(短編)メドゥーサ

乙訓書蔵 Otokuni Kakuzoh

メドゥーサ




「だからごめんて」


 テーブルの対面で両手を合わせ、頭を垂れる物書きにメドゥーサは鼻を鳴らした。深い森の一軒家ではそんな小さな音もよく響いた。


 摘出した魔眼の代わりに嵌めた焚火色のガラスの瞳が物書きを冷たく見下ろす。支配者メドゥーサの名を冠する通り、鷲のように獰猛な眼付きだった。


「悪かったって。ホント悪かった。すんごく悪かった。もう二度とやらない」


「……もういいわよ」


 その一言を呟いた途端、物書きは瞬時に顔を上げた。節穴の眼窩を下向きの三日月にしてケロリと笑む。


 現金な奴。短い溜め息を吐いたメドゥーサは頭部を搔き上げる。そこに髪はなく、無数の蛇が蠢いていた。


 おさげ猫のブラックティーを呷った物書きは首に下げていた金のチェーンを摘まむ。


「でもBに会えるなんて幸運だったよ。北の街に行商に出たら広場で店広げてるんだもん。工房じゃ販売してないし行商も神出鬼没なのにファンが沢山付いてるんだもん。向こう五年分のツキ使った筈だわ」


「ふうん」


 売れない物書きにメドゥーサは行商を頼んでいる。庭の花を育てる以外に彼女は刺繍が得意だ。リボンに刺繍を施した物やブローチ、クルミボタン等を作っては物書きに渡している。花を観察し、それをモチーフに刺繍にした作品が割と人気があった。物書きは調子に乗り易く馬鹿だが美術品には理解がある。故に彼女の作品の販売を自分の本と共にしていた。出不精のメドゥーサはその売り上げで細々と暮らしていた。


 物書きは首に下げていたチェーンを外すとガラスのペンダントを木製のテーブルに載せた。金のチェーンの先には小さなぶどうが成っている。大魔女キルケーの口紅を偲ばせる赤や焚火色、蜂蜜色、黄昏れの空色の粒が柔らかな午後の日射しを反射する。光が宝石のように笑う。ログハウスの壁に光の粒が舞う。


 メドゥーサの胸はさざめいた。


「綺麗でしょ?」瞬きを忘れてガラスのぶどうを見詰めるメドゥーサに物書きは問うた。


 小さな溜め息を漏らしたメドゥーサは視線を上げずに頷いた。


「宝石かと想った。でも生き物みたいね。……ディオニュソスのぶどう園の茜ぶどうみたい。様々な色の粒が重なって……光を受けて表情を変えるわ」


 物書きは鼻息を漏らすと得意げに笑う。


「そうでしょ? 噂には聞いてたんだけど実物見ると驚いちゃって『ああもう。今直ぐ欲しい! 絶対欲しい!』と想ってさ。だけど持ち合わせが無いからメドゥーサの作品と交換して貰ったんだよ」


「あんたの本と交換して貰いなさいよ」両腕を組んだメドゥーサは眉を顰める。


「売れない本と交換しても微妙だろうよ」


「それもそうね」


 凡才を肯定された物書きは唇を尖らせた。


「世話になってるからあんたの非常識な振る舞い、今回は特別に眼を瞑ってあげる。でもあたしの作品を交換したのは不味かったわ。ぶどうの方が高価よ。噂以上の品よ。これじゃ不公平だわ」


「でもメドゥーサの作品に儂の本付けても足りないじゃん。それに貰っても嬉しくなかろうよ」


「それもそうね」


 物書きは奥歯をぎりりと噛み締めた。





 翌朝、花壇に水をやるとメドゥーサは黒いローブを纏いフードを目深に被り、ラタンの籠を片手に家を出た。刺繍のリボンやボタン、財布が入った籠に春の泉で汲んだ水を入れて深い森を歩く。ガラス作家のBに直接会うのは無理にしても、ガラスのぶどうの代金を渡したいと想った。物書きから工房の住所を聞いたので軒先に刺繍ハンカチに包んだ代金を置いておこう。そう思い立ち、家を後にした。


 踏みつけた落ち葉がスナック菓子のように鳴る。


 メドゥーサは人目を忍んで暮らしていた。元は美しい乙女だったが高慢故に罰が当たり女神アテナに蛇の頭に青銅の手と言う異形の姿に変えられた。そればかりではない。見た者を石化させる魔眼に変えられた。故にひっそりと西の果ての洞窟で暮らしていた。


 退治の名目で勇者ペルセウスに首を切り落とされてから、メドゥーサはあの世でもこの世でもないこの島で暮らしている。魔術師である島主の計らいによって魔眼を摘出されガラスの義眼を嵌めているが、魔眼の呪いは眼窩にまで及んでいる。顔を見た者を石化させる。従ってこの島でも人目につかない深い森でひっそり暮らしていた。


 広大な森故に樹の洞で少し休んではまた歩く。


 日が大分昇って来た。フードに日が当たるので頭が汗ばむ。先程まで蠢いていた蛇もダレて来た。


「もう少し我慢してねお前達」


 レースのリボンを付けたリーダー格の蛇が激励に応え、長い舌を覗かせる。顔を上げたメドゥーサは愛しい相棒に微笑んだ。


 すると視界に人が入る。


 瞬時に顔を伏せた。しかし付近に石像があった事を想い出す。


 それでも動く気配が無いか、と耳をそばだて空気の流れを肌で感じてから顔を上げる。意を決し石像の方向を見遣る。


 石像はやはり石像であった。


 メドゥーサは胸を撫で下ろした。


 人が立ち入る事が少ないこの森でも誰かに会わない訳では無い。以前、立ち入った猟師に見られて石に変えてしまった。眼窩が節穴の売れない物書きは別だ。アレは肉眼がない故に石化しない。あったとしても大層な馬鹿なので美しい物を感じ取れても醜い物を醜いと感じられないのだ。


