後編
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場面は、彼の書いていた小説の続きからだった。
遭難中の少年は、木のうろの中で夜露を避けながら、一晩中助けが来るのを待ち続ける。そこで、自分が死んだらどこにいくのか、周りの人たちはどうなるのかを考えていた。
翌朝、捜索隊に発見され、少年は家族の元へ戻ってこれた。両親は歓喜の涙を流すが、彼自身は助かったという実感が持てずに、ぼんやりとしていた。
その日の夕方、車に乗って、自宅へ帰ってきた少年とその家族。少年の家の玄関では、少女が立っていた。
少年が車から降りてくると、少女は彼に抱きつき、わんわんと泣き出した。その泣き声を聞いて、少年も幼少期に戻ったかのように泣き叫ぶ。
『一先ず、第一難関は乗り越えました』
病室のベッドの上、パソコンを開いたまま、千花岬は溜息をついた。
『第二難関は、まだタイトルが決まっていないところですね。いつもなら、構想の時点で思いつくのですが……』
カメラに向かって、彼は苦笑を浮かべる。
治療を始めて数か月が経ち、明らかに取材開始時よりも痩せている。
『小説を書く、ということを始めてやったのは、小学四年生の頃でした。国語の課題だったんです。それまで、読書は好きだったんですが、自分で物語を作り、描いていくことの面白さに気付いたのは、あの時が最初でした』
キーボードを叩く彼の横顔に、彼自身の声が重ねられていく。
液晶画面の上で、彼の紡ぐ言葉が浮かび、時折消されるのが繰り返されていく。
『最初は、純粋に楽しくて書いていました。小説をWebで公開するようになってから、読者を意識するようになりましたね。本になってからは社会への責任とか考えるようになって。自分にとっての執筆の意味は、少しずつ変化していったんです』
彼は手を止めて、パソコンの画面と向き合う。
その瞳が、あの時海を眺めていた時のと重なった。
『今は、生きている証を刻みたくて書いています。僕のではなくて、この小説の世界で生きた彼らの』
静かに、彼の口が動いた。
すぐに口を結んだ彼は、再びキーボードを叩き始めた。
小説の展開は佳境へと差し掛かっていた。
少年の遭難から、少女と二人で泣いている所が人に見られて、二人は付き合っているのではないかと噂になってしまう。少年は少女に対して罪悪感を抱き、意図的に距離を取ろうとする。
そんな関係が三か月ほど続いた後、少女が交通事故に遭い、生死の境を彷徨う。
少年はその前日に、少女の挨拶を無視してしまったことを後悔し、彼女が助かるようにと神社に通って手を合わせる。
数日後、少女は回復し、病室での面会も許される。
少年は早速見舞いに向かうが、少女には左半身不随の後遺症があった。
この場面を書いている時に、彼の一人息子がお見舞いに来た。二十歳になる彼の息子は大学生で、実家を出て一人暮らしをしているという。
『お邪魔します……』と遠慮がちに病室に入ってきた息子を、彼は執筆の手を止めて、笑顔で迎えた。
ベッドの横の椅子に座った息子と、彼は和やかに話をする。
会話の内容は、彼の入院生活や息子の大学生活についてが中心で、当たり障りのないもののように感じられる。しかし、彼の病状については触れないようにしているようだった。
ふと、息子が開いたままになっているパソコンを見た。
無意識に縦書きの言葉の連なりを読んでいることに気付き、慌てて父親に確認をした。
『これ読んでもいい?』
『いいよ』
彼は、目を細めたまま頷いた。
息子は、『父さんが書いている途中の小説を読むの、初めてだ』と無邪気に顔を綻ばせて、パソコンに近付くように座っている椅子を動かした。
『 二人分の沈黙が、重苦しく停滞していた。僕は、何度も練習した「あの時はごめん」という一言すらいえなかった。
膝の上に置かれた、自分の両拳を眺めていた。指の関節が、酷く強張って見えた。 』
息子が、突然そのページを音読し始めた。
彼はそれに気付いたが、咎めることはせず、しかし赤くなった頬を隠すかのように、顔をしきりに触っていた。
『 ふと、顔を上げてみると、ベッドの上の白川さんの目線は、遠く窓の外へと向けられていた。
僕も振り返って、彼女と同じ場所を眺めた。青く澄んだ海が日光を乱反射させているけれど、それ以外に目を引くものは見当たらない。僕は彼女が、海を眺めるほかないほど退屈しているのだろうかと心配になってきた。
「ねえ、松田君。海の水が何でしょっぱいか、聞いたことある?」
白川さんが突然脈絡のないことを話しかけてきた。
すぐに彼女の顔を見てみるが、先ほど顔の向きは変わっていなくて、どうしてそんな話をし始めたのか、真意は汲み取れなかった。
「確か、塩を出し続ける臼が海の底に沈んでいるからだったっけ」
僕は、絵本の読み聞かせで小さい頃に知った話をした。
すると、白川さんは優しく頷いて、今度は真っ直ぐに僕の瞳を射すくめた。
「私はね、神様の涙がたまって、海になったって聞いたことがあるよ」
——その日の夜、僕は夢を見た。
白川さんが今まで流してきた涙が海となり、そこで沢山の命を育んでいくというものだった。 』
息子は、彼が書いている部分の最後の一文まで読み上げた。
気恥ずかしさが勝っているのか、お互いに顔を見合わせようとはしない。そのまま、息子がぼそりと呟いた。
『僕、父さんの文章、好きだよ』
『……聞きました? 孝行な息子でしょ?』
彼は、照れ隠しに息子の顔を指さして、苦笑する。
息子も、彼とよく似た笑い方で、俯いた。
