【兄の考察〈1〉】

 聞かせたいことがありすぎる私は兄が帰宅をするなり祖父との会話の件を話し始めた。

 急かされるように手洗いとうがいを済ませると冷蔵庫から赤ワインの小瓶を取り出し、リビングのソファーに兄はゆっくりと腰掛けた。

 何事にもバタバタしない兄らしい動作だ。


「なるほど・・・・まさかの話だね」

「ね、ほんとビックリした。おじいちゃんからあんな話を聞かされるなんて思ってもいなかったし」

「確かにビックリだね。コウジ君、か・・・・そんな存在がいたとはね。微塵も気がつかなかったよ」

「私も」

「しかも家の中にまで入れてたって・・・・信じられないよ」


 言うなり兄は首を振った。

 無理もない。

 祖父の話を疑っているわけではないが、私もまだ完全には信じられない。

 そして、信じたくもない。


「でも、そうなると母さんがいきなり家出をしたのは僕の件が直接原因じゃなかったことになるのか・・・・」

「違うよね、たぶん。きっかけにはなった気はするけどショックを受けて飛び出したってことではないよ。だってお兄ちゃんのことは何も言わなかったし」


 あらためて振り返っても母の残した言葉は『何で今なのよ!』だけ。

 衝撃も文句もののしりも、兄へのそういった諸々の感情は母の口から出ることはなかった。


「にしても父さんのことを大嫌いだと言っていた話はかなりショック・・・・」

「ああ、それは──」

「ね、ショックよね」

「うん、まあ──」

「何? お兄ちゃんはショックじゃないの?」


 単身赴任で今は一時的に離れているとはいえ、私の目には両親の仲は良い方だと見えていた。

 が、兄の何か煮え切らない口調に引っ掛かりを感じ私はその目を覗き込んだ。

 けれど何故か目を合わせてはこない。


「お兄ちゃん?」

「うん・・・・実はちょっと感じたことが、というか見たことがあるというか・・・・」

「見た? 何を?」


 兄の口から出た意外な言葉に私は身を乗り出した。

 すると兄は躊躇の表情を一瞬だけ見せたあと、ゆっくりと言った。


「お母さんがね、お父さんの洗濯物を蹴ってるところ・・・・1度だけ見たんだ」 

「えっ? ほんとに!?」

「うん、ほんと」


 信じられなかった。

 母は父が外で一生懸命に働いてくれるから自分は安心して専業主婦が出来ている、感謝してる、と、事あるごとに私たちの前で口にしていた。

 喧嘩や言い争いも見た記憶もない。

 いわゆる夫婦仲が円満な印象しかない。

 それなのに、母が父の洗濯物を蹴っていた?

 兄が嘘をついていないことは分かるが、その状況が私にはどうしても想像が出来なかった。


「いつ? それ見たのはいつ頃?」

「1年ちょっと前くらいかな」

「1年ちょっと? てことはお父さんが単身赴任に行く前あたり?」

「あ、そうだね、その頃だったと思う」

「どんな風に? 両手がふさがってたから仕方なく足で押してたとかじゃなくて?」


 蹴っていたというより止むを得ず足を使っていたのではないかと、たぶんそうだと思いたい私は尋ねた。

 けれど兄が続けて話した内容は私を黙らせるに十分だった。


「ああ、そういう感じじゃないよ。確かに蹴ってた、スリッパで数回」

「・・・・」

「それだけじゃなくて蹴ったあと踏んづけてもいた」

「・・・・」

「蹴りながら舌打ちもしてたから、声を掛ける雰囲気じゃなかったな・・・・」

「・・・・」


 兄を凝視しながら私は何も言葉を発せずにいた。

 

 蹴ってた、踏んづけてた、舌打ちしてた──娘の目から見ても品が良くエレガントな雰囲気の美形な母のそんな姿は無理矢理に想像しようとしても難しい。

 が、現実的に母は出て行った。

 その行動力を考えれば、私の目にずっと映っていた母親としての言動は母の一面でしかなく、その面以外の違う顔があったとしても不思議はないのかもしれない。

 もとより私や兄が産まれる前の、さらには父と結婚をする前の母の生き方や成長過程などはまったく知るよしもないのだから。


(お母さんて一体・・・・)


 見てはいけないものを見たに等しい気分になり、私は自分の中の母のイメージが次第に崩れていくのを感じていた。


 








 

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渦族【A家乱心】 真観谷百乱 @mamiyan

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