後編
朝目が覚めた瞬間、胸の奥にいやな予感がした。
身体を起こすと、私の隣で眠っていたはずの彼女の姿が無い。一瞬、お手洗いにでも立っているんだろうと思おうとしたけど、トイレはおろか部屋中どこにも彼女はいなかった。玄関からは彼女の靴が消えていた。
私は立ち尽くした。
色んな事が頭の中をめぐるけど、何もわからなかった。彼女は部屋を出て行ったのか、私の許以外に居場所を見つけたのか、それは一体どこなのか…。
「どこ行っちゃったのよ…」
空しい独り言を呟いて、私はにわかに出かける準備をし始めた。このまま部屋で何もしないままではいられなかった。彼女を探しに行かずにはいられなかった。
アパートを出て、アーケードを抜けて、駅前通りに出る。見回してみても彼女の姿は見当たらない。いつも部屋に閉じこもっている彼女が行く先なんて思い付かなかった。と、ふと路面電車が走ってくるのが見えた。私は停留所に上がり、とっさにあてもなく路面電車に乗り込んだ。
電車は走り出す。車窓には見慣れた街の風景。彼女の横顔を思い出す。「安心する」…彼女はこの街のことをそう言った。そんなこの街を捨ててどこかに行ってしまうだなんて、どうしても考えられなかった。
電車は郊外へ走っていく。一瞬いつものスーパーが脳裏をよぎったけど、この時間じゃ当然まだ開いていなかった。いつも降りる電停を過ぎて、さらに電車は街を走っていく。もはや見慣れなくなった車窓の中に、彼女の姿を必死に探す。けれどいつしか窓の外は、彼女はおろか人の姿さえまばらになっていった。振り返ってみると車内の乗客も私だけになっている。いつの間にか電車は、街はずれの海のそばまで走って来ていた。
「―越ノ潟、終点です。お忘れ物のないようご注意ください」
聞こえていたはずのアナウンスにはっとして、私は重い腰を上げて列車を降りた。錆びた屋根とひびの入ったプラットホーム…初めて来た路面電車の終点は、コンクリートの港に面した無機質で寂しい駅だった。誰もいない岸まで行ってみると、海は緑色で、広いはずの空は相変わらず鈍色の雲に覆われている。対岸が見えるけれど、こちらと同じくコンクリートに固められているようだった。左に見える港の横切る大きな橋が、黙って私を見下ろしていた。
―私は、その場に座り込んでしまった。
もう、自分がどこへ行くべきなのかわからなかった。路面電車が走るこの街の、―私たちの「世界」の果てまで来たのに、そこはただの袋小路だった。彼女という存在も、彼女との関係の意味も、私たちの日々の答えも、何もなかった。だったら私はどこへ行けば、その答えを見つけられるのだろうか。どうすれば私は、彼女は、救われるのだろうか。
その時、スマートフォンが通知音を鳴らした。見ると、さっき何回も送っていたLINEのメッセージに、彼女から返信が来ていた。
『ごめん、大学行ってました。今から帰ります』
…全身の力が抜けるのを感じた。それと同時に、先週くらいに彼女が、今日学科の教授と面談があるから大学に行くという話をしていたことを思い出す。彼女はどこへ行ったわけでもなかった。呆れと安堵とが一緒になったため息をつくと、私はなんとか立ちあがり、折り返し電車に乗り込んだ。
アーケード前の電停で降りると、私を待つ彼女の姿があった。彼女は私に気付くと歩み寄ってきた。
「ごめん、昨日言うの忘れちゃって」
ばつが悪そうに苦笑いする彼女は、いつもの彼女だった。ついさっきまで失いかけていた、いつも通りの彼女だった。
私は彼女に抱き着いていた。
「わっ」
「もう…っ。心配したんだから…!」
全身で彼女の確かなぬくもりを感じていると、彼女も私の背に腕を回してくれた。
二人でアーケードを歩いてアパートに帰りながら、彼女は今日の話をしてくれた。なんでも、彼女は大学には行っていないものの休学届は出していないので、欠席率が目に余ると学生主任の教授から呼び出しをされたらしかった。面談の結果、彼女は「体調不良」を理由に来月1月から正式に休学することにしたとのことだった。
「本当に心配したのよ。急にいなくなるなんて」
「ごめんってば」
「今度からどこか行くときはちゃんと言ってね?」
「うん」
返事をしてくれる彼女はやっぱり素直で、私の許に帰ってきてくれたことを実感して、私は嬉しくなった。
二十二時。夕食の片づけも済ませ、いつもならテレビを見たりスマホをいじったりしている時間だけど、今日は違った。私と彼女は座卓にグラスを並べ、お酒を飲んでいた。二人とも酒飲みというほどではないけれど、こうしてときどき飲むことがあった。今日は私が飲みたいと言って、冷蔵庫にしまっておいたワインを開けたところだった。
