第5話 読書感想文:ハンチバック

※ はじめに。


 芥川賞受賞作『ハンチバック』についてつらつらと語らせてください。

 この作品には障害者(『ハンチバック』の原文通りに表記しています。本来「害」の字は使用を避けるべき文字なのですが、この作品ではおそらくあえて「障害者」という表記になっているのではないかと感じたため)や堕胎についてなど、一般的にはかなり繊細に扱われる事柄が赤裸々に描写されています。

 以下の文章は障害者を貶めたり堕胎を推奨するものではなく、あくまで『ハンチバック』という1つの作品について論じさせてもらったものになります。

 人によっては不快に感じるかもしれません。

 また、私の読解力不足で明後日の見解になっているかもしれません。


 『ハンチバック』は比較的短い物語となっていますが、それでも考えさせられる本でした。拙作の『読書記録』にも感想を投稿しましたが、もっと掘り下げてみたくなり、こうして筆を執った次第です。


 一読者の感想に毛の生えたようなものではありますが、ご興味持っていただけたなら、しばしお付き合いいただけますと嬉しいです。





                                   

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 主人公の釈華には3つの顔がある。

 ①エロ系こたつ記者、Buddha。

 ②重度障害者女性の愚痴アカのツイッタラー(現X?)、紗花。

 ③『日本では障害者はいないことになっている』が実際にいる障害者、釈華。


 釈華の中でBuddha紗花はネットの人格の『泥』の部分、釈華はリアルの人格の『蓮の花』の部分として完全に使い分けていた。

 ある日グループホームの職員田中に紗花を特定されていたことを知り、田中の前では泥の部分を隠す必要が無いと開き直る。

 対価を払って田中を妊娠堕胎というオプション付きのセラピーに利用しようとするも逃げられ、改めて自身がハンチバックの怪物なのだと認識した。

 そして聖書の引用後、視点がネット上の妄想世界の存在であるはずの紗花に切り替わり(おそらく作中にあった『R18サイトで不定期連載しているワセジョのSちゃんの乱交日記』の文章、もしくはその世界観で文章化はまだされていないでキャラが自由気ままに動いたもの?なのではないかと思われる)、釈華は紗花の兄によって殺されたことになっていた。

 物語のラスト3行は以下の通りだ。

『私に兄などなく、私はどこにもいないのかも。

 泥の中に真白く輝かしい命の種が落ちてくる。

 釈華が人間であるために殺したがった子を、いつか/いますぐ私は孕むだろう。』

 


 Buddhaと紗花のアイデンティティはわかりやすい。

 釈華の欲望や黒い感情の掃き溜めであり、汚い泥としての裏の顔の役割だ。

 しかし、では釈華自身のアイデンティティは、というと難しい。

 所属が欲しくて通信大学生という立場にしがみついていると自嘲したり、親とのやり取りの回想シーンでは子どもの立場に戻っていたり。かと思えば自身をせむしの怪物と嘯いてみたり。

 彼女は作中何度となく自己定義を繰り返す。それらは、ざっと以下の通りだろう。

 ・グループホーム・イングルサイドのオーナー。

 ・グループホーム・イングルサイドの利用者。

 ・慈善事業へふりかけや収入を寄付をする人。

 ・資産家。

 ・通信の大学生。

 ・子のために莫大な資産を残す親の子ども。

 ・重度障害者女性。

 ・産めないが子を孕むことはできる女性。

 ・ハンチバック。(せむしの怪物)

 ・日本ではいないことになっている存在。(『日本では障害者はいないことになっているので』という一文より)

 ・肉体的にも精神的にも社会的にも摩擦を経験したことのない清い女。

 ・潔癖症。

 

 アイデンティティとは他者との関わりの中で形成されていくものだろう。中学2年以降ほぼ寝たきりで閉ざされた生活をしていた釈華は、うまくアイデンティティを構築できなかったのではないか。だから強く所属(または自身の属性?)にこだわるのではないか。

 また、再三引用している『日本では障害者はいないことになっているので』という社会的に透明人間にさせられていることに対しても強いストレスを抱えているようにも見える。『〈お金があって健康がないと、とても清いじんせいになります〉』と皮肉を言っている場面もあるが、釈華には被害者意識や健常者という存在そのものへの嫌悪は感じられない。

 それは彼女の潔癖症が関係しているのかもしれない。


 彼女の潔癖症は母親譲りらしく、古書にあまり触れられないそうだ。

 でも、大学の卒論で古書を回避するのは不可能。だからブックスキャナを購入して自分で本文をデータ化して利用することにした。業者に頼むのは違法だから、自力で。違法性の低さは認識していながら、潔癖症ゆえに業者に自炊の依頼はできないと断じている。

 この場合の潔癖症は、正義感・公平性、あたりの言葉に言い換えることもできるかもしれない。


 グループホームでは空気を読んでおだやかなとして振舞い、理解あるとしてグループホームの他の利用者の要望はできる範囲でなら対応しようとするし(VR購入検討)、グループホームのリーダーにはとしての気遣い(男性職員の入浴介助の快諾)と理解あるとして、ものわかりよく対応する(相手に概ね同意しつつ、ホーム職員の業務の今後の展望に口を出さない。出しても要介護者の釈華には責任が取れないから)。

