鉛の花

ナトリウム

前編

富山県高岡市。

今日もこの世界は、鈍色に覆われていた。

駅前だと言うのに寂れかけた電車通りの商店街から、古ぼけたアーケードに入り、細い路地に折れてさらに少し歩いてくると、この見慣れたアパートに辿り着く。赤茶けた外階段を昇って、二○一号室のドアノブを捻ると、室内から暖かく乾いた空気が顔に流れてきた。

「ただいま」

部屋に上がると、窓際に座っていた彼女がこちらを振り向いて応える。「おかえり」

私は緋色のマフラーをほどき、ベージュのコートを脱ぐ。

「コーヒーでも淹れよっか」

そう言うと、彼女は立ちあがって、私の後からキッチンに入ってきた。

私たちはこの部屋で一緒に暮らしている。私も彼女も大学生で、隣町のキャンパスに通っている。ただ彼女は最近大学には行っていないようだけれど、そのことを私が問い詰めることはしなかった。

インスタントコーヒーの入ったマグカップをそれぞれ手に、私たちはリビングにしつらえた座卓についた。色彩の無い窓の外に目を向け、彼女が口を開く。

「今晩は降りそうだね、雪」

私は頷く代わりにコーヒーを啜った。

彼女はカップを両手で抱えたまま、じっと窓の外を眺めている。その瞳には何が映っているのか、私にはわからない。

「…ねえ」

ふいに彼女が私を見つめた。

「なに?」

「どうしてあたしを追い出さないの」

「…なんでそんなこと訊くのよ」

「だって」

彼女は一瞬ためらう。「―あたし、殺人犯だよ」

私は口許を弛めながら、コーヒーを一口啜った。「しってる」

彼女も黙って、カップに口をつけた。


一ヶ月前まで、私と彼女はただの友達だった。

大学の同じ学科に通う、同じ女子グループの一人。お互いそういう認識でしかなかった。ただ、彼女とは名前の順で近いというのもあって、少しだけ他の人より接することが多かったかもしれない。

彼女はあまり目立つ方ではなかった。ときどき班別授業で班長をやらされていた私と違って、彼女は誰かの前に立つこともなかった。いつも教室の真ん中あたりの窓際でノートを開いていたのが思い浮かぶ。

―だからこそ、あの日彼女からかかってきた電話は、私にとってとてつもなく衝撃的だった。

『あたし、人を殺しちゃった』

大学からの帰り道、富山駅のホームで北陸線を待っていた私は、右耳のスマートフォンから発せられたその言葉を最初理解できなかった。

「え…?」

『ねえ、どうしよう…あたしどうしたら』

電話越しの彼女の声は震えていた。私は訳も分からないまま動悸が激しくなるのを感じながら、冷静を努めて彼女に問い返す。

「どういうこと?いまどこにいるの」

彼女はおそるおそる居場所を伝えた。大学から程近いアパートだった。私は彼女の住所を知らなかったので、てっきり彼女が住んでいる部屋なのかと思ったけれど、訊くとそうではないらしい。もっと詳しい状況を知りたかったけれど、動揺している彼女はそれ以上答えられそうになかった。

「待ってて、いますぐ行くから」

私は何が起きているのかもわからないまま、ただ彼女が私に助けを求めてきたからという理由だけで、彼女のもとに走った。駅を出てさっき乗ってきた路線バスに乗り、大学の最寄りの一つ前の停留所で降りる。グーグルマップを頼りにアパートに駆け込み、告げられた部屋番号の扉をおずおずと開けると、そこには立ちすくむ彼女の姿があった。

「大丈夫!?」

彼女は怯えたままの瞳で私を見た。その手には血まみれの果物ナイフが握られていた。そして彼女の足元には、腹部が赤黒く染まった男の身体が横たわっていた。

呆然とする彼女の服は、肩の辺りが破れてはだけていた。私は瞬間、それを見てこの部屋で何が起きたのかを察することができた。彼女はこの男に襲われ、抵抗した彼女がこの男を刺したのだ。

はやる鼓動を抑えながら、私は一瞬の逡巡ののち、静かに彼女に問いかけた。「このこと、誰かに見られたりした?」

彼女は震えたまま首を横に振った。

「今日、この部屋に来ることは誰かに言った?」

再びかぶりを振る彼女。

玄関の靴箱の上に、車のキーが置いてあるのが目についた。この男のものだろう。私はそれを確かめて、三秒後には取り返しのつかない提案を口にしていた。

「この死体、捨てに行きましょう」


私たちは男の死体を部屋にあった服で完全にくるみ、ガムテープで留めていった。死体は布に覆われていくとともに冷たくなっていき、作業が終わった頃には「人型をした物」のようになっていた。動転している彼女をなだめながら時が過ぎるのを待ち、二十三時を回ったところで私たちは動き出した。人目につかないように警戒しながら男の車の後部座席に「死体」を載せ、助手席に彼女が、運転席に私が乗りこんだ。この辺りは三十分も走ればすぐ山だ。スマートフォンでナビをセットし、車を走らせた。通りのある道に出ると、もしや誰かに気付かれやしないかと心臓が激しく拍ったけれど、幸運にもそんなことはなかった。

