華鍋から火を吹かせて作るチャーハンとかに憧れた時期はあった。
しかし結局、料理は味だ。結果こそが全てだ。過程を極めたところで、今みたいに失敗していては意味がない。
「チクショー、栄! あとは任せた!」
『片付けくらいやれ……って、もう戻ってるし」
目前に並べられた失敗作たちを見て、思わず失笑する。自分ではどう頑張っても、こんな作品は作れないだろう。
一種の才能なのかもしれない。
「分かったら、次から料理には口出しすんな」
『それは断る!』
「はは、自己中なヤツ」
いつの間にか、溜め息の代わりに呆れた笑いが出るようになっていた。これがヌーの狙いだったなら、少しは見直したかもしれない。
溜め息より笑い声のほうが、出してて前向きになれる。
「それにしても、随分と散らかしやがって」
『いやー! それについてはスマンっ!』
料理を始めたての俺でも、こんなに汚すことは無かったはずだ。
そう思って、ふと、疑問が浮かんだ。
どうして俺は、料理のプロなんて目指したんだっけ。
そのハテナは、閉めきってた扉が開く音でかき消された。
「ただいまぁ~、ってうわ。何この……殺人現場?」
「いや人は殺してないわ。おかえり」
薄橙のエコバッグを肩から下げた、単発の女性。興味深そうに笑う彼女の顔を、俺は毎日見ている。
「じゃあ、食材を殺したってとこ? 殺食現場だ!」
「なにも面白い要素ないけど」
「栄は笑いのセンスないね……って、この包丁どうなってるの?」
包丁を持ち上げると、先端に刺さった半玉のキャベツも一緒に持ち上がる。それを見て、ケタケタと笑う彼女。
「えーっ、私でもこんなの作らないんだけど!」
「……まあ、俺も驚いてるところ」
「栄もそういうこと、あるんだね~」
彼女は包丁を元の位置に置き、奥のリビングへ向かった。それから扉も閉めず、水色の私服を脱いで部屋着に着替える。
今さら興奮は……する。そりゃあ女性の半裸なんだから、する。でも今は、性欲より悩み事のほうが頭の中を占めていた。
「__私も、たまには料理とかしようかな?」
上下とも黒い服になった彼女が、俺の横へ戻ってくる。
「へえ珍しい。何年ぶり?」
「半年も経ってません~。いつも栄に作らせてるから。たまには自分でも作ろうかなって」
「明日も店開けるんだし、変な失敗するなよ?」
「こんな芸術作品を作った人に言われたくありませ~ん」
悪戯っぽく笑う彼女に、俺は苛立ちと愛おしさを覚える。愛おしさ九割、苛立ち一割といったところか。
『ラッキーじゃねえか栄! 好きな人が作った晩飯! 食おうぜ!』
(……ま、俺もそう思ってた)
ヌーと俺の意思が一致すると同時に、キッチンの片付けを始めた。それが終ったら、今度は鍋に火を通す彼女の手伝いに興じる。
彼女がキャベツ付き包丁を握ってから、三十分と数分後。
「完成! キャベツスープ!」
焦げ臭い臭いから一転、厨房にはコンソメの香りがほんのり漂っていた。
『おお! 流石は栄が見込んだ女!』
「上手いな」
「いつも栄のこと見てるから」
料理というのは、ただ濃ければいいという訳ではない。味も匂いも、丁度いい加減がある。
彼女は無意識のうちに、その加減を理解していたようだった。
ソワソワして落ち着かない様子の彼女。それを横目で見ながら、棚にある茶碗を取り出す。
「ほら冷めないうちに! 早く食べて食べて、んー美味し!」
「なぜ食べる前に感想が出る」
お玉で一杯、続いて半杯ほど移してから、俺は茶碗に口をつけた。
「…………」
「ど、どうでしょう」
「かなり良い。悪くない」
パアと顔を綻ばせる彼女をよそに、俺はただ感心していた。
味のレベルで言えば、まだまだ成長の余地がある。しかし、先ほどまで俺が作っていた料理より美味しい。そんな気がする。
「よかったー! 栄、なんか落ち込んでたから。元気になれーって気持ちを込めて、本当によかったよ」
「気持ちか」
そういえば最近、あまり意識してなかった気がする。
軽視されがちだが、気持ちは大切な調味料だ。機械による量産型料理でさえ、その機械に、あるいは設計図に心が込められている。
「うまく行かないからって、こだわり過ぎてたかも」
「何の話?」
「ほら、スランプ」
「ああー」
最近の俺を、彼女はよく知っている。共感からか同情からか、渋い顔をこちらに見せた。
「でも結子を見てたら、なんか元気出た。もっと色々試してみようかな」
「へー。私の料理はプロの心を動かすんだ」
「調子に乗りすぎるのもあれだけど、事実だし否定できない」
悪戯っぽく笑う彼女の顔に、俺は愛おしさを覚えた。数十分前と同じ感情。
「この気持ちで、ちょっと頑張ってみる。料理ありがと」
「どーういたしましてー!」
多分、もうしばらくスランプは直らないだろう。
何を作っても納得行かない。何をしても満点が出せない。
だが、失敗も貴重な経験だ。俺はもう少し、この時間を楽しむことに決めた。
__時は戻り、十数年前。
「すっごい! 栄くん、めちゃ格好良い!」
「そ、そうかな?」
家庭科室で料理の授業を受ける、男女の姿があった。
「将来はコックさん? 凄い! 私、毎日栄くんの料理食べたいな~」
『おいおい栄! 結子ちゃんに気に入られんじゃねーか! やっぱ料理はいいな!』
「ふふ、そうだね」
彼女から褒められ続け、栄は頬を赤らめる。
彼の底が純粋であり続ける限り、彼の道は終わらない。
明日の私はもっと幸福な夢を見る ゲー魔ー導師 @zerosaza
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