(短編)金魚

乙訓書蔵 Otokuni Kakuzoh

金魚


「赤は人を狂わすって言うでしょ?」


 安くて下品なホテル特有の擦り切れた赤いシーツに包まった女は呟いた。


 ベッドから早々に抜け出た男は女に構わず身支度を整える。


 女は話の続きを紡ぐ。


「……女は赤い金魚なの」


 男はジーンズに足を通す。


 サイトで出会った行きずりの女だ。液晶画面で確かめた画像とは大分違っていた。年齢も容貌もサバを読んでいた。女は自分より五歳も上だった。しかし釣った魚を喰わずに放るのは哲学に反していた。体を重ねたが具合が大分緩くて後悔した。年を重ねた体なぞ見たくない、と灯りを消して抱いたのが正解だった。二度と会う事はあるまい。返事もおざなりで充分だ。


 魚が水面に向かって気泡を吐くように女は黴がふいた天井を凝視する。


「金魚が赤いのは始めだけ。縁日ですくわれた日から徐々に色が落ちるの」


 女はふーっと溜め息を漏らす。そしてスツールに置いていた口紅を取ると紅を引く。


「色褪せるのにどうして惹かれると想う? ……赤って牛や人を狂わせる色でしょ? 魅力的に見えるのよ。見たら心が狂うの。欲しがるの。だからすくいたくなっちゃう」


 男は苦笑を浮かべる。幼き日、縁日で金魚を一匹すくったのを想い出した。鉢で飼っていたが七日は生き延びた。すくった晩はさくらんぼ色だったのを覚えている。水が濁り、糞が浮き、水中の酸素が尽きかけた六日目の晩、金魚の鱗は見る影も無く白くなっていた。


「……金魚だって女だって花だっていつかは色が落ちるさ」男は呟いた。


「どうして色が落ちると想う?」


「さあね」


「生理よ」天井を見詰めていた女は男を見詰める。


 飛躍した話に面喰らった男は、シャツのボタンをかける手を止め失笑する。面白い女だな。少しは話に乗ってやっても良いかもしれない。


「……随分と赤い話だな」


 女は艶紅を微笑させる。


「生理って命を少しずつ削るの。卵巣に入っていた卵が毎月一粒ずつ無くなるのよ。経血も卵と共になくなるの。赤い血が子宮から出切ったら女は白っちゃけるのよ。ゆっくり色が褪せる。年を取った金魚みたいに。赤は人を狂わすの。赤い色が……血が無ければもう男を狂わせられないわ」


 七日目に死んだ金魚を想い出した男は鼻を鳴らす。


「若くたって死期が近くなれば色が褪せるさ」


「女は毎月よ。生理が来る度に死ぬの」


「死ぬ?」


「ええ」


「さっき『ゆっくり色が褪せる』って言ってたよな? 死に近付くんじゃないのか?」


「そうよ」


「何故?」


「……それは秘密」女は艶紅を歪ませた。




 季節が幾度か巡った。


 男はまだ行きずりのセックスを楽しんでいた。あの女に引っかかって以来、ドジを踏む事はなかった。スマートに遊んでいた。行きずりは後腐れないのでやはり楽しかった。


 結婚なんて男の頭には無かった。今の時代、身を固めなくても家事をこなせる。妻を娶り不貞に走れば法が許さない。不向きな事にわざわざ足を突っ込み破滅する道理はない。故に同じ生活を続けていた。


 容貌や体型は違えども男にとって女は皆一緒だった。流行だの金だの詰まらない話を零し、服の山を前に『着る服が無い』と駄々を捏ね、自らの容貌や人格を棚に上げては他者を批評する……。共に居るだけで吐き気がした。交際する、なんて考えられない。しかしセックスはしたい。ならば割り切った関係が後腐れ無い。


