トロッコ問題夢十夜

吟野慶隆

トロッコ問題夢十夜

 こんな夢を見た。

 東西に架かる歩道橋の上に、自分はいた。主桁の下には、南北に、一本の線路が通っている。

 自分のすぐそばには、太った男がいた。南側にある欄干の手摺りの上に、両腕を置くようにして、凭れかかっている。音楽を聴いているらしく、左右の耳に、胸ポケットに入れてある携帯型ミュージックプレイヤーから伸びたコードの先についているイヤホンを挿していた。転寝をしているようで、両方の瞼は閉じられており、半開きになった口の右端からは、涎がわずかに垂れている。

 線路の、砂利地帯の両脇には、緑色の金網が設置されており、さらにその向こう側は、歩道となっていた。老若男女、たくさんの人が歩いている。

 次の瞬間、突然、線路の北方から、トロッコがやってきた。

 上面を持たない直方体の木箱の下部に、車輪を四つくっつけただけのような見た目だ。小さな黒い石ころが、満載されている。向かって右の側面には、ブレーキらしきレバーが取り付けられていたが、まったく作動していなかった。

 線路の南方、橋から遠く離れた所には、ツナギを着た労働者が五人いた。何かしらの作業を、レールに対して行っている。騒音対策のためか、イヤマフを装着しており、トロッコに気づく気配はなかった。

 自分が、この、太った男一人を突き落とせば、トロッコはそれを轢いて停止し、労働者たち五人の命は救われる。そう考えると、彼の背後に回って、両腕を前方に、勢いよく突き出した。

 左右の掌が、どん、と男の背中を突いた。彼は、欄干を乗り越えると、そのまま落下していき、レール上に、どしん、と尻餅をついた。

 それから一秒もしないうちに、トロッコが衝突した。

 男は、南西の方向に撥ね飛ばされていった。轢かれたショックで、首があらぬ方向に折れ曲がっている。もはや、絶命しているであろうことは、間違いなかった。

 トロッコは、彼と激突した衝撃で、車輪が宙に浮いた。レールを外れ、脱線すると、南東の方向へと吹っ飛んでいく。

 貨車はそのまま、砂利地帯の脇に設置されている金網にぶつかり、がしゃあん、と突き破った。そのまま、ちょうどその奥のあたりを歩いていた通行人二、三人にぶつかると、左右に撥ね飛ばした。

 さらには、トロッコは右方に横転した。満載されていた石ころが、吹っ飛ぶ。それらは、さながら弾丸のように宙を進んでいくと、近くにいた通行人十数人に命中し、体のあちこちを破壊した。

 自分は茫然としてその光景を見つめていた。


 こんな夢を見た。

 東西に架かる歩道橋の上に、自分はいた。主桁の下には、南北に、一本の線路が通っている。

 自分のすぐそばには、太った男がいた。南側にある欄干の手摺りの上に、両腕を置くようにして、凭れかかっている。音楽を聴いているらしく、左右の耳に、胸ポケットに入れてある携帯型ミュージックプレイヤーから伸びたコードの先についているイヤホンを挿していた。転寝をしているようで、両方の瞼は閉じられており、半開きになった口の右端からは、涎がわずかに垂れている。

 線路の、砂利地帯の両脇には、緑色の金網が設置されており、さらにその向こう側は、歩道となっていた。老若男女、たくさんの人が歩いている。

 次の瞬間、突然、線路の北方から、トロッコがやってきた。

 上面を持たない直方体の木箱の下部に、車輪を四つくっつけただけのような見た目だ。小さな黒い石ころが、満載されている。向かって右の側面には、ブレーキらしきレバーが取り付けられていたが、まったく作動していなかった。

 線路の南方、橋から遠く離れた所には、ツナギを着た労働者が五人いた。何かしらの作業を、レールに対して行っている。騒音対策のためか、イヤマフを装着しており、トロッコに気づく気配はなかった。

 自分が、この、太った男一人を突き落とせば、トロッコはそれを轢いて停止し、労働者たち五人の命は救われる。そう考えると、彼の背後に回って、両腕を前方に、勢いよく突き出した。