 収入の全てを寄付にあてがっている。それは、『私がお金をすべて寄付するのは、この身に恵まれた多大な幸運を、暮らしに恵まれなかった人に返すためだ。』とあるし、また、だがで身寄りのない釈華は死後に全財産が国に吸われる。だから、それで社会保障分も多少は国に還元できるのではないかというスタンスだ。『生産性のない障害者に社会保障を食われることが気に入らない人々もそれを知れば多少なりと溜飲を下げてくれるのではないか?』


 彼女は重度障害者女性の立場に甘えず、資産家であった両親が自身のために残してくれたものを幸運と捉え心理的に胡坐をかかず、健常者だから私よりもあいつの方が幸せだろうなどと妬まない。いつでも公平であろうとする。

 


 ところで、ハンチバックの表紙にあるオブジェなのだが、『せむしハンチバックの怪物』を表現したものなのではないだろうか。デフォルメされた像は、一つのオブジェとして美術館などに飾られていそうだ。作中、こんな文章がある。

 『健常と障害の間で引き裂かれる心の苦悩をモナ・リザにぶつけた米津知子の気持ちそのものに重なることはできない。だが私なりにモナ・リザを汚したくなる理由はある。博物館や図書館や、保存された歴史的建造物が、私は嫌いだ。完成された姿でそこにずっとある古いものが嫌いだ。壊れずに残って古びていくことに価値のあるものたちが嫌いなのだ。生きれば生きるほど私の身体はいびつに壊れていく。死に向かって壊れるのではない。生きるために壊れる、生き抜いた時間の証として破壊されていく。』『生きるために芽生える命を殺すことと何の違いがあるだろう。』

 

 ある日、ホーム職員の田中に紗花を特定され、泥の部分を指摘されることで、釈華の中で3つの顔が分離できなくなる。田中は『弱者男性』を自認していて、莫大な資産を保有する釈華に攻撃的に接した。

『 田中さんは金のためと割り切って重度障害者女性の入浴介助に入り、見たくもない奇形の身体を洗っている時も、金の塊を磨いているつもりだったのだろう。親の遺産で生きている私という人間が不労所得の金の塊にでも見えているのだろう。

 でもそれは手に入らない金だ。

 彼の言葉は赤いスプレーなのだ。

 とすると私はモナ・リザということに——。』


 3つの顔も、釈華自身の所属(または自身の属性?)というアイデンティティも混濁し、さらに汚したいし嫌いだと豪語したモナ・リザは視点を変えれば自分自身だと気が付き、彼女は取り繕うことを一切放棄した。

 『〈普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢です〉』

 SNSに投稿した夢を叶えようと、釈華は田中に話を持ち掛ける。

 結果、田中の身長155cm分の一億五千五百万を支払って中絶目的の妊娠をさせることに一度は同意を得ることができた。

 しかし釈華は、まずは飲みたいと要望し、精子を喉に詰まらせてしまった。

 それから高熱を出して寝込み、回復したころには田中はすでにホームを退職していた。田中に盗まれてもいいし、いっそそれくらいの子悪党であれと思っていたのに、小切手は机の引き出しに入ったまま。

『 抽斗には1億5500万円の小切手が、そのまま入っていた。

  そう。その憐れみこそが正しい距離感。

  私はモナ・リザにはなれない。

  私はせむしハンチバックの怪物だから。』


 田中の前で『蓮の花』であった表の顔が崩れ、だからといって願望だった『普通の人間の女』にもなれず、さらに『モナ・リザ』にもなれなかった。

 釈華は最終的に、自身を『せむしハンチバックの怪物』と定義付けた。



 このあと、旧約聖書より引用されたとおぼしき文章が入る。

 ゴグは終わりの日にイスラエルに攻め上るとされる。そして神の裁きによって滅ぼされるとされるが、おそらくその滅びの描写が唐突に挿入されている。


 これは、釈華の人間になりたいという願望が打ち砕かれたことを表現しているのかもしれない。

 他にも、釈華は紗花のハンドルネームでたくさんの願望を吐き出している。マックでバイトしてみたかったといったものから堕胎したいに至るまで、様々な願望の全てが世界の終わりのごとく釈華の内で徹底的に無慈悲に打ち砕かれる。

『その日、すなわちゴグがイスラエルの地に攻め入る日に、我が怒りは現れる。わたしは、わがねたみと、燃え立つ怒りとをもって言う。』

『主なる神は言われる、見よ、これは来る、必ず成就する。これはわたしが言った日である。』


 この文章の後、妄想世界のキャラクター紗花の視点に切り替わり、物語は閉じる。


 釈華は、社会的弱者男性を汚したことへの落とし前のように、もしくは願望ひとつ叶えられないことに失望したからか、自身を妄想世界で殺す。妄想世界では社会的弱者男性にお金を略奪させ、紗花はその犯罪者の妹として罪を背負う。

 こうして徹底的に公平性が示されたあかつきに、妄想世界の神である釈華は紗花に子を孕ませるだ。

 神は妄想世界のシャカを人たらしめる。

 泥が無ければ蓮の花は咲くことができないのだから。

 





出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より、『ゴグとマゴグ』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%82%B0%E3%81%A8%E3%83%9E%E3%82%B4%E3%82%B0

 

 

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法螺貝吹きの深呼吸 洞貝 渉 @horagai

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