 しかし一方で男はいつか会った『金魚の話をする女』を覚えていた。あんな変わった女、忘れられる筈が無い。行きずりの女が事後に紅を引く様やカフェのテーブルで食後に化粧を直す女を眺めては彼女を想い出した。


 番号だけでも聞いておくんだった。体の関係抜きで話したら面白いだろうと苦笑した。


 その日も男はサイトで知り合った女と駅の外れで待ち合わせをしていた。霧雨が降る晩秋の日だった。


 男の前に現れたのは金魚の話をしたあの女だった。朱い傘を差し、赤いトレンチコートを纏った女はまるで金魚のようだった。


 眉を顰めた男は唖然とする。女の狡猾さにも女の派手な恰好にも。


 女は艶紅を開く。


「金魚、覚えてる?」


 やはり確信犯だ。男は片眉を下げて笑む。


「……二回も引っかかるとはね。君のカメラの腕前には参るな」


「褒めてるの? 貶してるの?」


「両方だよ」


「そう。嬉しいわ」


 悪怯れもしない女に男は溜め息を吐いた。


 しかし胸の中の淀んだ空気を吐き切ると二度も騙された事が一興に想えた。纏わり付く霧雨にも女の悪知恵にも己の愚かさにも清々しさを覚えた。こんなに狡賢い女は初めてだ。今まで抱いた女の誰よりも賢いじゃないか。……金魚の話もあるが『変わっていた』からこそ忘れずに居たのだろう。


 幾ら身をかわしていてもやがてはポイにひっかかる金魚のように万物を霧雨で濡らす曇天のように……天の網からは逃れられないのかもしれない。そう思うと今の生活が馬鹿らしくなった。美しくなくても若くなくてもこんな女なら面白いじゃあないか。


「君は面白いヤツだな」


「この間の秘密だけど聴く?」男を無視した女は問うた。


「……ああ」男は笑みを浮かべた。


「そこの角のカフェに行きましょう」


「いや、カフェはよそう」


「じゃあホテル?」女は小首を傾げた。


 男は女のシトリン色の瞳を見詰めると赤い傘を奪う。


「俺の部屋で聴く」




 程なくして男と女は籍を入れた。


 男は女を面白がった。愛しい、と感じた。


 女は変わっていた。


 大抵の女性が嫌がるであろう臭いのキツいものを好んで食べた。青カビを楽しむチーズを始め、蓋が膨らんだ発酵食品の缶詰、果てはドリアンを買って来てはカットしていた。流石にドリアンの際には同じフロアの住人から苦情がきた。


 壁紙に染み込む様々な刺激臭に男は閉口したが風変わりな女の好みを許した。


 しかし女のある趣味には男は辟易した。月のものの手当に使用したナプキンを溜め込むのだ。大きなサニタリーボックスいっぱいに溜め込むのだ。


 これには男も苦言を呈した。しかし女は『金魚だから』と取り合わない。惚れた弱み故に男はそれ以上強く言えなかった。トイレはいつも腐敗臭と酸っぱい臭いで充満していた。


 嗜好ばかりではない。居を共にしてから気付いたが女の体は変わっていた。


 情事の際に男は灯りを点けて臨むようになった。女はそれを嫌がったが男は灯りを点けた。無理矢理灯りを点けて女を抱いた際、男は驚愕した。女の腹の周りを赤い糜爛が覆っていた。燃える鱗のようだった。隠していた秘密を暴かれた女はシトリン色の瞳に涙を浮かべてブランケットを引ったくった。


 それでも男は女を愛した。緩んだ腹の糜爛さえも愛しく感じた。視力の悪いシトリン色の瞳にも、変わった嗜好にも、あまり感じない体にも、たるんだ腹も色の抜けた髪さえも愛しく感じた。


