ヒトラーの「慈悲」
鮪
第1話 ヒトラーの慈悲
ヒトラーの「慈悲」
4,479,700人。ナチ(Nazi)がヨーロッパ各地で虐殺したユダヤ人の数である。史上数多く行われてきた悲惨なジェノサイド同様、その実数は分かっていない。これは百人単位まで詳細に記されている一つなので冒頭に挙げてみた。或いは300万人とも600万人とも推定されている。巷には「全ては灰に帰した」と伝わり、「ヨーロッパのユダヤ人の半数は殺された」とも言われている。例えばドイツ国内で18万人、ポーランドでは実に250万人もの人々が無慈悲に殺された。一人一人の命は尊い。その多寡を比べ論じたりすることは失礼であるが、やはり尋常ではない。
その元凶とされたヒトラーやナチの成り立ちを簡単に振り返ってみよう。
オーストリアの税関吏の子として生まれたヒトラーは、第一次大戦では移住先のドイツ軍に身を投じ、伍長として出征した。除隊後、僅か25名により1919年1月5日に結成された『ドイツ労働者党』に、55番目の党員として入党する。翌20年2月24日に発表された党綱領(25カ条)で、経済・教育等の政策理念の他に、ドイツ労働者党は、
①ドイツ民族の食糧供給と過剰人口の移住のために、領土と土地(植民地)を!
②信仰のいかんを問わず、ドイツ人の血統をもつものに限り民族同胞たることができる。従って、ユダヤ人は民族同胞たることを得ない。
③国家の全人口を満たすことが不可能な場合は、他の諸国民に属するもの(非国家市民)はドイツ国から追放されるべき。
④我々の内外におけるユダヤ的唯物主義的な精神に対して抗争する。
などと謳っていた。そうして「ドイツ国の強力な中央集権の創設」を目指して、「ドイツ全国およびその組織一般の上に超越する、政治的中央議会の無制限な権威」を要求した。ヒトラー個人が要求したのではない。(ドイツ労働者)党が、その結成当初からそれらの実現を目指していたのである。
『党実行委員会』にみられるヒトラーの職業は「画家」、その役職は「宣伝係長」であった。
この綱領発表の直後、『ドイツ労働者党』は『国家社会主義ドイツ労働者党』と改称された。党内では、合法的議会主義のドレクスラーに敵対する急進的なヒトラーが、1921年7月29日、党の全権を握る。ヒトラーは翌22年6月から7月迄「暴行」で投獄され、プロイセン(政府)始め国内各地でナチが禁止される動きもあったが、同22年末には『ドイツ社会党』が合流するなど、ナチズムは深く静かに浸透し、着実に勢力を伸ばしていく。
ドイツは第一次大戦の敗戦処理がらみから極度のインフレ(1兆倍とも言われる)で混乱の極みにあった。それでも1928年(1926年頃〜)には戦前を上回る経済復興も果たすのだが、それ以前に起きた農業恐慌や、引き続き29年10月24日に始まる世界大恐慌は、時代をみるみる沈ませてゆく(ドイツでは1930年末の失業者が400万人を数えた。33年のアメリカの失業率は史上最悪の24.9%に達し、銀行の倒産件数は4,004件に及んだ)。
1923年11月8日、ヒトラーはバイエルン州政府の転覆を企てたが失敗、「暴動(反逆罪)」で再び投獄されるが、判決は「禁固5年」と甘かった。実際はもっと甘い僅か9カ月後の、翌24年12月20日に保釈。とは言え党機関紙は発禁処分となり、ヒトラー自身も演説を禁止された。しかしその「甘さ」と相俟って、事件は逆にヒトラーを「英雄」に仕立て上げたのである。
1925年2月27日にヒトラーは党の再建民衆大会を開き、かつて蹴落としたライバルと同じ合法的政権獲得という180度の転換に踏み切る。こうして僅か4年後の29年には党員18万人近くまで膨れ上がり、翌30年9月14日の総選挙で107議席を獲得、第2勢力にまでのし上がる。32年4月10日、保守・帝政派のヒンデンブルクが1,940万票で大統領に再選されるが(1925年4月ワイマール共和国第2代大統領に当選した国民的英雄の元軍人)、ヒトラーもそれに迫る1,340万票を獲得していた。
1932年7月31日、ナチはついに(608議席中)230議席を獲得、第1党に躍り出る(ちなみに共産党は89議席で第3党)。翌33年1月30日、大統領は不本意ながらヒトラーを首相に任命した内閣誕生。ヒトラーは直ちに国会を解散させた。投票1週間前の「国会炎上事件」を「共産党の陰謀」と喧伝して共産党を選挙から離脱させ、同33年3月5日、その結果議席を230から288に伸ばして、共産党(81議席)を除く「過半数」を「獲得」したのである。同年3月23日、ヒトラーは全権賦与法を可決させて、ユダヤ人排斥、第2党の社会民主党禁止、新党新設の禁止など明瞭な独裁を進めた。翌34年8月2日、ヒンデンブルク大統領の死去に伴い、ヒトラーはドイツ国総統となる……。
この一連の独裁化を許した要因の一つが、その後の各国憲法に大きな影響を及ぼしたワイマール憲法の「大統領緊急命令発布権(48条)」であると言われている。
ヒトラーがムッソリーニに『ニーチェ全集』を贈ったほどニーチェの「超人」「権力への意志」思想の影響は大きいと言えるが、ここでは彼が総統に到る「合法」の歩みを見て欲しい。そこには熱狂的に支持した「大衆」がいる。『アウトバーン(高速道路網)』の建設始め、失業を減らし、生活の向上を計り、公害を規制し、教育や養老制度にも尽力した「実績」がナチを支えたことを忘れてはならない。