 それが孤独なメドゥーサにとって救いだった。友人と呼べるのはあの物書きだけだ。


 しかしいやに暑い。秋だと言うのにまだ夏の名残がある。石像で冷や汗をかいたし、瞬時に顔を伏せたので蛇達に大分負担を掛けてしまった。


 メドゥーサは溜め息を吐くと辺りを見回す。大丈夫。人影はない。


 フードを脱ぐと籠からボトルを取り出し、頭の蛇達へ掲げてやった。


「ほら。疲れたでしょうお前達。お飲み」


 蛇達は行儀よく順番にボトルから水を飲む。白いレースのリボンを巻いた蛇は他の蛇が水を飲むのを穏やかな瞳で見詰めていた。


「いい子ね。ジャンニ」


 ジャンニと呼ばれたリボンを巻いた蛇が最後に水を飲むのを見届けると、メドゥーサもボトルに口を付けた。


 喉を潤していると視界の端が黄金に輝く。メドゥーサは煌と光る方を見遣る。


 その刹那、焚火色のガラスの瞳が見開いた。


 木陰に男が居た。石像ではない。生きている。幹に手を添えてこちらを見詰める男は右手に金色の鎌をぶら下げていた。


「ひっ」


 小さな悲鳴を上げたメドゥーサは両手で顔を覆う。ハルパーに違いない。籠とボトルが木の葉の絨毯に落ち、乾いた音を立てた。


「あ。ごめん。驚かせた」鎌を見下ろした男は謝る。


 しかし血の気が失せ、歯の根が合わないメドゥーサは聞く耳を持たない。踵を返すと無我夢中で来た道をひた走った。





「ほーん。それで工房まで行けなかったって訳ね」


 ツベコベ社製の月光豆の珈琲に口を付けつつ売れない物書きは呟いた。


 向かいの席に座し、小刻みに震えるメドゥーサはこっくりと頷いた。また顔色が蒼白になった。蛇のジャンニがガラスの瞳まで降りて来て主人を案じる。


「怖かった。金のハルパーを持っていたんだもの」


「ペルセウスに首を搔っ切られた時の得物でしょハルパーって。鎌みたいなヤツだっけ?」


 眉を下げたメドゥーサはこっくりと頷く。


「噂を聞きつけた男が退治に来たのよ。だって以前……不本意だけど猟師を石に変えちゃったもの。迂闊だった。人気の無い森に急に入って来るものだから……ただひっそりと暮らしたいだけなのに」


 物書きは珈琲を胃の腑へ送り込む。すると眼窩から三日月のシルエットが浮いた五線譜の湯気がソナタの音階で漂う。


「そいつ眼玉あったんでしょ? 義眼でもない生身の眼玉。見たのかな? 見たら面白いな」


 メドゥーサは焚火色のガラスの瞳を潤ませる。


「見たとは想えない。だって肉眼で見たら猟師みたいに石化するもの」


「でも強くてニュータイプじゃん、ニュータイプ氏は」


「そんなの知らないわよ!」


「まあ仮定の話だ、息巻くな。ニュータイプ氏は見て石化しなかったとしよう。更には何か言おうとしてたんでしょ?」


「知らない。全速力で走ったもの。何か聞こえたけど内容まで気にしてられないわ」


「『待て』とか『殺す』とか?」


「そんな短い言葉じゃなかった気はする。ごちゃごちゃ言ってたけど無我夢中で走ってたから分からないわ」


「うーん……。だったらニュータイプ氏には敵意なかったんじゃないかな?」


「なんでそんな事想うのよ?」


 物書きは息を吹くと湯気を霧散させる。


「だってさ、ペルセウスがメドゥーサの寝首掻いたみたいに何も言わずに首を掻き切ったほうが早いじゃん。逃げたのを追うにしても長い口上は述べないと想うな。馬鹿丸出しじゃん」


「そりゃそうだけど……。ペルセウスにはあっという間に殺されたから何とも言えないわ」


「だったらニュータイプ氏、敵意無かったんじゃないの?」


「じゃあ何でハルパーなんてぶら下げてたのよ。首搔っ切ろうとしてたんじゃないの?」


「知らんがな」


 メドゥーサは長い溜め息を吐く。


「あんた……本当に物書き? 物書きなら深い所まで想像してよ。その為に相談してるのに……」


「ネタの提供としてしか聞いてないよ」


「あ、そう」


 鼻を鳴らすメドゥーサを余所に物書きは呟く。


「しかしさ……殺すつもりなら探しに来ないかな? あれから森歩いた?」


「歩く訳無いでしょ! 猟師を石に変えた時も半年は出られなかったわよ!」


「ビビリ屋で出不精だね」


 鼻を鳴らしたメドゥーサは物書きのカップに指を掛けると珈琲を飲み干してやった。





 数日後、メドゥーサは再び家を出た。


 ハルパーを持った男と遭遇してから庭の花に水をやるのも怖かった。家の側に湧く春の泉で水を汲む事さえも恐ろしかった。しかし男を恐れBへの礼を怠るのは義に反する。それに馬鹿な物書きの揶揄いに屈するのは口惜しかった。