 女は頻繁に具合を悪くしていた。月のものが来る度に会社を休んでいた。呼吸をする度に糜爛が浮き出た下腹部が痛むらしい。青ざめた表情で下腹を抱え踞った女は『医者を呼ぼうか?』と案じる男に『金魚だから気にしないで』と微笑みかけた。あまり頻繁に気絶するので男は医者を呼ぼうとした。しかし凄まじい剣幕で女に咎められた。以来、男は放って置く事にした。




 幸福な時間は長く続かなかった。


 ある日、青ざめた女がトイレに入った。月のものがきたらしい。朝から具合が悪そうだったがトイレに立ったので男は放っておいてやった。しかし一時間経っても女は出て来ない。


 ドアをノックして安否を問うが女は答えない。


 不安を抱いた男はドアを開けた。すると女が血で汚れた尻を向け倒れていた。


 意識の無い女が視界に入った刹那、酸っぱい臭いが男の鼻腔に広がる。男は臭源である便器を見遣った。そこには長い尾ひれをはためかせた大きな金魚が泳いでいた。……いや金魚ではない。大きな経血の塊が揺らめいていたのだ。


 男は救急車を呼んだ。


 女が診察される間、渇いた喉に貼り付いた舌根にも汗ばんだ手指にも男は気付かず、女をひたすら想っていた。シトリン色の瞳や女の仕草が脳裡に浮かんでは消える。すると頭の片隅で女の声が響いた。


 ──生理になれば女性は一度死ぬの。金魚を生むから。


 ──金魚のように巨大な経血の塊が若さを持って行ってしまうからよ。金魚は子供なの。毎月生まれる忌まわしい子……。


 ──血が出切って白っちゃけた金魚は死ぬしか無い。


 非常灯だけが光るリノリウムの廊下で男は呟く。


「……あの縁日の金魚、どうして死んだんだっけ」




 女は目覚めず死んだ。


 医者に『何故こんなになるまで放っていた』と責められるが男の耳には届かない。白んだ妻の腕を取り、男は想い出した。


 あの縁日の金魚は自分が殺したのだ。


 七日目の朝、親が起きる前に自分で殺した。鉢から取り出し、跳ねる金魚に拳を月下ろしたのだ。弱って行く金魚を思いやって殺した訳では無い。色が褪せ美しくなくなった金魚に立腹して殺した訳では無い。ただ面白いから殺し、だらりとした肉塊を飲み込んだ事を男は想い出した。


 ただ面白いから女と寄り添った。


 ただ面白いから女の性癖を許した。


 それと同様に『ただ面白いから女を殺した』のかもしれない。


 今回も間違いなく自分が殺したのだ。彼女は金魚だったのだ。シトリン色の瞳、下腹部の鱗のような糜爛、そして便器の中で閃く経血……。




 女がこの世を去った後も男はあの時のトイレの水を流せずにいた。


 男は日がな一日、サニタリーボックスから溢れかえった使用済みのナプキンが散らばるトイレで過ごした。トイレのドアは常に開け放たれ腐敗臭が部屋中に漂う。


 鮮血の塊は見る影も無く茶色くなり、やがては黒ずんだ。仕事を辞め、髭も伸びるままにした男は日がな一日、女が生んだ最後の子供である『金魚』を見詰めた。


 周囲の部屋から苦情が入ったらしい。大家が来て『臭い。困っている』と忠告した。しかし男は取り合わず大家を無視した。


 幾度となく大家は苦情を申し立てた。裁判沙汰にはしたくない。費用だって時間だって馬鹿にならない。清掃するか引っ越すかどちらかにしてくれ、と大家は男に詰め寄る。それに切れた男は大家の首を絞めた。


 大家の計らいにより警察沙汰にはならなかったが、男を見る近所の眼は冷たい物に変わった。


 あれだけ拘っていたのにも関わらずある日、男は憑き物が落ちたように清掃をはじめた。部屋に溢れかえった生活ゴミを捨て、生理用品が溢れかえったサニタリーボックスを捨て、壁紙にこびり付いた腐臭を取る為に清掃業者に電話を掛けた。清掃業者が来る前にトイレの『金魚』を流そうとしたが何故か金魚は消えていた。