 左右の掌が、どん、と男の背中を突いた。彼は、欄干を乗り越えた。

 しかし、その頃にはもう、トロッコはすでに、主桁の下を通過していた。

 男はひどく驚いたらしく、慌てるどころか、手足を動かすことすら、ろくにしなかった。まるでマネキン人形のように、全身を硬直させたまま、落下していく。

 着地の体勢すら、取ろうとしなかった。顔面から、ど、とレールに衝突する。

 ぐき、という音がした。首が、本来は曲がらないであろう角度にまで曲がった。どさっ、と、一拍遅れて、体が地面に衝突する。しかし、男はもう、微動だにしなかった。

 数秒後、トロッコは労働者たちを轢いた。五人とも、犠牲となった。全員の体が、ばらばらに破壊され、線路のあちこちに吹っ飛んだ。

 自分は茫然としてその光景を見つめていた。


 こんな夢を見た。

 東西に架かる歩道橋の上に、自分はいた。主桁の下には、南北に、一本の線路が通っている。

 自分のすぐそばには、太った男がいた。南側にある欄干の手摺りの上に、両腕を置くようにして、凭れかかっている。音楽を聴いているらしく、左右の耳に、胸ポケットに入れてある携帯型ミュージックプレイヤーから伸びたコードの先についているイヤホンを挿していた。転寝をしているようで、両方の瞼は閉じられており、半開きになった口の右端からは、涎がわずかに垂れている。

 線路の、砂利地帯の両脇には、緑色の金網が設置されており、さらにその向こう側は、歩道となっていた。老若男女、たくさんの人が歩いている。

 次の瞬間、突然、線路の北方から、トロッコがやってきた。

 上面を持たない直方体の木箱の下部に、車輪を四つくっつけただけのような見た目だ。小さな黒い石ころが、満載されている。向かって右の側面には、ブレーキらしきレバーが取り付けられていた。わずかにかかっているようで、きいい、という、甲高い小さな音がしている。しかし、この減速具合では、とうてい、完全停止には至らないだろう。

 線路の南方、橋から遠く離れた所には、ツナギを着た労働者が五人いた。何かしらの作業を、レールに対して行っている。騒音対策のためか、イヤマフを装着しており、トロッコに気づく気配はなかった。

 自分が、この、太った男一人を突き落とせば、トロッコはそれを轢いて停止し、労働者たち五人の命は救われる。そう考えると、彼の背後に回って、両腕を前方に、勢いよく突き出した。

 左右の掌が、どん、と男の背中を突いた。彼は、欄干を乗り越えた。

 男は、ひどく驚いたらしく、慌てるどころか、手足を動かすことすら、ろくにしなかった。まるでマネキン人形のように、全身を硬直させたまま、落下していく。

 着地の体勢すら、取ろうとしなかった。顔面から、ど、とレールに衝突する。

 ぐき、という音がした。首が、本来は曲がらないであろう角度にまで曲がった。どさっ、と、一拍遅れて、体が地面に衝突する。しかし、男はもう、微動だにしなかった。

 その後、トロッコに変化があった。きいいいい、という、甲高いブレーキ音が、どんどん大きくなっていった。それに比例して、スピードも、どんどん低くなっていったのだ。どうやら、もともと浅くかかっていたブレーキが、何かの拍子に、深くかかり始めたようだった。

 そして貨車は、最終的に、完全停止した。それは、男の死体から一メートルほど手前の地点だった。

 自分は茫然としてその光景を見つめていた。


 こんな夢を見た。

 自分は、北方からやってきて南方へと伸びているレールの左、砂利地帯の上に立っていた。すぐ隣には、トロッコが停められている。上面を持たない直方体の木箱の下部に、車輪を四つくっつけただけのような見た目だ。小さな黒い石ころが、満載されている。向かって右の側面には、ブレーキらしきレバーが取り付けられていた。

 南方、ここから数十メートルほど離れたところには、線路を東西に跨ぐようにして、歩道橋が架けられている。その上には、太った男がいた。南側にある欄干の手摺りの上に、両腕を置くようにして、凭れかかっている。音楽を聴いているらしく、左右の耳に、イヤホンを挿していた。

