後悔
三郎は、京の寺にしばらく滞在した後、天王寺砦へ向かって、歩を進めていた。
結局、盗まれた馬がみつかるわけもなく、新しい馬を買うこともなんとなく憚られて、徒歩で帰ることにした三郎は、街道をゆっくりした足取りで歩いていた。
盗まれた馬を、一益が可愛がっていたことを考えると、その足取りは重い。
しかし、責任はすべて油断した三郎にあった。
この度の手柄と引き換えにしてでも、許しを請う他はない。さすがに、手打ちになることはないだろう。
先程までは、すれ違う旅人にも遭遇していたが、いつの間にか、人気がなくなっていた。道には、風に揺れる木々の、わずかなざわめきだけが聞こえる。
三郎は、そのざわめきを感じながら、石山本願寺での日々を思い出していた。
今にして思えば、あっという間の数か月であった。
頼廉やその家族、二助など、下間家の人々の顔が脳裏に思い浮かぶ。ついこの間まで近くで見ていた人々の姿が、すでに懐かしい面影となって思い出される。
その居心地のよかった世界は、すでに過去のものとなり、今は頼廉に対する贖罪の気持ちだけが残った。
それもいずれ、薄れていくのだろう。
すべては、淡雪のように消える夢であった。
(いつの間にか、夏も近いな)
頬に感じる風は、夏の気配を漂わせている。その風は、雑賀の潮風を思い出させた。
(……そういえば、夏にも十ヶ郷に行くと約束したな。闇に舞う蛍を撃つとか)
もう果たされることのないであろう約束を、十ヶ郷の情景と共に三郎が思い出した瞬間、その時はやってきた。
衝撃で半身が弾かれるのと、その衝撃が耳の奥に響くのは、同時であった。
咄嗟に狙撃されたことを理解した三郎は、焼けるような痛みに腹部を押さえる。
遅れて火縄銃の爆発音が響く。
押さえた手のひらは、おびただしい血にまみれていた。
三郎は、腹が破裂しているのではないかと思い、確認のため視線を落とそうとしたが、体に力が入らず、そのまま前のめりに倒れた。
その地面に、血だまりが広がる。
(……これはやはり、死ぬのか)
それは、ひどく現実感のない感覚であった。
(もう一度、もう一度……)
仰向けに転がった三郎は、何とか立ち上がろうとしたが、体に力が入らず、ただただ意識が遠のいていく。その薄れゆく意識のなかで、無意識に念仏をとなえようとしたが、途中で唇を強くかんでそれをしなかった。
遠く、烏の鳴き声が聞こえた気がした。
その手は二度三度と宙を舞い、地面に落ちた。
天王寺の戦いの結果、織田勢の石山本願寺包囲は、さらに強固なものとなった。
これ以後、本願寺勢が野戦にでることは、難しくなった。固く、本願寺の防御網を守るしかなかったのである。
しかしそれでも尚、石山本願寺は頑強であった。
その本願寺の頼みの綱は、やはり大坂湾からの補給である。
信長は、この制海権を得るために、水軍派遣の準備を進めていた。
そんな織田方の水軍の進出を、本願寺や毛利が傍観するはずはない。海上の補給路をめぐる両軍の激突は、必至の情勢となっていた。
京から伊勢に戻っていた一益も、信長の命を受け、休む間もなく船の建造を急いでいる。
三郎は、忽然と姿を消した。
京の寺を発って以降、その消息は杳として知れない。一益は、甚兵衛とともに探索をしたものの、結局見つけることができず、信長の命が下ったこともあって、伊勢に戻らざるを得なかった。
(やはり、望みは薄いか)
甚兵衛は、三郎を探し続けている。
しかし、三郎消息を絶って一か月余り、その甚兵衛からの連絡もない。
その道に通じる甚兵衛ですら、その痕跡をみつけられないということは、やはり秘密裏に殺された可能性が高いと思わざるを得ない。現に一益達は、苑也に成り代わっていた秀吉の間者らしき男を、痕跡を残さず葬り去っているのだ。
(やはりやったのは、筑前の間者か)
怨恨であるならば、その可能性が一番高いだろう。
しかし、単純にそうとも言えない。客観的にみれば雑賀衆も本願寺も、織田の間者として潜入した三郎に、恨みを抱いていてもおかしくはないのだ。
とはいえ、どれも決定的な証拠はない。
結局、三郎の遺体すら見つからない以上、すべては推測の域を出ないのだ。
(こんなことになるなら、間者などさせるべきではなかったか)
一益はそんな後悔とともに、三郎が初めて滝川家にやってきた時のことを、思い出していた。
三郎は、滝川家に仕えていた奉公人の子、ということになっていたが、実はそうではなかった。
一益が信長に仕え始めてしばらくたった頃、、一人の女が幼子を連れてやってきた。
その女は、その数年前、一益が尾張と堺を行き来している時に知り合った、堺の商人の娘であった。
一益と娘は深い仲であったが、当時の一益は、信長の家臣として重用され始めていた頃であり、それまでの己の身軽さを抑え、腰を据えて仕えなければならない転換の時でもあった。
それ故、一益とその女の縁は切れていたが、尾張までやってきて久々に再会した女は、腕に抱く幼子を一益の子だと言って、連れてきたのである。
女は一益に、子を育てることができなくなった旨を告げ、その子を一益に預け、姿を消してしまった。
困った一益は、信頼できる奉公人に事情を説明し、その子として育ててもらうことにした。
もちろん、一生である。奉公人はいくらいても、無駄にはならない。
一益はその子が、自分の子であるという話を信用していなかったのだ。
しかしその幼子、つまり三郎が長ずるにつれて、自らに似た部分があることに気づいた一益は、己の子であることを確信するようになった。三郎を、憐れだと思うようになっていったのである。
しかし、己の子だと認めるには、時が経ちすぎていた。
そこで一益は、手柄を立てさせ、それをもって三郎を自らの養子にしようと考えたのである。
そういう意味では、今回の信長の命は正にうってつけと言ってよかった。
一益は、己の血を引いているならば、必ずやこの任を全うするであろうと確信していた。事実、三郎はよくやった。これは、準備をした者の落ち度なのだ。
すべて責任は、一益にある。その事実は、重い。
そしてもう一人、責任を感じている男がいる。
その男、牧野甚兵衛は、今も三郎を探している。
甚兵衛は、一益と三郎の関係を知っていた。おそらくあの男は、三郎の骨のひとかけらでも見つけないかぎり、二度と戻ってはこないだろう。
(儂も、歳をとったな。此度の三郎のことは、こたえたわい)
さすがのこの男も、子に先立たれるのはこたえた。
自室で肩を落とす一益の目の前には、三郎が手に入れたあの茶碗がある。
戦いは、まだまだ続く。
信長の戦いは、対石山本願寺で終わることない。天下は畿内にとどまらず、信長が全国を平定するまで、先は長い。
信長に忠実なこの男が、茶の湯に没頭できるのは、まだまだ先になりそうであった。
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