中編
あの日から私たちは同棲を始めた。彼女は一度だけ自分の借りている部屋に行って最低限の荷物を持ってきたけれど、その後はずっとこの私の住むアパートで暮らしている。彼女はずっと家に居て、ときどきテレビを見るほかは、猫のように窓際のお決まりの場所で膝を立てて座り、窓の外の殺風景な庭を眺めていた。
一ヶ月のうちに二人の間でルールも決まっていった。私がいない昼の間に彼女は掃除や洗濯をしてくれるようになった。ただその代わりに彼女は料理がからっきしダメで、夕食は毎晩私の担当だった。それでも時間があると、材料の買い物には一緒に連れ出したりしていた。
―インスタントコーヒーを飲み終えた二つのカップを洗い場に置きながら、私は彼女に声をかける。「これから夕ご飯の買い物行くけど、来る?」
彼女は少し考えた後、壁にかかった白いダウンを手に取った。
二人で部屋を出て、鍵をかけて錆びたアパートの外階段を下りていく。吐く息が白い煙になって、灰色の空に溶けていく。
「今日は寒いから、シチューにしましょうか」
私が呟くと、彼女も頷いた。
アーケードを抜けて、交差点にある停留所で路面電車を待つ。…この街には、駅前通りから郊外の方へ路面電車が走っている。本数は少ないけれど、車を持っていない私たちにとってはそれなりに便利な乗り物だった。三つ目の電停を降りたところにあるのが、いつも使っているスーパーだった。
やってきた電車に乗り込み、手近な席に並んで腰を下ろす。電車が動き出すと、彼女は興味深そうに車窓から街の様子を眺めていた。
「…まだこの街は慣れない?」
問いかけると、彼女は小さく頷いた。「でも、安心する。この街には、あたしを知ってる人はいないから」
ほっとした微笑みが、私にはどこか寂しくも思えた。
電車を降りると、いつものスーパーに入って、いつものように買い物を始めた。隣の彼女と品定めしたり、とりとめのない話で笑ったりしていると、なんとなく心が満たされていく。そんなこの時間が私は好きだった。
「えー、あたしクリームシチューがいい」
「それじゃおかずにならないでしょ。ビーフシチューがいいって」
「あたしはクリームシチューでだってご飯食べられるよ」
そんなやり取りをしながら、カートに載せたカゴに具材を入れていく。一ヶ月前まで知らなかった二人分の材料の重さが、どこか嬉しかった。
何ごともなく買い物を済ませて、私たちはまた路面電車に乗る。アパートの最寄りのアーケード前の電停で降りたときだった。「あっ」
彼女につられて空を見上げると、灰色の空から小さな白い綿たちが舞い降りていた。
「…雪ね」
「うん」
ふいに彼女が私の左腕に抱き寄った。彼女のぬくもりを感じながら、いまこの街に温かい冬が訪れたことを私は知った。
ルーを入れたクリームシチューを煮込んでいると、シャワーに行っていた彼女が戻ってきた。「お風呂いただきました」
ショートパンツにTシャツのラフな部屋着だけど、センスの良いかわいらしさがある。ジャージの私とは大違いだ。
「もうちょっとでできるから、冷蔵庫からサラダ出してくれる?」
「はーい」彼女は返事をすると、サラダと食器を運んでくれた。
はじめの頃に比べると、とても素直になってくれたんだなと思う。素直というか、一緒に暮らし始める前はもっと心を閉ざしていた。私に対してというより、他人という存在みんなに対して。…私も人のこと言えたクチじゃないけど。ただ、友達たちに話題を合わせるのに必死だった私とちがって、彼女は立ち回りが上手くてグループの中でも仲良くやっていた。それが仮面だったということを知ったのは、一緒に暮らし始めてからだ。
出来上がったシチューを器に盛りつけ、両手に持って彼女の待つ座卓へ運ぶ。「おまちどうさま」
「わーい」
「それじゃ、いただきます」「いただきます」
彼女はシチューを口へ運ぶと、すぐに満面の笑みを浮かべた。「おいしい」
「よかった」
私も一口。確かにおいしい。シチューだけでなく、彼女が来てから家で食べるご飯がおいしくなった。前は外で適当に済ませることが多かった夕ご飯も、最近は必ずと言っていいほど自炊していた。
ふとテレビの画面を見ると、クリスマスの特集をやっていた。そういえばもう十二月に入っていた。
「もうすぐクリスマスね」
彼女に話しかけると、なぜか意外そうな顔をされた。
「…まさか予定あるの?」
「え?いやいや!訊いてみただけよ。せっかくだからチキンとかケーキとか予約しようかなって」
「そっか」
「頼んじゃっていい?」
私の問いかけに、彼女は一瞬黙り込んだ。
「どっちでもいいよ」
「どっちでも、って?」
「…まだわからないから」
目を伏せる彼女。何が言いたいのかを察して、私はわざと明るい声を出す。
「わかった、じゃあ一応予約しとくわね」
そして気を紛らわすようにシチューを口にした。
『まだわからない』―。彼女がたまに言う言葉だ。先のことを尋ねると、だいたい彼女はそう言って答えてくれない。いや、答えることを避けているように見えた。彼女は、自分の将来を考えていない。人を殺した自分に将来を選ぶ資格はない、そう思っているのかもしれなかった。そしてそれは、―可能性として十分あり得る未来でもあった。
テレビ番組は何事もなかったかのように、次のコーナーに移っていた。
夕食の後片付けを終え、シャワーを浴びてからスマホをいじったりしていると、いつの間にか壁掛け時計の針は二十二時を指そうとしていた。
「そろそろ寝ましょうか」
同じくスマホでゲームか何かしていた彼女に声をかけると、座卓を一旦部屋の端に寄せ、ベッドの上に置いてあった布団をひきずり下ろした。もともと来客用だったはずの布団だけど、今は毎日使っていた。電気を豆球にして、私と彼女はいつものように並んで一緒に布団に潜り込む。
「おやすみ」
息が届くほどすぐ目の前の彼女にそう声をかけると、彼女も同じ返事をしてくれた。
あの日からずっと私たちはこうして同じ布団で寝ている。彼女を一人にするとまた泣いてしまいそうで、彼女の涙はもう見たくなくて、だからこうして一緒に眠るようにしていた。それに、二人で入る布団は狭いけれど温かくて、心地よかった。
数分もすると、彼女は眠りについた。私の懐で穏やかな寝息を立てる彼女を見ていると、私が彼女にとって安心できる居場所になれたことを感じて嬉しく思えた。彼女の横髪が顔にかかっているのを左手でかきあげてやると、私も目を瞑った。
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