 清浄に戻った男の部屋に住民や大家は安堵の溜め息を漏らした。


 数ヶ月後、男は新しい女と同棲を始めた。腹に糜爛も無いし男よりも若かったが新しい女の面影は少々『金魚の女』に似ていた。若い頃の『金魚の女』を偲ばせた。新しい女は出しゃばる事無く控えめで賢い女だった。菓子を作るのが得意だった。


 しかし好みは金魚の女と反した。白い服を好んで纏った。男が『赤を着て欲しい。君には赤も似合う』と頼んだが首を縦に振る事は無かった。異臭癖も彼女には無かったし、重い月経や婦人病も彼女には無かった。


 男の昔を知る近所の面々は男の隣で微笑む女を不思議そうに眺めたが、内心小馬鹿にしていた。


 服の話や好みの話になる度に男と女は口論になった。その度に男は『金魚の女』を引き合いに出す。ある日、それに耐えかねた女は暴言を吐いた。


「全部知ってるのよ!」アップルパイを作る為にリンゴの皮を剥いていた女は三徳包丁をカウンターに置く。純白のエプロンにはリンゴの種が付いていた。


「何がだ!」男は女を睨みつける。


「あんた近所で有名な変態男だったってね! 異臭癖があっただなんて!」


「だから何だ!」


「おお驚いた! 開き直るなんてね! そればかりじゃないわ!」


 鼻を鳴らした女に男は眉を顰めた。


 顎を持ち上げた女は男を蔑む。


「あんたが大家の首を絞めたって知ってるのよ!」


 男の顔色は蒼白になった。嫌な笑みを浮かべた女は捲し立てる。


「そればかりじゃない! 前の奥さんを殺したって! 重病を放ったらかして見殺しにしたって! 縁日の金魚みたいに殺したって!」


 嘲笑を浮かべ黄ばんだ白眼に血管を走らせる女を男は睨む。奥歯を噛み締め、握った拳の爪で皮膚を傷付け怒りに堪える。


 鬱憤が堪っていた女は更に追い討ちをかける。しかし怒りに堪える男の耳にはもう届かない。


 男の脳裡に金魚の女の声が響いた。


 ──赤は人を狂わすって言うでしょ?


 ──赤い血が子宮から出切ったら女は白っちゃけるのよ。ゆっくり色が褪せる。年を取った金魚みたいに。赤は人を狂わすの。赤い色が……血が無ければもう男を狂わせられないわ。


 ──金魚のように巨大な経血の塊が若さを持って行ってしまうからよ。金魚は子供なの。毎月生まれる忌まわしい子……。


 ──血が出切って白っちゃけた金魚は死ぬしか無い。


 男の頭の中で何かがぶちんと切れた音がした。


「……あ、かは……る……す」


 ひたすら自分を睨んでいた男が突如発した小声に女は眉を顰める。


「は? 何よ?」


「白っ……ちゃけた……金魚は死ぬしか無い!」


 男はカウンターの三徳包丁を掴むと女を壁に叩き付けた。


 壁に背が打ち当たった衝撃で女は床に崩れる。文句を言おうと顔を上げる。しかし振り翳された三徳包丁と金魚のように煌煌と光る男の黄ばみ血走った白眼が最期の光景となった。


 男は幾度となく女を刺した。


 白いキッチンの壁は大輪の血の花を咲かせ、魚柄のキッチンマットは生理用品のように血溜まりを吸う。


 全てを終えた男は力なくだらりと下げた手から包丁を落とすと金属の音が虚しく部屋に響き渡った。


 男は深呼吸する。


 部屋に充満した懐かしくも酸っぱい臭いを胸一杯に吸い込む。腹に納めた金魚がぴちゃり跳ねるのを感じた。


                                   了


 

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