 線路の、砂利地帯の両脇には、緑色の金網が設置されており、さらにその向こう側は、歩道となっていた。老若男女、たくさんの人が歩いている。

 歩道橋からさらに南方、遠く離れた所には、ツナギを着た労働者が五人いた。何かしらの作業を、レールに対して行っている。騒音対策のためか、イヤマフを装着していた。

 自分はトロッコの後ろに立つと、両腕を前方に突き出し、それの背面を、どん、と押した。貨車は、重たそうな見た目であるにもかかわらず、軽やかに発進した。ぐんぐん、スピードを上げていく。

 やがて、歩道橋にいる男が、くる、とこちらを振り向いた。その顔は、最初、怪訝そうな表情だったが、状況を認識するなり、一気に、驚愕に染まった。彼は目を瞠ると、がば、と、こちら側の欄干の手摺りを、両手で鷲掴みにした。

 その後、数秒間、男は、何やら躊躇していた。目を伏せ、視線を、右に左に彷徨わせる。その間も、トロッコはどんどん、進んでいっていた。

 やがて彼は、ばっ、と顔を上げた。だっ、とジャンプすると、欄干を乗り越え、飛び降りる。すたっ、とレール上に着地した。

 それから一秒もしないうちに、トロッコが衝突した。

 男は、南西の方向に撥ね飛ばされていった。轢かれたショックで、首があらぬ方向に折れ曲がっている。もはや、絶命しているであろうことは、間違いなかった。

 しかし、トロッコの勢いは、まったく衰えなかった。高い速度を維持したまま、労働者たちが作業している地点に、突っ込む。

 貨車は、彼らを轢いた。五人とも、犠牲となった。全員の体が、ばらばらに破壊され、線路のあちこちに吹っ飛んだ。

 しかし、またしても、トロッコの勢いは、まったく衰えなかった。その後も、レールを走り続けていった。

 よく見ると、線路は、労働者たちのいた地点より、数メートル先のあたりで、左に大きく、ぐるり、とカーブしていた。それは、百八十度曲がった所で、直線に戻り、こちらに向かって伸びてきていた。そして、自分のいる位置よりも後方にある程度離れたあたりで、また、百八十度カーブして、最終的には、自分が立っている隣のレールに、切れ目なく接続していた。

 そこまで確認したところで、我に返った。もうすでに、トロッコは、こちら側の曲線部を曲がり終えていて、自分から数メートルほど北方に離れた所にまで、やってきていた。

 自分はトロッコに撥ねられた。


 こんな夢を見た。

 質量M[kg]のトロッコが、速度V[km/h]で、線路上を走っている。今、貨車のいる地点から、D1[m]離れた地点に、歩道橋が架けられており、その上には、自分と、太った男がいる。さらにそこから、D2[m]離れた地点では、労働者が五人、作業をしている。

 自分は、労働者たちを助けるために、太った男を橋から突き落とした。トロッコは、彼を轢き、肉体や衣服の破片を車輪に巻き込んだことにより、大きさCの動摩擦係数を発生させた。貨車はその後、速度を落としていくと、労働者たちのいる地点から、ある程度離れた地点で、完全に停止した。

 このとき、トロッコが停止した地点と、労働者たちのいる地点との間の距離を表す式を求めよ。なお、重力加速度はg[m/s^2]とする。


 こんな夢を見た。

 北方からやってきて南方へと伸びている線路の上に、パイプ椅子が、背凭れを南に向けた状態で、置かれている。椅子は、ロープでレールに結びつけられていて、びくともしない。自分はそこに座らされ、これまたロープで縛りつけられて、拘束されていた。

 数メートル前方には、東西に架かる歩道橋があった。線路の、砂利地帯の両脇には、緑色の金網が設置されており、さらにその向こう側は、歩道となっている。

 橋にも歩道にも、たくさんの人がいて、鮨詰め状態になっていた。彼らは、老いていたり若かったり、男だったり女だったり、左右の耳に、胸ポケットに入れてある携帯型ミュージックプレイヤーから伸びたコードの先についているイヤホンを挿している太った男だったり、ツナギを着てイヤマフを装着した労働者だったりした。