 メドゥーサは奥歯を噛み締める。しかし直ぐに歯が浮く。


 歯の根が合わない主人を案じたジャンニが目深に被ったフードから顔を出す。彼はにょろり頬へと垂れ下がった。


「大丈夫……。大丈夫よジャンニ。隠れていらっしゃい」


 声を震わせたメドゥーサは微笑を作る。


 懸命に取り繕うとするメドゥーサにこれ以上労を掛けてはなるまい。心配だったがジャンニは大人しくフードに潜った。


 籐の籠を強く握り締めたメドゥーサは道無き道を進む。しかし途中、ハプニングに出くわした。茨に囲まれた道を黙々と歩いていると衣が裂ける高い音がした。そればかりではない。生地を引っ張られる感触もする。瞬時に肩をすくめて驚いたメドゥーサは振り返る。ローブをいばらに引っ掛けた所為で少し破いてしまった。


 眉を下げたメドゥーサは茨からローブを外す。しかし不用意に手を伸ばした所為で手首に切り傷を作った。青銅の手と白い腕の境目から鮮血が流れる。


 するとメドゥーサの脳内に衣を裂く音が再び響いた。いや、ローブが裂けた分ではない。そして衣を裂く音でもない。響いたのは醜いメドゥーサを見て石化する人間達の悲鳴だった。


 瞬時にメドゥーサは耳を塞ぎ、その場に踞る。


「ご……ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」


 森中にメドゥーサの悲痛な叫びが響く。しかし衣を裂いた音にも似た悲鳴に頭を支配されたメドゥーサの耳には決して届かない。


 もう責めないで。もう怖がらないで。もう醜いなんて想わないで。


 歯の根が合わなくなったメドゥーサは白い頬に幾筋も涙を伝わらせた。顎を伝った涙はぽたり、と枯れ葉に落ちる。


 聞き慣れた音にメドゥーサは我に返った。


 山吹色の落ち葉に見慣れた物が落ちている。秋の陽光を浴びた涙の粒は鋭く光り、怯え泣き腫らすメドゥーサを逆さに移す。


 メドゥーサは唇を引き結び、涙を拭う。


 涙は嫌い。ただでさえ醜いのに泣きはらして余計に醜くなった自分を映すから……。逆さの世界を映しても真実を……醜さを見せるから。


 洟を啜り、立ち上がったメドゥーサは自らが逆さに映った涙を踏み潰すと先を急いだ。





 散々な目に遭った。しかし先日と違い今日は誰にも会わずに森を出られた。


 フードを目深に被り直したメドゥーサはディオニュソスのワイナリーを目指した。白亜のワイナリーの隣にBの工房は在る。どちらの建物も広大なぶどう畑に埋もれていた。ワイナリーが有する広大なぶどう園を通らなければ工房へ辿り着けない。


 ぶどう園の手前にある休耕期の麦畑を通る。疾うに夏の麦が刈られていたが禿げ上がった畑の所々に無色透明の麦が生えていた。栄養価が低いので商品にならずにそのままにされている物だ。


 一見変わっているから、価値が低いからと仲間外れにされる色の抜けた麦は自分のように惨めだった。麦を横目で見遣りメドゥーサは鼻を鳴らすと麦畑を抜けぶどう園へと入る。


 黄昏れ色、パステルカラー、南国の海を偲ぶ色……様々な品種のぶどうがディオニュソスのぶどう棚から下がっている。島で広く飲まれるスタンダードなワインに使用する茜種、春の訪れを祝う頃にスパークリングワインとして醸造する花冷え種、庭先で陽光を楽しむ季節に冷やして楽しむカリビアンブルー種……様々なぶどうがメドゥーサの横をかすめる。


 メドゥーサは広大なぶどう畑をひたすら歩く。しかし足取りは軽かった。麦畑もぶどう園も人の気配が全くない。フードはずっと被っていなければならないが、これなら気が楽だ。


 人と遭遇せずにメドゥーサは工房まで辿り着いた。ぶどう棚に隠れて遠目からは分からなかったがガラス造りの煙突からは煙が昇っている。どうやら在宅しているらしい。気付かれにように代金を置いて立ち去らなくては……。


 刺繍を施したハンカチに包んだ金貨をガラス製のポーチに置いた。すると背後から足音が響いた。瞬時に肩をすくめたメドゥーサはフードを目深に被り直した。


 俯き踵を返すと白い頭が見えた。女の拳大程の頭がメドゥーサの大腿あたりにあった。随分と背が低い。


 ブラウニー(妖精)だろうか?


 人にしてもブラウニーにしても視線を合わせてはいけない。命を奪ってしまう。メドゥーサはフードの裾を引っ張ると何も言わずに立ち去ろうとした。


 しかし白いブラウニーにローブを引っ張られた。


 驚いたメドゥーサは思わず振り返ってしまう。瞬時に瞼を強く瞑るがブラウニーの美しい顔を見てしまった。ガラスのような瞳にちっぽけな自分が映っていた。自分とは違う美しい面立ちが残像となり、瞼に焼き付く。