そんな彼らの様子が、焦がれるほど羨ましかった。
……私は、人を愛することができない。どれほど親しくなった相手にも、友情や憧憬以上の感情を抱かない。
これまで、告白されたこともあった。十代の頃は、恋人になった人もいた。
しかし、相手が深い愛を示してくれても私はそれに応えることができずに、結局別れてしまった。
そのことについて、寂しいと思ったことはない。相手の気持ちを裏切ることになり、それを申し訳なく感じられるけれど、治そうと思って治らないものだから、諦めている部分もある。
これが私の生き方なのだと、すでに受け入れてきた、つもりだった。
だけど、あの瞬間、もしも私に子供がいたなら、私の演奏を聴いたら、何と言ったのだろうかと、考えてしまった。
そんなことを、微塵も考えたことが無かったから、私は妙にそわそわとした気持ちになった。
ぼんやりしている間に、画面の中では、多くの時間が流れていたようだった。
帰郷後の彼は小康状態だったが、この頃病気の進行と薬の副作用に悩まされるようになっていた。髪の毛は抜けて、体の痺れと貧血に苦しんでいる。
『大きく減ったのは、執筆の時間だった。キーボードを叩くことさえ、彼には難儀な作業だった』
ナレーションが、感情を込めずに語る。
画面には、ベッドの上に横たわる彼の姿が映っていた。虚ろな瞳で、奥さんの方を眺めている。そんな彼の、唇が僅かに動いてか細い声が発せられた。
『…………パソコンを、用意、してほしい』
『書けるの?』
彼の申し出に対する奥さんの不安は当然のものだった。髪を耳にかけた横顔は、真剣な瞳で、彼の心を読み取ろうとしていた。
その時、彼は奥さんから目を逸らした。不自然な瞬きが数回、それを見た私は、はっと息を呑んだ。
『……大丈夫、だから』
『……分かったわ』
彼は強がっている。本当は苦しくて辛くて、執筆どころではない体を押して、小説の続きを書こうとしている。
奥さんも、指摘はしていないけれどそのことには気付いていて、それでも彼の気持ちを優先し、パソコンを用意し始めた。
私に、「気まずくなったら目を逸らして、瞬きをする癖があるね」と指摘したのは、生前の母だった。まさか、千年前の彼と私の共通点が、ここで見つかるとは思わなかった。
彼の強がりについて、ナレーションは何も言わなかった。きっと、彼の奥さんと、現在の私だけが気付いていたのだろう。
彼は、奥さんにベッドの上半身の部分を起こしてもらって、備え付けの机も手前まで寄せてもらい、開いたパソコンと向き合う。白い画面には、縦書きの日本語が並んでいる。
十本の指は、ホームポジションすら守っていないが、降ってくる雪を掴むかのような力加減で、一つ一つのキーボードを押していく。集中している彼は、口を開けたまま、浅い呼吸を繰り返していた。
満身創痍で言葉を紡ぐ彼の姿に胸が締め付けられるのか、奥さんはハンカチで目元を抑えたまま病室から出て行った。
カメラも、彼女の後を追うように扉から出て行った。廊下の窓の外は、すこんと晴れた青空だった。
次の瞬間、真っ暗な画面の中に、文字だけが浮かんでいた。翻訳した字幕による事実は、あっけないほどだった。
『この撮影から五日後、二〇四五年十月五日、千花岬の容態が急変。享年、五十二歳だった』
葬儀などが一段落した奥さんの元に、カメラは訪れた。奥さんは、スタッフたちを彼の書斎に通してくれた。
南向きの窓に向き合うように、彼の机がどっしりと置かれていた。そことドア以外の壁は本棚で埋まり、日光に照らされた埃がきらきら輝きながら舞っている。
彼の奥さんは、机の上に会った分厚い紙の束を持ち上げた。
裏返していたそれを、掌の上でぺらぺらと捲っている。
『夫の遺作なんです。コピーをしました』
奥さんの一言で、その紙の束をカメラがアップしていく。私は目を凝らしてみたけれど、もちろん何と書かれているかは分からなかった。
一瞬だけ、カメラは奥さんの顔に切り替わる。彼女は目を潤ませながらも、口元は海を見た彼のように柔らかく笑い掛けていた。
『いつの間にか、タイトル、決めていたんですね』
彼女の視線の先には、その紙の束の表紙があった。
そこには、日本語でタイトルが書かれていた。私は、字幕が出るコンマ一秒すら耐えきれない気持ちで待った。
『その涙さえ命の色』
字幕を見た途端、私から涙が溢れていた。
画面がぼやけて、エンドロールが流れている様子でも、何の映像をバックにしているのか、たくさんの涙に押し流されてしまった。
ようやく涙を拭った頃には、番組は終了していて、画面は真っ暗になっていた。六十分にも満たない映像だったが、映画を見た後のように頭の中が疲れていた。
私は、端末の横の楽器ケースから、フルートを取り出した。それを持ったまま立ち上がり、窓辺まで歩み寄る。
そこからは、海を見下ろせた。彼の生きた時代と眺めていた場所とは全く違うけれど、海の青の美しさは不変のもののように思えた。
私はフルートを吹き始める。曲は、エンドロールで流れていて、今も耳に残っている、パッヘルベルのカノンだった。
彼や彼の家族が、彼の作品を愛してくれた人たちが、そしてあの小説の少年と少女が、今ここで私が流した涙が、全てあの海へと流れていくのを想像した。
海は今も昔も、涙の色のままたゆたう。このカノンの演奏も、波の間に漂って、彼へ届けてくれないだろうか。
その涙さえ命の色 夢月七海 @yumetuki-773
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