ラジオ

真花

第1話

 勢いよくドアを閉めて、電気も点けずにベッドに倒れ込む。

「ママなんて嫌いだ」

 枕に呟いてみても何も返っては来ない。深夜が始まるこの時間までずっと、ママに囚われて今日が終わってしまう。決して殴らない。ただ延々と私を逃さずに、時間をこころの力を消耗させる。理論も筋も何もない言葉が茣蓙を積み重ねるように私の息を締めてゆく。丁寧に希望が削られてゆく。私だって振り返って逃げればいいのにそれが出来なくて、でもそれがママが私に植え付けている、いや長年をかけて植え付けたものが育った結果だと言うことは分かっている。それはザイルに似ている。もしくはへその緒かも知れない。ママは巧みにそれを利用して私を金縛りにして、彼女の気が済むまで鈍い言葉で打ち据え続ける。それはとても無為で、徒労で、人生の確実な損失で、その分だけ後の私が同じだけ苦しむのだ。

「役立たずのパパ。きっと愛してくれているのに、勇気のないパパ。でも、何もしないんだったら愛していないのと変わらない」

 余韻と言うには毒の要素が強すぎる胸の内の感覚を少しでも、減らしたい。時計を見ると二時になろうとしている。どうせこのまま寝ようとしても眠れはしない。私はラジオをベッドの中に引き寄せた。

 小さな、秘密の聴取を守れる程の小さな音量でラジオを点ける。

「はい、始まりました。火曜の深夜はミッドナイトエボリューション、パーソナリティの大崎です」

「田町です」

「まず最初のお便りは、東京都文京区のラジオネーム『ななこぶラクダ』さんからです。こぶは一体どう配置されてるんでしょうかね」

「上に三つ、左右に二つずつでしょう」

「そんな形のあんまグッズ昔よく見かけましたよね、友達の家で」

「なのに自分ちにはないって言うね」

「と言うことでナイスな葉書でコリを取ってもらいましょう」

 この人達は私とは関係なく生きている。当たり前だけど、私の全ての世界の外側が確かに在る。ママの最初の方略は、その私の世界を狭小化させることだ。もしさっき、このラジオが流れてたら、立ち向かえたかも知れない。でもそれはあり得ない。ママが自分に不利になるようなメディアを、ママの時空間と関係のない世界を挿入する媒体を、その支配が勃勃と実行されているさなかに垂れ流すと言う失策を犯したことはない。限りなくパッケージされた、それ故に全てがそれだけと錯覚させるような、場所と時間が彼女の息を吹き込む行為のためには土台として必要なのだ。だからパパは背景になる。ならばパパこそがあれを破る力を最も持つ人な筈なのに、私の意識が生まれたときには既に存分に、彼は去勢され切っていた。もしかしたら本物のあそこもママに切り取られてるのかも知れない。物理的にそれをされたから、教育されて、奴隷をしているのか。自ら去勢する宦官ならばそれに見合うだけの権力を求めても、身内にそれをされると逆に従属するのか。

「『新しいアプリの提案です。場所を入れるとそこの百年後が表示されます』」

「面白そうですね」

「『試しに入れてみましょう。私の出身大学は……「ギネス認定世界一大きなトイレ」になっていました』、って一体大学に何があったんだ?」

「きっと、学長がある日挑戦したくなっちゃったんですね、2050年くらいかな? 作った」

「作って?」

「それでその後大学は滅びてトイレだけ残った」

「もし恐竜でもその化石の残り方は嫌だわー。て言うか、何で滅んだの?」

「どうも、大きなトイレが敷地の殆どを占めたせいで学生数が激減したようだよ」

「それでも入学して来た学生に拍手だわ」

 百年後。絶対にママは死んでる。パパもそうだろう。でもそれまで待つには長すぎるし、私自身も死んでる。自分の親を「死ぬの待ち」している女子高生ってのはどれくらい居るのだろう。きっとそうは多くないけど、同じようにラジオを聴いている、同じような境遇の子も居るのだと思う。思いたい。結束したら何か出来るのかも知れない。私がいずれこの沼から抜け出したら、そう言う子達を助けることをしたい。仲間を見捨てて生きていけない。でも私にはまだその力がない。それ以上に、抜け出せてない。受動的に待つ以外にも方法はある。殺すのではない。私が独立すればいいんだ。家を出る。でも焦ってはいけない。確実に力とお金を貯めてから出なくてはならない。ずっと、勉強は逃げ場だった。その間はママから目を背けられるし、ほっといて貰えた。苦さのある努力が、ここに来て私が自由を勝ち取るための矛になろうとしている。大学に行き、力を付ける。そのために踏ん張る。