 また……また石に変えてしまった。命を奪ってしまった。


 眼窩の奥と鼻の奥がツンと熱くなる。唇が震え、全身から力が抜ける。メドゥーサはその場に崩れ落ちると嗚咽を上げた。


 すると工房の扉が開いた。


「泣き声が聞こえたと想ったら……どうしたの?」


 メドゥーサはBらしき人物に声を掛けられた。しかし悲しみの底に沈む彼女の耳には届かない。


 ポーチで踞るローブ姿の女にBは狼狽える。


「一体どうしたの?」


 白いブラウニーに問うと声を発せない彼は身振り手振りで事を説明した。彼はポーチに置いた紙袋を指差し、メドゥーサを指差し、そしてローブを引っ張る素振りをした。


「……そう。入って貰おうと引き止めようとしたのね。そうしたら泣いてしまった」


 白いブラウニーは頷いた。


 Bは屈むとローブを纏った女の肩に手を添えた。突然人の手を感じたメドゥーサは驚いて肩を跳ね上げた。


 眉を下げたBは背を優しく擦ってやる。


「私の人形がポーチで踞る貴女を見て心配したの。驚かせてごめんなさい」


 メドゥーサは首を横に振る。


「あたしも……ごめんなさい。もう大丈夫だから……心配しないで」


「工房に用があっていらっしゃったのでしょう? 中で伺うわ」立ち上がったBはメドゥーサに手を差し伸べた。


 フードを目深に被り直したメドゥーサはガラスの床に置いたハンカチを手に取る。そしてそれを差し出す。


「あの……これ。以前北の街で物書きが刺繍とあなたのガラスのぶどうを交換したって……。それで……あんな刺繍じゃ素敵なぶどうの値段にそぐわないと想って……代金を」


 フードを目深に被ったメドゥーサをBは見詰める。見覚えのある刺繍だ。以前物書きから代金の代わりに貰った刺繍の小銭入れを想い出した。


「もしかしてあの時の物書きさんのお友達の……もしかしてメドゥーサさん?」


 メドゥーサはこっくり頷いた。


「素敵な作品を謙遜なさらないで。折角いらしたんですし工房をご覧になって下さいな」


「でも……あたし……醜いし、魔眼の呪いであなたを石に変えちゃう」メドゥーサはフードの裾を引っ張った。


「姿形なんて関係ないわ。美しい物を作り出す人はみんな美しいもの。私は石になんて変わらない」


「無理よ……そんなの。だって森に入った猟師があたしを見て石に変わったもの」


 Bはメドゥーサの青銅の手を取る。


「でも物書きさんは石に変わらないでしょう?」


「アレは……馬鹿だから。他人の作品を勝手に売り払う程にあさはかだもの。何も見えていないのよ。……それに義眼すら嵌めてないし」


「自分の作品よりもあなたの刺繍の方が価値あるからって。物書きさんはちゃんと『見えている』わ。……『交換して欲しい』って言われた時には他人の作品だし驚いちゃったけど。ちょっと変わった人ね」


 Bは淑やかに笑むとメドゥーサのフードを上げた。


 驚いたメドゥーサは眼を見開く。すると眼前に透明な女が微笑んでいた。女の向こうの風景が透けて見える。いや透明と表するのは些か言葉が欠ける。女は無色透明のガラスだったのだ。銀箔が舞いダイヤモンドダストを偲ばせるガラスの瞳は光を湛え、髪の一本一本が豊かな色彩で肩に流れている。作業服である黒いエプロンは銀箔を纏いスノーグローブのようだった。ガラスの国の心優しい女王が膝を折り、迷子に下問をしていると言った所だ。


 ああ。ガラスの義眼だから石化しないんだ。Bの美しさにメドゥーサは声を失った。


「ほら。石に変わらないでしょう? ガラスで出来ているなんて驚くわよね」Bは微笑んだ。


 太陽の光を浴びて輝くガラスの肌に心奪われたメドゥーサは溜息を漏らす。


「綺麗……」


「貴女と一緒よ」Bは立ち上がった。


 メドゥーサは首を横に振った。そんな訳が無い。美しいガラスで出来た女と蛇や青銅で出来た女を並べたら誰しもが前者を選ぶ。


 しかし眉を下げて首を横に振るメドゥーサをBは見ていなかった。ドアを押さえると工房へ招く。


「お茶を用意します。どうぞリビングへ」


「そんな……悪いわ」


「一区切り付いたから休憩しようと想っていたの。付き合ってくれると嬉しいわ。さっき蒸留したワインから作ったブランデーケーキをディオニュソス様から戴いたの」


 Bは人形が抱える袋を見遣ると言葉を続ける。


「とても美味しいの。フォークが止まらなくなるくらいに。一人で食べたら太っちゃう。貴女が手伝ってくれると嬉しいんだけど」


 メドゥーサは視線を彷徨わせたが小さく頷いた。





 どうにも落ち着かない。


 姿を変えられて以来、メドゥーサは他者の家に邪魔をする事はなかった。それも一つの理由だがもう一つの理由の方が大きいだろう。


 ブランデーケーキとリラ種のぶどうが載ったガラステーブルを囲み、メドゥーサは紅茶に口を付ける。向かいではBが微笑みつつブランデーケーキを口に運んでいる。十五分前からティータイムを始めたがBのフォークを持つ手は止まらない。


 メドゥーサが紅茶を飲み干す度にガラスポットを携えた人形が茶を注ぐ。しかし大分水腹だ。それに幾度も脚を組み直しては誤摩化していたが膀胱が限界に近い。


 苦笑したメドゥーサを察した人形がトイレの方向を指差した。


 小声で礼を述べた彼女はトイレへ向かった。


 リビングへ戻る途中、メドゥーサは工房である一室を見つけた。開きっぱなしのドアから中を窺う。すると強い光に目が眩んだ。頭痛を覚えた程だ。瞬時に瞼を強く瞑ったメドゥーサは恐る恐る薄眼を開ける。思わず声を上げた。


 無数のガラスのぶどうが天井から吊り下げられていた。その様はぶどうの驟雨だ。ディオニュソスのぶどう園同様、様々な色合いのぶどうがシルバーやゴールドのチェーンの先に成っていた。


 茜色、黄昏色、氷雨色、新雪色を始め木の玩具を偲ばせる色、血を水に滴らせた色、北の街のイルミネーションを偲ばせる色、風花を閉じ込めた色、春を言祝ぐ色……。常人では考えつかない色のぶどうが窓から差し込む光を受けて白い壁に微笑を反射させる。


