その涙さえ命の色
夢月七海
前編
『千花岬』と書かれたファイルにタッチする。画面の一番上は、つい昨日ダウンロードした映像データだ。
そのタイトルは、『小説家・千花岬、その終の日々』——シンプルな字体の羅列に、見るのは二回目でも、私の胸は絞めつけられたかのように苦しくなる。
地球に引っ越してきた後に、記念のつもりで自分の祖先を調べてもらったら、約千年前に日本人の小説家がいることが分かった。
私自身は日本語なんて全く読み書きできないのに、その事実が不思議で、それから彼の書いた小説を時々読むようになった。
後々に、彼が「テレビ」という当時の映像配信(正確には放送というらしい)にも出演していたという話も知り、それも見てみたいと思った。
ただ、この「テレビ」の配信データはネットに殆ど埋もれてしまっている。それをサルベージする会社に依頼して、初めて届いたのがこの映像だった。
正直、私は自分の先祖が『千花岬』だと分かって興味を持ったけれど、彼がどんな一生を送ったのかまでは調べていない。作品も手に入れやすいものから読んでいるから、全てを把握しているわけでもない。
こんな状況のまま、彼の最期から見てしまってもいいのかという思いもあったが、好奇心の方が勝ってしまい、私は再生ボタンを押していた。
最初に映ったのは、どこまでも広がる海だった。カメラは海岸線を走る車内から撮っているようで、景色は右から左へと流れていく。
スピーカーからは、強い風の音にエンジンの音とタイヤが道に接触する音が重なって聞こえてくる。
カメラが車窓の景色からズームアウトしていくと、それを眺める男性の白髪交じりの後頭部が映り込んできた。どうやら、ここは後部座席らしい。
こちらに一切顔を見せない彼は、海を眺めたまま呟くように話しかけた。
『ここは、僕が生まれた町なんです』
振り返り、声と同じ穏やかな笑顔を彼は見せた。
言葉は日本語だが、下に字幕が出てくるので、何と言っているのかは理解できた。
『この海を見れるのも、これが最期だと思います』
その一言の直後に、画面は真っ白になり、静かなピアノの旋律と共に映像のタイトルが波紋のように浮かび上がる。
BGMに聞き覚えがあったけれど、何の曲か思い出せないうちに、若くて正装をした彼がデビュー作を持って笑っている写真に切り替わった。
男性の声のナレーションが、彼の略歴を説明する。一九九三年生まれ、二〇一八年にウェブ上で発表した『淡色』が出版された後に、とある賞を受賞したのだと。
この『淡色』は、私も読んだことがあった。千花岬が私の先祖だと知った後に、初めて買った彼の小説だった。
その後も、ナレーションは彼の経歴を読み上げて、その度に写真が切り替わる。その後も別作品で別の賞を取ったこと、のちに『淡色』が実写映画になったこと、日本国外でも翻訳した小説が評判になっていること。プライベートでは、結婚し、息子が一人生まれたことも紹介していた。
そして、撮影をしている「現在」に追いつく。五十二歳になった彼は、末期癌が見つかり療養中だと、病室のベッドの上で笑顔を浮かべる彼の写真と共に説明された。
一度映像を止めて、癌について調べてみた。
当時の癌は、病死の原因の第一位になるほどの恐ろしい病気だったという。進行具合にもよるけれど、数種類の薬を飲めば治る現在からすると、信じられなかった。
『検査結果を聞いた時、僕は新作を書き始めたところだったんです。一日でも多く生きて、完結させたいです』
ベッドの上で、当時の立体型パソコンを叩く彼の真剣な姿に、彼自身の声が重ねられる。
カメラがアップして、彼のパソコンに向ける眼差しを映す。頭の中の物語を著そうと、指は滑らかに動くのと突然止まるとを何度も繰り返していた。
『千花岬が書き始めたのは、小学四年生の少年が同級生の少女との交流を通して、成長していくという内容の小説だった』
ナレーションの一言で、画面は少年と少女の漫画のような絵に切り替わる。
ここから、彼の現在書いている小説の紹介になっていくようだった。
どんな感動的なアニメや映画を見ても、感情移入ができなくて全く泣けないため、周りから「ロボット」と呼ばれる少年は、新学期から新しいクラスメイトの少女のことが気になっている。
彼女は、嬉しい時も悲しい時も、怒りを感じた時も泣いてしまうという、少年とは正反対の性格をしていた。
『この小説の舞台は、僕の故郷がモデル、というよりイメージして書いていますね。海の見える片田舎なんです。人が少ないわけではないけれど、どこか閉鎖的で。彼らは、そこでは少し浮いているという設定ですね』
彼の説明とともに、数名の絵で小説の内容が説明される。
一人一人が育てている花が、少年のだけ枯れているのを見て、我がことのように涙を流している少女の絵が印象に残った。
夏休みの日、少年は家族でキャンプへ出かける。
一人で虫取りをしようと山の中へ入っていった彼は、迷子になってしまい、日が暮れるまでにキャンプ場まで帰れなかった。
『この場面で、執筆は一時中断された。抗がん剤による治療が始まったためだった』
また男性のナレーションで、画面は彼の病室へと切り替わった。ベッドで眠ったまま点滴を受けている彼を、奥さんが窓辺側に置いた椅子に座り、心配そうに眺めている。
この別の日には、彼は袋の中に嘔吐をしていて、奥さんが泣き出しそうな顔でその背中をさすっていた。
『苦しいのは確かですけど、書けないのはこのせいだけではないんです』
ベッドで横になった彼が、カメラに向かって弱々しく説明する。
『この先、遭難した主人公は人生で初めて死を意識します。その場面が、どうしても自分自身と重なってしまい……』
一度溜息をついた彼は、視線を病室の白い天井に漂わせた後、決意したかのように続けた。
『治療が一段落したら、故郷の海を見に行こうと思っています』
そして場面は、彼の故郷に帰ってきた冒頭へと戻る。
防波堤の上に登って、彼は奥さんと一緒に白く輝く海を見ている。治療を開始してから、初めて見せる笑顔が、彼の口元に浮かんでいた。
『僕は今まで、故郷のことがあまり好きではありませんでした。友達がいなくて、毎日毎日本を読んでいて、大きくなったらここから出ていきたいと思っていたくらいです』
青く眩しい水平線へと、小さな漁船が進んでいく。海は凪いでいて、風も穏やかだった。
『でも、海はずっと変わらないですね。これまでも、ずっとずっと先の未来も、地球を巡り続けていくのかと思うと、穏やかな気持ちになれます』
カメラは、そう語る彼の横顔を切り取る。
様々な皺の刻まれた頬を緩ませ、目線は真っ直ぐに海を、そしてそこから続く時間の流れを捉えていた。
私は、ここで一度画面の停止ボタンを押した。喉が渇いてきて、一度水を飲もうと思ったからだった。
だけど、すぐには立ち上がれなかった。これまで受けてきた情報の整理したかった。
ここまで映し出されてきた、彼の生活に心がざわついているのが分かる。映像タイトルが示している通り、彼のこの先の運命は知っていても、見届けるには覚悟がいることだと思い知った。
それから、彼が執筆中の小説のことも気にかかった。紹介されている内容を見る限り、私は読んだことがないので、この先はどうなっていくのだろうか。
ずっと同じ姿勢だったので首元に手を当てて、左右に曲げてみた。
指先で、自分の脈が流れているのを静かに感じていた。
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