「これ美味しいわね」
「うん。また買ってよ」
「そうする。クリスマスにぴったりだし」
スパークリングの白だった。琥珀色の中を細かな泡たちが立ち上っては消えていく。少しだけ儚げな美しさだった。
クリームチーズをかじりながら、彼女の横顔を見る。頬と首筋がほのかに紅くなっている。普段のガーリーで幼げな雰囲気とのギャップに、どこか魅かれる。けれどその瞳は雪の舞う窓の外に向けられていて、私を見ていなかった。
「ねえ」
「なあに」
「どこを見ているの」
「…どこも」
彼女は少しだけ俯いて、視線をワイングラスに向けた。私は続ける。
「…この街の外に出たい?」
「どうして?」
「だって」
私は一瞬ためらって、改めて口を開いた。
「いつもどこか遠くを見ているから」
「…」
彼女は黙ったまま、ワインで唇を湿らせた。
「…この街は、鳥籠なんだ」
「鳥籠…」
「優しすぎるんだ。あたしをかくまってくれて、受け入れてくれて。でも、それじゃいけないんだって思う。いつかは鳥籠を出なきゃいけない。もしその瞬間に、鷹に狙われるのだとしても」
彼女はそう諦めたような微笑みを浮かべると、またワインを口にした。
「…私は、ずっと鳥籠にいてもいいと思う。ううん、いてほしいの」
彼女は少し意外そうな表情で振り向いた。私は続ける。
「鷹に狙われるのがわかっているのに、自分から捕らわれに行こうなんて言わないでよ。ずっとこの街でこうして、鳥籠の中で暮らしたらいいじゃない」
私はワイングラスを置き、彼女に近寄る。頬の染まった端正な顔立ちが、目の前に迫る。
「どこかに行こうとしないで」
そう言うと、私は彼女に唇を重ねていた。それをそっと離すと、彼女の瞳は私を確かに見ていた。
「…後悔しない?」
彼女からの問いかけに、私は微笑んだ。「するならとっくにしてるわよ」
彼女の美しい肢体を、私は愛した。こういうことは初めてで、私は精いっぱいの知識を総動員して彼女に触れた。彼女は小鳥のように短く高い声でさえずった。それが愛おしくてたまらなくて、私は彼女のすべてを抱いた。
彼女もまた、私を求めてくれた。彼女には経験があるみたいで、私の知らない私を彼女は教えてくれた。そうして彼女が私を見つめて愛してくれることに、私は幸福を感じていた。
そうしてすべてが終わると、私たちはまたいつものように同じ布団の中に抱き合うように包まっていた。いつもと違うのは、二人とも服を身に付けていないことと、私たちの関係が『友達』ではなくなったことだった。
「ねえ」
私は彼女に問いかける。
「ずっと“ここ”にいてくれる?」
胸元の彼女は照れ臭そうにはにかむと、小さく頷いてくれた。
私は彼女をもう一度抱きしめた。
私たちは満たされていた。この小さな街で二人、誰に邪魔されることもなく暮らしていく幸せを、より深い仲になったいま改めて実感した。部屋でインスタントコーヒーを飲んでいるときも、スーパーで買い物をしているときも、夕飯を食べているときも、そして夜も、彼女は私のことを、私だけを見てくれるようになった。それが言い表しようもなく嬉しかった。
「いよいよ明日ね、クリスマスイブ」
いつものように部屋でコーヒーを啜りながら、私は口を開いた。「去年は一人だったから、こうやって二人で過ごせるのが嬉しい」
彼女は両手で包んだカップを口につけながら呟く。「…あたしも」
「そっか」
私は彼女に微笑んだ。
と、ふと部屋のインターホンが鳴った。うちに訪問客なんて珍しい。
「誰だろう…?出てくるね」
私は席を立ち、玄関に赴く。ドアを開けると、中年の男性と若い女性のペアが佇んでいた。どちらもスーツ姿だ。
私はいぶかしみながら尋ねる。「どちらさまですか…?」
男性は表情を変えることもなく、胸ポケットから革の手帳を取り出した。縦に開かれたそれには、金色のエンブレムが掲げられていた。
「私は富山県警の者です。ある男の殺人及び死体遺棄事件について、あなたとあなたがかくまっているお友達の方にお話があります。署までご同行願えますか」
―無機質で決定的なその言葉に、私はいつの間にか、呼吸の仕方すら忘れていた。見たくなかった、見ないふりをし続けてきた現実が、目の前に横たわっていた。ぐらぐらと頭が揺れるなか、ふいに玄関先のコルクボードが視界に入った。
明日の日付が記されたクリスマスチキンの予約の控えが、開け放たれた鳥籠の扉から吹き込む冬の冷たい風に、むなしく揺れていた。
鉛の花 ナトリウム @natoriumu
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