 ガラスの囁きに耳を澄ませたメドゥーサは瞼を閉じる。瞼越しに光が揺れるのを感じた。何処からか花の香りも漂った。


「綺麗でしょう?」


 声を掛けられメドゥーサは振り向いた。微笑を浮かべたBは工房に入ると、吊り下がるぶどうを手にする。


「旅行が趣味なの。旅先で心に焼き付けた風景や人との出会い、その時々に湧き上がる感情……それをぶどうにしているの。工房を頻繁に空けるからお店を持たなくて……少しだけぶどうを持って行って旅先で売ってるんです。……お客さんは『世界が広がる。もっと欲しい』って言ってくれるんだけど沢山作ると荷が重くなるし……それに販売がメインだとそれに夢中になって人から学べる事が少なくなっちゃう。色んな人に触れて人の世界を広げるお手伝いをするのが私のモットーなんです」


「ファンが沢山いるなんて羨ましいわ」メドゥーサは寂しそうに微笑んだ。


 しかし謙遜しているのかぶそうに夢中なのかBは他人事のように流す。


「みんなガラスが好きなんですね。とても嬉しいです」


 Bは無色透明のガラスのぶどうを手に取ると光に翳し、世界を見上げる。


「ガラスを通した光……ううん、光を通したガラスって素敵。透明ガラスを覗くと世界が逆さまになって不透明ガラスを覗くと真実が映る……不思議の国に居るみたい。みんなを不思議の国へ招待出来ればなぁって。ガラスと人を繋ぐ……私は案内人なんです。特にこの透明ガラスはお気に入りなの。みんなに愛して貰えればなぁ」


 自分とは心根が違う……だから愛されるのだろう。メドゥーサは自らを鼻で笑った。するとBが眺めるガラスのぶどうと視線が合った。無色透明のガラスのぶどうは粒にメドゥーサを逆さに映し、見詰め返す。


 ああ。涙にそっくり。


 ガラスのぶどうは茨にローブを引っ掛けた時に流した涙を偲ばせた。


 憎い。潰してやりたい。負の感情がメドゥーサの胸に渦巻く。しかし涙にも似たガラスのぶどうを愛しげに見詰めるBを眺めていると不思議とドス黒い感情は浄化した。


 Bに促されたメドゥーサは不思議なガラスのぶどうに手を伸ばす。青銅の掌に乗った無色透明のぶどうは南洋の海を偲ばせる緑青色に変わる。


「綺麗……」メドゥーサは思わず溜め息を吐いた。


 きっと深く愛し愛されているから、涙にも似たこのぶどうはこんなにも美しいのだろう。涙を憎く想っていた私でさえ欲しくなる。


 こんな素敵なぶどうやその作者に比べ私なんて……。


「……ガラスも好きでしょうけど、みんな貴女が大好きなのよ。ガラスと同じくらいに。……他人の手伝いをするなんてなかなか出来ない事よ。そんな優しさが作品からも感じられるわ」


 Bは照れ臭そうに微笑む。


「それ……良かったら貴女に差し上げるわ」


 眼を見開いたメドゥーサは掌のぶどうを見遣るとBを見詰める。


「貰えないわ」


「無色透明はお嫌い? ガラスの原点で自信作なんだけど……」Bは眉を下げる。


 メドゥーサは想いきり首を横に振る。


「綺麗よ。素敵よ。でもそんな問題じゃなくて……。売り物だし沢山のファンを差し置いてそんな……」


「試作なの」


「足りない金額分を返しに来たのに貰うだなんて」


 メドゥーサの遠慮を余所にBは無色透明のガラスのぶどうを愛しげに見詰める。その瞳は恋い焦がれる少女のように純粋だ。


「どの色の組み合わせも好きだけど……お気に入りはこれ。コップや窓なんかのガラス製品を見ていると無色透明ってありきたりに見えるんだけど……全然違うの。人や風景の色を取り込む懐の深い色なんです。優しい涙みたい」


 メドゥーサは寂しげに微笑む。


「優しい涙? 涙は悲しい物じゃなくて?」


「優しいから涙は流れるの。嬉しくて流れる涙もあるけど多くは人を傷付けたくないから……優しい人は怒る代わりに涙を流すんです」


「……よく分からないわ。でも最高の表現だと想う」


「そうでしょ? 素敵なぶどうでしょ?」Bはメドゥーサの顔を覗き込む。


「ええ。でも材料費が馬鹿にならないわ」


 どうしても首を横に振らないメドゥーサにBは微笑むと自らの髪を一本引き抜いた。様々な色合いの髪が生える頭皮から青い髪が離れた瞬間、なよやかな髪は硬化した。青いガラス棒へと変化したのだ。


 声を失い青いガラス棒を見詰めるメドゥーサにBは悪戯っぽく笑む。


「こんな理由があって材料費はタダなの。掛かると言ったらサラマンダー・バーナーの煙草代かしら?」


 Bの視線の先にはサラマンダーが短い脚を組み、作業台で寛いでいる。片手で抱けそうな程に小柄なサラマンダーはシガーを咥えていた。先には炎のように水が灯っている。花煙草だ。


「工房がポプリみたいな香りで満たされるのは良いんだけど、彼ってヘビースモーカーだから一日二箱も潰しちゃうの。煙草代が馬鹿にならなくて」Bは眉を下げた。


「花煙草って所謂紙巻きのドライフラワーでしょ? 手作りしたら費用おさえられそう」


「作ろうと想えば作れるけれど……ぶどう農園が広がるここでは難しいの。それにもう冬になるわ。年中棚から吊り下がるディオニュソス様のぶどうとは違ってお花が育ち難い季節よ」


 メドゥーサは焚火色の瞳をぐるりとまわして考える。『人の為』と作品を生み出すBの為に何かして上げたい。どうすればいい?