 人々は自分に、好奇や期待に満ちた視線を浴びせてきていた。にやにや、と薄く笑ったり、スマートホンのカメラのレンズを向けてきたりしている。

「死ーね、派手に死ね」「ぐっちゃぐちゃになりやがれ。ぐっちゃぐちゃに、だ」「思いっきり、吹っ飛べよー。おれはな、お前が十メートル以上吹っ飛ぶほうに、賭けてんだ」「せいぜい、面白い死に方をしてくれよな、思わず笑っちまうような、さ」

「た、助けてくれ」

 自分は彼らに向けてそう叫んだ。しかし彼らは、くすくす、げらげら、ひーひー、と笑うだけだった。

「助けてくれ、だってよ」「馬っ鹿じゃねえの。助けるわけないだろ」「物真似しまーす。『助けてえーっ、うえーんっ、お母ちゃあんっ』」「おおーっ。似てる似てる」

 次の瞬間、突然、線路の北方から、トロッコがやってきた。

 上面を持たない直方体の木箱の下部に、車輪を四つくっつけただけのような見た目だ。小さな黒い石ころが、満載されている。向かって右の側面には、ブレーキらしきレバーが取り付けられていたが、まったく作動していなかった。

「おーっ。来たぞ来たぞ」「いよっ、待ってました」「轢けっ。撥ねろっ。ぶっ飛ばせっ」「ミーンーチ、ミーンーチ」

 自分は、この場から逃げ出そうとして、必死に体を捩った。しかし、拘束は頑丈で、抜け出せそうな気配など、まったくなかった。

 その後、数秒が経過した後、トロッコに衝突された。

 自分は、南西の方向に撥ね飛ばされていった。いつの間にやら、パイプ椅子だのロープだのといった拘束は消えていた。数十メートル吹っ飛ぶと、砂利地帯に、ずしゃあっ、と着地する。それから、ごろごろごろごろ、と、しばらく転がった後、停止した。

「が、がはっ……」

 自分は、生きていた。しかし、手足は、あらぬ方向に捻じ曲がっていたり、途中で千切れていたりしていた。口の中には、鉄の味がする生温かい液体や、酸っぱい味がするひりひりした液体などが広がっている。何かしらの臓器の破片が転がっているのが、視界の隅に見えた。

「ええーっ……」

 失望の声が、あたりからいっせいに聞こえてきた。

「なんだよ。死なねえのかよ……」「つまんねーの……」「ちゃんと死ねよ……空気読めないのかよ……」「くそっ……首が飛ぶほうに賭けてたのに……負けちまった……」

 その後も人々は、不平不満を言い続けた。しばらくすると、一人、また一人と去っていき、数分のうちに、誰もいなくなってしまった。

 自分は茫然として空を見つめていた。


 こんな夢を見た。

 東西に架かる歩道橋の上に、自分はいた。主桁の下には、南北に、一本の線路が通っている。

 自分のすぐそばには、太った男がいた。和服を着て雪駄を履き、頭には大銀杏を結っている。北のほうを向いた状態で、腕を組んで、仁王立ちしていた。

 線路の、砂利地帯の両脇には、緑色の金網が設置されており、さらにその向こう側は、歩道となっていた。老若男女、たくさんの人が歩いている。

 次の瞬間、突然、線路の北方から、トロッコがやってきた。

 上面を持たない直方体の木箱の下部に、車輪を四つくっつけただけのような見た目だ。小さな黒い石ころが、満載されている。向かって右の側面には、ブレーキらしきレバーが取り付けられていたが、まったく作動していなかった。

 線路の南方、橋から遠く離れた所には、ツナギを着た労働者が五人いた。みな、顔立ちの整った、美少女ばかりだ。何かしらの作業を、レールに対して行っている。騒音対策のためか、イヤマフを装着しており、トロッコに気づく気配はなかった。

「むう。何やら嫌な予感がして、歩道橋の真ん中で立ち止まってみたら」男は再度、むう、と唸った。「これはいかん。なんとかせねばいかんでごわす」

 彼は、「とうっ!」と叫んで、跳躍した。欄干を軽やかに飛び越えると、レール上に、すたっ、と着地し、そのまま、脚を屈める。いつの間にやら、和服を脱いで裸足になっており、豪勢な締め込みを着用していた。