「次は東京都町田市のラジオネーム『放映は深夜31時からって、もう朝だし』さんからです」

「確かに、もう朝のニュースやってますね」

「どんどんディープなアニメが深夜になって、ぶち抜いて朝に流れるのはどんな話なんでしょうね」

「サザエさんから通常の深夜までの変化分を、もう一度乗せたくらいなんで」

「公共放送では言えない内容ですね、確実に」

「それを見ながら朝食を食べる小学生の気持ちに、ちょっと寄り添って下さい」

「いや、チャンネル回して下さい」

 朝は必ず来る。大体、夜に出し切って落ち着いているママと、何もなかったように挨拶をして、それを何も知らないようにパパが眺めて、私は学校に行く。何もなかった訳じゃない。万が一にも朝から再燃されたら困るから無視しているのだ。学校に行かなくてはならない、会社に行かなくてはならない、私とパパの弱点をママは握っているのだ。彼女は働いている訳ではないから多少のことがあっても何も影響しないのだろう。前はちょっとしたことで朝から毒の気配に締め上げられることもあった。私達は学習した。異常な人と暮らしていて、適応するために変化するのはいつだって被害者の方だ。彼女は変わらない。何をどうしても変わらない。それこそ死んでも変わらないのだと思う。その変わらなさに、きっと変われないのだと私達は他に納得の手段がないから受け入れて、自分達を捧げる。そしてまた朝が来る。それがいけなかったのかも知れないけど、生き残るにはそれしかなかった。今更戻れない。夜が来る。私はこうやってうつ伏せながら、朝を待つ。

「『緊張する場面で掌に人という字を書いて飲むといいと言いますよね』、そうですね」

「ありますね」

「『中学校のとき、友人に「実はそこに『後ろ!』と書くといい」と言われたんですよ。それで、私は忘れないようにマーカーでしっかりと左手に書いて、ピアノの発表会に臨んだんです』、ピアノの発表会、緊張するよね」

「いや、君ピアノ弾かないでしょ」

「『演奏は大成功で拍手喝采。それで、私はその拍手に手を振って応えたんです』」

「最高の瞬間ですね」

「『拍手が止んで、ざわ、ってして、お客さんがみんな後ろを振り向いたんです』」

「書いてあるからね! 注目の的だもんね」

「『恥ずかしくなってそそくさと袖に隠れたら、後で「急に消えたからイリュージョンかと思った」ってお客さんに言われました』」

「振り向いている間に隠れちゃったんですね。演奏のこと忘れるくらいのインパクトかも」

 今度緊張したときにやってみよう。ママとのは緊張ではないから使えないけど、学校だとちょいちょいそう言う場面があるから、本当に効くのかな、やってみよう。子供の頃ピアノ、やってたな。なんで始めたのか覚えてないけど、何でやめたのかは克明だ。結局ママの気に障ったと言うことなんだけど、私も大して熱中していた訳でもなかったから、ドロドロっと終わった。私の最大の関心事はママの機嫌になっていた。そこが損なわれると日常が裏側に入り込むみたいに息をするのも困難な場所になるから。でも、もし私の意志を掌に書いておいたら、そんな裏に連れ込まれても手の中の呪文で戻って来られるのかも知れない。ママはそう言うことがないように私の書いた全てのものと、手紙や葉書の全てを勝手に見る。でも、私も知恵がない訳ではない。学校のロッカーに置いておけばいい自分の言葉、アカウントの内側に秘めた文章、ママの世界とは違う世界との架け橋を私はもう持っている。

「次は東京都江戸川区、今日は東京が多いですね、ラジオネーム『もう一本だけ』さん。何を欲してるんだろう」

「タバコですかね」

「焼き鳥かも知れない。リクエストで、フィンガー5で『学園天国』、って指!?」

 軽快で短い前奏に続いて、日本で最も有名であろう観客との掛け合いが始まる。

 私はこころの中でその掛け合いに応じる。体が自然に揺れる。

 頭の中が黙って、歌詞を追う。

 私はママという一人から逃れることばかり考えていて、歌にある「美人の隣」のような選ばれた場所を目指してはいない。どこから離れるか、と、どこに向かうか、は、動きの方向は同じでも全然違うもの、そうだよね、絶対にそうだ。ここじゃなければどこでもいい、そんな風に考えるのが当たり前になっていた。違うんだ。耐えることが普通の中に居ると、行動の原理まで曲がってしまうんだ。ママは私から夢とか目標とかも奪っていた、そう言うことだ。手に職を付けなければと考えていたのもそれの一環なのかも知れない。少し時間をかけて、絶対に秘密で、私のやりたいことを探そう。違う。やりたいことはいっぱいある。その中で私が生きることの中心に据えたいものがどれかを選ぶんだ。

 二回目の掛け合い。呼ばれているように、意識が歌に向く。

 少年の声の響く歌が終わったら、私はラジオを消した。

 そうなんだ。私はどこかに向かっていい。狙い澄ましたどこかに。

 布団はちゃんと暖かい。枕の具合もいい。

 胸の内側にジャングルのように張り巡らされたママとの戦いの記録と次のそれへの備えに、暖かい霧がさしている。世界はここだけじゃない。

 ラジオを見る。きっと多くの言葉で一言「大丈夫だよ」と伝えてくれたのだ。



(了)

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