 すると頭からジャンニが降りてメドゥーサを窺う。


 ……そうよね、ジャンニ。春の泉で花畑を作れば良いわね。あそこなら年中温かいから常に花が咲くもの。庭の花壇よりも広い花畑を作ればいいわ。花をポプリにして紙で巻いて……。優しいBに応えたい。


 花煙草を受取って貰う事を条件にメドゥーサはガラスのぶどうを貰う事にした。





 春の泉の側で土を耕して種を蒔き、メドゥーサは花煙草用の畑を整えた。力仕事をこなすメドゥーサの額に汗が流れる。首から下げたガラスのぶどうが陽の光に照らされ、汗と共に光る。メドゥーサが首の筋肉を動かす度にちゃり、と涼しい音が響いた。


 二月後、生育させた花を摘み乾燥させると紙に巻いた。試作品が数本出来上がったのでサラマンダーに吸って貰おうと、メドゥーサはBの工房まで足を延ばす事にした。


 短期間でこなそうとしたが調香なんて初めてで手間取ってしまった。製作に焦って失敗を重ねてしまった。しかし漸く満足がいく物を作れた。Bとサラマンダーは首を長くして待っているだろう。早く届けなくては。季節が秋から冬に変わってしまった。


 人に見られないよう、また蛇のジャンニ達が寒がらないよう、法螺吹きミンクの毛皮のフードをメドゥーサは目深に被る。潰れないようにと緩衝剤を巻いた試作の花煙草と水マッチ、そしてBと共に楽しむ為に焼いたフーガ梨のタルトタタンを籠に入れて家を出た。


 毎日広い花畑をいじっていた所為か体力が付いた。休まず歩める。三十分程歩くと石化した猟師の前に辿り着いた。メドゥーサは白い息を弾ませる。……春の泉がある家の周りとは環境が大分違う。空気は肌を斬りつけるし土には霜が降り、滑り易い。


 大丈夫かしら?


 先程からジャンニ達が動く気配を感じられなかった。自分は歩いているから良いものの、頭から離れられないジャンニ達は凍ってしまう。


 フードを脱げない故に手を差し入れて安否を確かめたい所だが、冷たい手にジャンニ達が驚いてしまう。


「急ぐからね。もう少し辛抱しててねお前達」


 メドゥーサは上げていた視線を戻す。すると何者かと視線が合った。男だ。見覚えがある。以前、ハルパーを片手に森に現れた青年だ。


 短い悲鳴を上げたメドゥーサは青銅の手で顔を覆う。籠が地に落ちた。


 青年は何事か大声を上げる。


 しかし恐怖に戦くメドゥーサの耳には届かない。どうしてあたしに付き纏うの? どうしてあたしを傷付けようとするの? どうして? どうして?


 矢継ぎ早に疑問が脳内に湧き出、メドゥーサは混乱する。自分が置かれた境遇と不幸に涙があふれる。


 フードの奥からメドゥーサの白い頬へと伝う涙に焦った青年は駆け寄る。


 殺される……! また斬りつけられる!


 両肩を跳ね上げたメドゥーサは踵を返すと脱兎の如く駆け出した。





 ──でもさ……改めて考えると、殺すつもりなら探しに来ないかな?


 息を切らしログハウスの玄関で踞るメドゥーサの脳内にいつだったかの物書きの言葉が甦る。


 再会したなんて……殺しに来た可能性が高くなったわよね。


 前回はハルパーを持っていたが今回は恐怖が募り過ぎて確認出来なかった。Bに会ってから少々人嫌いは緩和していたものの『男』はやはり怖かった。化け物見たさに近付く浅はかな男達、自分を殺したペルセウス、そしてかつて愛し合っていた癖に化け物に変えられた事により近付かなくなった海神ポセイドン……。神や英雄と呼ばれる男達はいつだって醜い物を排斥して美しい物を尊ぶ。……男達は女達よりも自分を酷く傷付けた。自分を化け物に変えた女神アテナよりも恐ろしい存在だ。


 ドアに背を預け呼吸を整えるメドゥーサを案じたジャンニが主人の顔を覗く。円らな瞳がいつもより不安に潤んでいた。


 ……護らなきゃ自分を……ううん、この子達を護らなきゃ。護れるのはあたししかいないんだもの。


 メドゥーサは首から下げていたガラスのぶどうを握り締める。ちゃり、と涼やかな音が響いた。


 その日は再び青年に会う事は無かった。薪割り用の斧を片手に家の周りを巡回したが出くわす事は無かった。しかし安堵の溜め息を吐いたのも束の間、メドゥーサは花煙草とタルトタタンを入れた籠を猟師の石像の側で放った事を想い出した。


 ……どうしよう。


 出掛けるのは怖い。物書きに捜索を頼みたい所だが南の街へバカンスに行って三月先まで帰ってこない。新しく花煙草を作っても二週間は掛かる。これ以上心根の優しいBを待たせる訳にはいかない。親切にしてくれたBの期待に応えなければいけない。


 探しにいかなきゃ。


 ガラスのぶどうを握り締めたメドゥーサは意を決し、家を出た。


 昨日駆け抜けた道を辿り、眼を皿にして花煙草が入った籠を探す。冬の道と言えども自然に囲まれている為に吹き飛ばされたり、タルトタタンが入っている為に小動物に持って行かれたりする可能性もある。メドゥーサはフードを脱ぐとジャンニを始め、全ての蛇達に捜索を手伝わせた。