 それから一秒もしないうちに、トロッコがやってきた。

「どすこいっ!」男はそう叫ぶと、突っ張りを繰り出した。

 トロッコは、彼の攻撃をもろに食らった。猛スピードで前進していたのが嘘であったかのように、進行方向を百八十度反転させて、後ろへと吹っ飛んでいった。しばらくして、砂利地帯に着地すると、どがしゃあん、という音を立てて横転し、満載していた石をあたりに巻き散らした。

「はっはっはっ!」男は脚を伸ばして、高らかに笑った。「これにて、一件落着でごわすな!」

「きゃあーっ! すごいですうっ!」

 そんな、黄色い声が上がった。男が振り向くと、そこには、線路の先で作業をしていた美少女五人が、いつの間にやら、やってきていた。イヤマフは消失している。

「ありがとうございますっ! おかげで命が助かりました!」

「あなたのおかげです! ありがとうございます!」

「あの、今、彼女っていますか?」

「いや! いてもいいわ! 二号でいいから、私を彼女にしてくださいっ!」

「なら、あたしは三号よ! 抱いて! 抱いてください!」

「落ち着くでごわす、落ち着くでごわす」男は再度、はっはっはっ、と笑った。「そんな焦らんでも、おいどんは逃げんでごわすよ」

 自分は茫然としてその光景を見つめていた。


 こんな夢を見た。

 東西に架かる歩道橋の上に、自分はいた。主桁の下には、南北に、一本の線路が通っている。

 自分のすぐそばには、太った男がいた。南側にある欄干の手摺りの上に、両腕を置くようにして、凭れかかっている。音楽を聴いているらしく、左右の耳に、胸ポケットに入れてある携帯型ミュージックプレイヤーから伸びたコードの先についているイヤホンを挿していた。転寝をしているようで、両方の瞼は閉じられており、半開きになった口の右端からは、涎がわずかに垂れている。

 線路の、砂利地帯の両脇には、緑色の金網が設置されており、さらにその向こう側は、歩道となっていた。老若男女、たくさんの人が歩いている。

 次の瞬間、突然、線路の北方から、トロッコがやってきた。

 上面を持たない直方体の木箱の下部に、車輪を四つくっつけただけのような見た目だ。小さな黒い石ころが、満載されている。向かって右の側面には、ブレーキらしきレバーが取り付けられていたが、まったく作動していなかった。

 線路の南方、橋から遠く離れた所には、ツナギを着た労働者が五人いた。何かしらの作業を、レールに対して行っている。騒音対策のためか、イヤマフを装着しており、トロッコに気づく気配はなかった。

 自分が、この、太った男一人を突き落とせば、トロッコはそれを轢いて停止し、労働者たち五人の命は救われる。そう考えると、彼の背後に回って、両腕を前方に、勢いよく突き出した。

 左右の掌が、どん、と男の背中を突いた。彼の体が、前方に揺れた。

 しかし、欄干に、どしん、と衝突したせいで、落下は免れられた。男は、いてててて、と呟くと、腹の、ぶつけた箇所を擦りながら、くる、とこちらを振り向いた。

「なんだ、お前……喧嘩売ってんのか?」彼は、ぐるり、とあたりを見回した。「……ははあ、さては、おれを線路上に突き落とし、トロッコに撥ねさせることで、停止させようとしたんだな。ふざけやがって! こうしてやる!」

 男は、憤怒に満ちた目で自分を睨みつけてきながら、そう叫んだ。

 抵抗する間もなかった。彼は、しゅばっ、と、こちらに手を伸ばしてくると、がし、と、自分の両腕、脇の近くを掴んだ。そのまま、宙に持ち上げると、ぽいっ、と、歩道橋の下に放り投げた。レール上に、どしん、と尻餅をつく。

 自分は茫然としてトロッコがやってくるのを見つめていた。


 こんな夢を見た。

 東西に架かる歩道橋の上に、自分はいた。主桁の下には、南北に、一本の線路が通っている。

 自分のすぐそばには、太った男がいた。南側にある欄干の手摺りの上に、両腕を置くようにして、凭れかかっている。音楽を聴いているらしく、左右の耳に、胸ポケットに入れてある携帯型ミュージックプレイヤーから伸びたコードの先についているイヤホンを挿していた。転寝をしているようで、両方の瞼は閉じられており、半開きになった口の右端からは、涎がわずかに垂れている。