車はじきにナビでセットした山の入り口の村落にたどり着いた。私は一旦車を停めると、道路わきの納屋に立て掛けられていたシャベルを二本拝借し、「死体」の横に載せてから再び発車させた。山道に分け入り、アスファルト舗装がなくなってからもなお、私は走り続けた。そうして十分ほど走っただろうか。車を停めると、辺りはヘッドライト以外に明かりは無く、鬱々とした黒い森に包まれていた。

私は助手席の彼女に目配せをして、一緒に車を降りた。後部座席から「死体」を背負って、さらに木々の中へ足を踏み入れていく。シャベルを持った彼女が後からついてくる。そうして車が見えなくなるぎりぎりのところまで進んで、私は「死体」を地面に転がした。

私たちは何も言葉を交わさずとも、お互い何をしたらいいか分かっていた。それぞれシャベルを手に、無言のまま地面を掘り始める。ときおり木々が夜風にそよぐ他は、彼女と私の呼吸の音だけが耳に届く。下弦の半月が木立の隙間から覗く、静かな夜だった。

何分くらい経っただろう。いつの間にか私たちの前には人ひとりが余裕で入るだけの大穴が空いていた。私はシャベルを置き、「死体」を転がし入れた。そしてどちらからともなく、さっき掘り出した土で私たちは穴を埋めはじめた。そしてそれが終わる頃には、スマートフォンの時計は一時になろうとしていた。

私たちは再び車に乗り込み、男のアパートに戻った。元あった場所に車を戻し、キーは男の部屋のポストに入れた。背後で何かが動き、驚いて振り返ると、野良猫がこちらの様子をうかがっているだけだった。

そうして全ての作業を終えると、傍らで彼女は消え入るような声で呟いた。「…ありがとう」

「…自分の家、帰れる?」

彼女は俯いたまま何も言わない。ただその肩はまだ震えているようだった。

私は彼女を連れ、バス通りに出て歩いた。駅前でやっとタクシーを捕まえ、運転手に私の自宅の住所を伝えた。真夜中の国道を走り、隣町の私の住むアパートに着いたのは三時前だった。

「今夜は私の部屋に泊まっていいから」

そう告げると、彼女は小さく頷いた。

彼女を部屋に上げ、先にシャワーを浴びせてから、自分も浴室に向かう。服を脱いで初めて、自分がびっしょりと汗をかいていることに気付いた。それを温かいお湯で流しながら、さっきまで自分たちが行っていたあまりにも非現実的な行動を思い出す。彼女は人を殺し、私は死体を埋めた。あきらかに重い犯罪なのに、私には不思議と彼女を責める気も、自分に対する罪悪感も起きなかった。それどころか、私は達成感すら感じていた。彼女を救ったこと、彼女と私の間に二人だけの秘密ができたことが、どこか嬉しくさえ思えた。

寝間着に着替えた私は来客用の布団を敷き、彼女を寝かせた。私はいつものベッドに入り、電灯を消した。時計の針は午前三時半を指している。明朝もふつうに平日だけれど、大学に行く気は全くなくなっていた。ベッドに横になり、暗闇の部屋の中でぼうっとしていると、いつからか、彼女のすすり泣く声が聞こえてきた。

「大丈夫?」

身体を起こして見ると、彼女は布団にくるまったまま私に背を向けて泣いていた。あんなことがあった日の夜だ、感情が不安定になるのは当たり前だった。

私はベッドから降り、彼女の布団に一緒に入った。彼女の小さい身体をそっと抱きしめると、彼女は私の方を向いて私の胸に顔をうずめた。彼女は震えながら、私の腕の中で泣いていた。

そのとき初めて、私はあの男に対して感情というものが生じた。さっきまであの男を「物」としか思わなかったけれど、いま私の心には、あの男に対する憎しみが芽生え始めていた。あの男のせいで彼女は不幸になり、こうしていま彼女は泣いているのだ。どうしてあの男なんかに彼女は。私なら、私だったら絶対に彼女を不幸にしないのに―。

私は彼女をなおさら強く抱きしめた。彼女をこれ以上悲しませたくない。だったら私が、彼女を守ってみせる。そう思った。

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