「ごめんねお前達。凍えるのを承知で頼むわ。一緒に籠を探して頂戴。Bに渡す大切な物が入っているの」なりふり構ってられない。優しいBの為だ。一刻も早く花煙草を探し当て、届けなくてはならない。


 悲痛な声音を発する主人に寒がる蛇達は頷くと四方八方を見渡し、籠を探し始めた。


 護ろうとしていてもこの子達に護られているのね。


 深い溜め息を吐いたメドゥーサは蛇達が蠢くのを感じつつ、道を注意深く進んだ。


 白い息を弾ませ探し続けるといつの間にか猟師の石像まで辿り着いてしまった。昨日青年に出くわした場所だ。ここに無ければ諦めるしか無い。


 メドゥーサは凍った地に手を突き、血眼になって籠を探した。地に触れた途端、表情が歪む。青銅の指に冬の体温が伝わる。粘膜や口角を容赦なく斬りつける乾燥した空気、靴底を貫き体の芯から凍らせる凍土……全てが嫌になったがそんな事に気を取られていられない。一刻も早く見つけなくては。蛇達が死んでしまう。


 辺りを隈無く探したが花煙草が入った籠は見つからなかった。


 ここで落としていなかったのなら……何処にあると言うの?


 凍土に膝をついたメドゥーサの喉奥と鼻奥が熱くなる。眼窩が絞られるように痛み、涙が込み上げる。


 泣いたってどうしようもないのに……。


 頬を伝う涙を拭う。すると声を掛けられた。


「やっと見つけた」


 驚いたメドゥーサは瞬時にフードを被った。立ち上がって駆け出そうとするが足が冷えて言う事を聞かない。


 声の主……青年は恐怖と寒さに戦くメドゥーサの側で屈むと彼女の青銅の手を取った。


「わ。冷え切ってる」


 殺される。歯の根が合わないメドゥーサは身を強張らせて瞼を強く瞑った。すると青銅の手に軽い物が触れた。


「探してたんだろ? 昨日、君が駆けた時に落していったから……預かってたんだ。霜が降りて濡れるといけないと想ってさ。渡せて良かった」青年はメドゥーサの手を優しく開くと何かを載せてやった。


 優しい声音にメドゥーサは恐る恐る薄眼を開く。青銅の掌にはひしゃげた紙箱が載っていた。花煙草だ。


 青年は話を続ける。


「籠なんだけど……壊しちゃったんだ。ごめん。昨日、あれから君を探していたら霜に足を取られて尻を着いたら潰しちゃったんだ。梨のタルトも潰しちゃって……でも紙箱は緩衝剤に包まれていたから無事だった。よっぽど大切なものだったんだね。その……本当にごめん」


 メドゥーサは首を横に振った。青年は安堵の溜め息を漏らす。


「じゃあね」


 彼は立ち上がると踵を返した。


 落としたあたしを探してくれたの? こんなに寒いのに? 凍土を踏みしめ遠ざかる足音に耳を澄ましつつ、メドゥーサは瞳を見開く。落としたあたしが悪いのに……放って置く事だって出来たのに……。


 礼を言いたい。でも振り向いてあたしを見たら石に変わってしまう。


 メドゥーサは唇と紙箱を握り締める。


 すると心の機微を察したジャンニがフードから降りる。彼は主人の首に下げられているガラスのぶどうのチェーンを咥えた。そして無色透明のガラスのぶどうをメドゥーサの目前に掲げた。


 冬景色から遠ざかる青年の背をガラスが逆さに映す。


 ──透明ガラスを覗くと世界が逆さまになって不透明ガラスを覗くと真実が映る。


 脳内でBの言葉が響き、メドゥーサは呟く。


「……逆さまの世界」


 焚火色の瞳を見開いた。


 もしかしてあたしが見ていたのは逆さまの世界なの? 姿を見られれば石に変えてしまう。醜いから化け物として扱われる。そんなレンズを通して世界を眺めたのは他人じゃなくてあたしだったの? あの青年はあたしに危害を加えようとしたんじゃなくて本当は親切にしようとしてくれたの?


 ……じゃあ一体あのハルパーは何だったのだろう?


 疑問が次々と湧き上がる。しかしその数と同じだけ青年は遠ざかる。小さくなった背が森の樹々に消えかかる。


 もう会えないかもしれない。せめて礼だけはちゃんと言いたい。


 メドゥーサは声を振り絞る。


「待って!」


 葉をつけない裸の樹々の間に声が響く。青年は足を止めると振り返った。


 瞬時にメドゥーサは顔を伏せると青年に向かって小走りする。しかし凍土に足を取られ顔から転んだ。


「大丈夫?」驚いた青年は地に手を突いたメドゥーサに駆け寄った。


「ええ」頬が痛む。しかし傷を確かめずにメドゥーサはフードを目深に被り直した。


 青年は手を差し出た。メドゥーサは狼狽える。やはり敵意は無かった。それどころか親切にしてくれる。彼は立たせてくれるつもりなのだろう。しかし冷たい青銅の手を差し出せない。自分が恥ずかしかった。