更にユダヤ人の虐殺は、彼が属したドイツ労働者党(後の『国家社会主義ドイツ労働者党』=ナチ)の結党時点で既に考えられ得る理念が最悪の事態に進んだ結果であったとも言える。
ここまで長々と書いてきたが、実は「ヒトラーの慈悲」の本当の主題は「ユダヤ人の虐殺」ではない。知って頂きたいのは以下の事実。
20万人以上の人が殺された(公式のT4計画については「70,273人」という数字が残されている。裁判文書には12万人、ニュルンベルク戦争犯罪弁護団事務局に勤め調査した博士は「275,000人」が殺されたと推定したが、やはり実数は不明)、「障害者」が抹殺された「安楽死」計画(事務所がティアガルテン通り四番地にあったことから「T4」計画と呼ばれた)なのである。
かつて1929年の党大会で、ヒトラーは「毎年100万人の子供が生まれ、70万から80万人の最弱者を取り除けば、結果として(国)力は増大するだろう」と演説した。そして1939年9月1日(ポーランド侵攻=世界大戦開戦の日。「それ」が戦時措置であることを強調して)、ヒトラーは次の命令に署名した(実際は9月末だったが「9月1日」と記された)。
「帝国指導者フィリップ・ボウラーと医学博士カール・ブラントに、人知では治癒不能と判断される人間に対して、病状の最も慎重な診断の上に安楽死がもたらされるよう、指名される特定の医者の権限を拡大する責任を与える」
当時にも少なからずあった「保護者」による安楽死希望…希望でなく、その実行を追認しただけともいわれる「安楽死」。先のブラントによれば「殺人命令ではなかった」、あくまでも医者の「判断」に委ねられたという「安楽死」。
殺されたのは、施設に収容されていた「精神障害者」、「重度の障害者」、「結核患者」、「知的障害者」。別の方法も為されたが、この時用いられた「ガス室(シャワー室)」が、後の「ユダヤ人虐殺(最終解決)」に適用された。…孤児院や青少年療養施設の入所者なども判定の対象とされ、さらに「非行」、「性的倒錯」、「反社会的行動」、「混血児」、「政治犯」、「養護施設の老人」、「東方労働者」なども含まれていった。
1941年夏、ヒトラーはこの「安楽死」(最終的医学援助)計画を突如中止する。だが、現場の医者による「執行」は続いた。もともと「障害」という曖昧性に根ざすいわれない「差別」であったが、末期は「無差別殺人」の様相を呈していたという。
ヒトラーが政権を握った1933年、「遺伝病子孫予防法」(断種法)が公布される。「医学的経験から判断して、その子孫が肉体的、精神的欠陥を受け継ぐ可能性が非常に高い場合には、遺伝病者は外科的手術(断種)が与えられることができる」という内容である。
1933年7月14日から39年9月1日までの記録によれば、375,000人が断種された。その内訳は、「先天性知的障害」203,250人、「精神分裂症」73,125人、「てんかん」57,750人、「重度アルコール中毒」28,500人、「躁鬱病」6,000人、「遺伝性聾」2,625人、「遺伝性重度身体奇形」1,875人、「遺伝性盲」1,125人、「小舞踏病」750人、である。手術に携わった関係者は「守秘義務」を負い、「断種」についての言及(冗談)には「刑罰」が課せられるなどの「配慮」がみられたが、38.6%の人が手術を強制された(37.3%は「患者」が「合意」し、残りは法的保護者が「合意」したとされる)。むろん対象者を特定するそもそもの「調査」からして杜撰であり、「遺伝」に関する医学的根拠はあまりにも薄弱だった。
アーリア人種を至上とし、ドイツの「腐敗・堕落」全ての責任を「ユダヤ人」に負わせたヒトラーは、彼が獄中で著した『わが闘争』で繰り返しそれらの「思想」を述べている。
「劣等」を排除し、「純粋」「優生」であるべきこと。この単純な二項対立の図式は混乱したドイツを「救う」筈だった。「虐殺」はドイツ人の「幸福」の為になされ、「不治の病人に、絶えず他の健康な人々に感染する可能性を許しているのは中途半端である。これは、一人に苦痛を与えないために、百の他人を破滅させるような人道主義と一致する。欠陥のある人間が、他の同じように欠陥のある子孫を生殖することを不可能にしてしまおうという要求は、もっとも明せきな理性の要求であり、その要求が計画的に遂行されるならば、それこそ、人類のもっとも人間的な行為を意味する。」(1924年獄中で口述筆記され、翌年以降に出版された『わが闘争』より)
そのように説くヒトラーは、まさに「慈悲」の人物であった……。「偏見」と「差別」を生む源は、時代の「背景」に密着し、「他者」を想い案じていると身勝手に信じる倒錯した「自分」より迸る「慈悲」ゆえに、根が深く抜き難い悲惨を生み出し続けている。
〈参考文献〉
『改訳わが闘争』(アドルフ・ヒトラー著)黎明書房/平野一郎・将積茂共訳、『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』(ヒューG.ギャラファー著)現代書館/長瀬修訳、『リウスのパレスチナ問題入門』第三書館/山崎カヲル訳、『ドキュメント・コミック大恐慌』(石ノ森章太郎著)徳間書店、『ニューディール』(新川健三郎著)近藤出版、ほか
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