 線路の、砂利地帯の両脇には、緑色の金網が設置されており、さらにその向こう側は、歩道となっていた。老若男女、たくさんの人が歩いている。

 次の瞬間、突然、線路の北方から、トロッコがやってきた。

 上面を持たない直方体の木箱の下部に、車輪を四つくっつけただけのような見た目だ。小さな黒い石ころが、満載されている。向かって右の側面には、ブレーキらしきレバーが取り付けられていた。わずかにかかっているようで、きいい、という、甲高い小さな音がしている。しかし、減速の度合いはとても小さく、かなり長い時間をかけないと、完全停止しそうにない。

 線路の南方、橋から遠く離れた所には、ツナギを着た労働者が五人いた。何かしらの作業を、レールに対して行っている。騒音対策のためか、イヤマフを装着しており、トロッコに気づく気配はなかった。

 自分が、この、太った男一人を突き落とせば、トロッコはそれを轢いて停止し、労働者たち五人の命は救われる。そう考えると、彼の背後に回って、両腕を前方に、勢いよく突き出した。

 左右の掌が、どん、と男の背中を突いた。彼は、欄干を乗り越えると、そのまま落下していき、レール上に、どしん、と尻餅をついた。

 トロッコが、やってくる。よく見ると、さきほどよりも、減速の度合いが大きくなっていた。この調子なら、彼は轢いてしまうだろうが、その先の労働者たちの所には、到達しないだろう。

 そして、それから一秒もしないうちに、トロッコが衝突した。

 彼は、上下半身を轢断された。貨車のブレーキや車輪が、体液だの臓器の破片だのに塗れた。

 途端に、トロッコが減速をやめた。太った男を轢いた時点でのスピードを維持し始めたのだ。車体が、彼の肉片を浴びたせいで、あちこち滑りやすくなり、制動機がまったく効かなくなってしまったに違いなかった。

 その数秒後、トロッコは労働者たちを轢いた。五人とも、犠牲となった。全員の体が、ばらばらに破壊され、線路のあちこちに吹っ飛んだ。

 自分はトロッコに撥ねられた。


「よし、こんなところかな……」

 そう呟いて、おれはテキストファイルを上書き保存した。

 おれは今、安アパートの一階にある自宅で、「トロッコ問題夢十夜」という小説を書いている。現在、九夜目まで書き終わったところだ。

「さて……十夜目、どうしようかなあ?」

 そう呟くと、おれは椅子から立ち上がって、窓に近寄った。部屋は長方形で、東辺の中央付近に、ノートパソコンを載せたテーブルが、西辺の中央付近に、窓がある。

 縦二メートル、横三メートルはある、大きな枠だ。しゃーっ、という音を立てて、カーテンを開ける。

 アパートは、なんとかいう工場と隣接していた。敷地の境界線を示すフェンスは、見るからにぼろぼろで、人力でも破壊できそうなほどだった。

 仕切りの奥、ここからまっすぐ数十メートルほど離れた所には、蒲鉾型の建物がある。それの中央には、出入り口が備え付けられており、そこから線路が一本、こちらへと伸びていた。

 レールは、フェンスを越えてすぐのあたりで、おれから見て右方に急カーブしている。ときおり、トロッコが、建物の中から現れては、手前に向かって走ってきて、カーブを進んでいっていた。この風景を眺めているうちに、「トロッコ問題夢十夜」という小説のプロットを思いついたのだ。

「うーん……とりあえず、適当に何か、書き出してみるかな……そのうち、ネタ、思いつくかも……」

 おれはそう呟くと、椅子に戻った。心持ち背筋を伸ばすと、ノートパソコンのキーボードに、両手の五指を添える。

 直後、どがしゃあん、という音が、背後から聞こえてきた。おれはびっくりして、ばっ、と、勢いよく後ろを振り向いた。

 その時にはもう、脱線して吹っ飛んだらしいトロッコが、フェンスと窓ガラスを突き破った後で、おれは成す術なく撥ねられた。


   〈了〉

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