「大丈夫。自分で立てるわ」メドゥーサは手に付いた霜と凍土を払い落とすと立ち上がり、膝を叩いた。


 緑青色の金属の手を見詰め、不安げに縮こまる華奢な肩を眺め、青年は眉を下げる。


「顔見せて。傷がついているといけない」


 覗き込もうとする青年からメドゥーサは顔を逸らす。


「傷くらい平気よ」鼻を鳴らすと同時に首から下がっていたガラスのぶどうがちゃり、と鳴った。


「……素敵なぶどうだね。もしかしてBの新作? 無色透明なんて初めて見たよ。転んだ拍子に割れたり傷付いたりしてない?」


 首から下げていたのをすっかり忘れていた。血相を変えたメドゥーサは薄い胸許に下がるガラスのぶどうを手に取ると隅々まで調べた。


「無事みたい」メドゥーサは胸を撫で下ろした。


「要らない心配かけちゃったね。ごめん」


「……それよりもありがとう。わざわざ届けに来てくれたなんて」


「いや、籠もタルトも潰しちゃったし……それに君を二回も驚かせた。礼を言われるモンじゃないよ。……潰したとは言えタルトも食べちゃったし」頭を掻き、青年は照れ臭そうに笑んだ。


 メドゥーサは失笑する。


「尻で潰したタルトなんて食べたの?」


「美味しかったよ。北の街で評判のドラゴネットのケーキよりも美味しかった。フーガ梨がもりもり入って良い香りで……俺、あんなに美味いタルトタタン初めて食べた」


 姿を変えられて以来、男性に褒められたメドゥーサは胸と鼻の奥が熱くなるのを覚えた。


「……上手ね。じゃあ花煙草を返してくれた御礼にタルトを焼くわ。今日はお遣いがあるからちょっと無理だけど」


「わ! 本当? 嬉しい! でも君ってドジだろ? さっきも派手に転んだし。お遣い、付き添うよ」


 親切心から提案しているのだろう。しかしこれ以上長く居てはいけない。優しい者なら尚更石に変えたくない。メドゥーサは首を横に振り嘘を吐く。


「ううん大丈夫。独りで散歩するの好きだから……。それよりもどうしてあの時、ハルパーなんて持ってたの? 驚いて逃げちゃったじゃない」


「ハルパー?」


「ほら……鎌。勇者ペルセウスが化け物メドゥーサの首を搔っ切った武器」メドゥーサの薄い胸がちりりと痛んだ。自分を化け物と卑下するのは慣れていた筈なのに……こんな優しい人の前でそれをするのは辛かった。


「ああ。鎌か。俺、普段ワイナリーで働いてるんだけど偶に麦畑でも働いてるんだ。雑草の透明麦を刈るのも疲れちゃってタンポポを巻いてブーケにして売ってたんだけど……飽きちゃった訳さ。それで仕事する振りして鎌を片手に森に散歩に出たんだ。要はサボったんだよね。そこで君に会って驚かせちゃったんだ。刃物を片手に彷徨いてたら物騒だよね。ごめんね」


「サボってたんだ。悪い人。こんな森じゃなくて友達の家まで行けば良いのに」


「俺、ボッチだからさ」


 青年は舌をちろりと出して笑ってみせる。目深に被ったフードから悪怯れない青年を見遣ったメドゥーサは失笑した。


「あたしと同じね。あたしも友達が少ないの」くすくす、と愛らしい笑い声が裸の樹々だらけの森に響く。


 飾り気の無い春を偲ばせる笑い声に青年は眉を下げていると凍てつく風が吹く。


 強い風はメドゥーサのフードを捲った。視野が広がった刹那、青年の琥珀色の瞳が豊かに輝くのが見えた。メドゥーサは瞬時に手で顔を覆った。


「漸く顔を見せてくれた」青年の柔和な声が森に響く。


 どうして……どうして石にならないの? メドゥーサは広げた指の隙間から覗く。青年は微笑んでいた。


「顔に怪我が無くて良かった。焚火色の瞳がよく映える白くて綺麗な肌だから」


「……まさか……見ていたの?」


「うん。以前森に入った時、君を見たんだ。畑の古い命を焼き、全てを新しくする野焼きのような……神様が宿ったような綺麗な瞳だなって。綺麗な瞳の人だったから……きっと優しい人なんだろうなって。声を掛けたら驚かせて逃げられちゃったけど」


 メドゥーサの白い頬は瞬時に薔薇色に染まる。しかし眉根を寄せた彼女は青年を睨む。


「あなた馬鹿? 黒髪の代わりに蛇が生えているのよ? 見た者を石に変えるのよ? 温かい血が通った手じゃなくて青銅の冷たい手なのよ? それの何処が綺麗なの? こんなに醜くて冷たいあたしのどこが」


「俺、ずっと見てたよ。秋の日は蛇がダレないように水を飲ませてやったり冬の日は蛇が凍えないよう被ったフードに声を掛けたり……蛇を疎ましく想っていたらそんな事決して出来ないよ。愛が深い人なんだなって。やっぱり心まで綺麗な人だった」青年は微笑んだ。


 メドゥーサは青年の顔に手を伸ばす。


「あなた……義眼?」


「いや。視力は大分良い方だけど……どうして?」青年は瞼を閉じた。


「あたしのたった二人だけの友達……石に変わらない友達が義眼だから」メドゥーサは青銅の手で青年の瞼に触れる。指先にほんのりと体温が伝わる。瞼の奥で微かに動く瞳は小鳥のようで愛しく感じた。


「ね? 血が通った眼だろ?」


 青年は徐に瞼を開ける。目前には笑っているのか泣いているのか何とも言い難い表情をしたメドゥーサが指を離していた。焚火色の瞳から白い頬へと涙が伝う。顎にまで伝った優しい雫は自らの重みで落ちると彼女の薄い胸を飾るガラスのぶどうの一粒となった。


                                   了

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(短編)メドゥーサ 乙訓書蔵 Otokuni Kakuzoh @oiraha725daze

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