キョウの神様

大石 陽太

第1話 巨大な酔っ払い

 川から一匹の魚が飛び跳ねた。こんな寒い中よくはしゃいでいられるなと思ったけど、そんな魚のことはすぐに意識から消えていった。

 目の前の赤い太鼓橋を渡るといよいよ目的地だ。

「……ふぅ」

『いよいよ』といっても、別に長旅でもなければ険しい旅でもなかった。ただ、ぼーっと言われた通りに言われた道を歩いてきただけ。気づいたらどこかも分からない雪山にいた。

「分かっていると思うけど、相手は神だから。くれぐれも失礼のないようにね。ぁいや、君は礼儀というものがなっていないからなぁ。心配だなぁ……。神がその気になれば君なんて、ほら、ポンっ……いや、スン……シュッ……ササー……まぁとにかく一瞬で消されてしまうんだから」

 ここに入ってから耳に届いていた音は川のせせらぎと雪を踏み締める音、それに自分の呼吸だけだったから、耳元でペラペラと喋り出したよく分からない獣の声が妙に頭の中で響いた。

「急にうるさいよ……ケーくん」

 私の首にマフラーのように巻き付いていたケーくんは素早く白の上に着地した。犬みたいに体を震わせて、体の雪を落としている。

「キョウ、確かに私には名前がないと言ったが、勝手に名前を付けていいとは言っていないよ。それに気に食わないのはその才能のないネーミング。君、その呼び方から敬称を除いてみろ。ケーだぞ、ケー。伸ばし棒込みでも二文字。伸ばし棒無しならたった一文字だ。単純計算で君の三分の一。私はカタカナ一文字で表現されるほど軽い生き方はしていない」

 目の前で憤慨して足踏みしている謎の生き物。四足歩行で毛並みは整っているが、行先によって色が変わる。今は薄い茶褐色、つまりはきつね色。スラリとしてスタイルは良いが、少し頭が大きい。耳は頭部の中心に一つ、ピョコンと生えている。鬱陶しい話し口とは反対にくりっとした愛らしい目をしていている。大きさは猫くらいだが、出会った時は『にゃワン』と鳴いていた。

 この間は『コケコゥヴゥゥォォォォォ』だった。

 わたしの知っているどの動物にも当て嵌まらなかったうえに「なんていう生き物?」と聞いたら「なんていう生き物だと思う?」とドヤ顔で聞き返されてしまった。それから長いこと(体感五時間)話した末に、名前はないと豪語してきた時は、その答えに辿り着くまでに一体何を話していたのだろうかと吐きそうになった。

 それに多分、こんな珍妙な生き物は世界のどこを探しても他にいないと思うから、生物的な名前よりも、個人としての名前を聞いた方が良かったのだろう。

 なにかと不便なので自分の中で勝手に呼ぶ用に名前を考えたのだが、長考の結果、なんかよく分からないけどケモノだからケーくんでいいやとなった。

「人間は文字数じゃない。生き様だよ」

「私は人間ではないワン!」

 ケーくんの話では橋の向こうからは神様の土地らしい。足を踏み入れるにはあるモノを持っていなくてはならないとも言っていた。

「これを持つんだ」

 ケーくんから渡されたのは酒と書かれた一升徳利とどこにでもありそうなネコじゃらしだった。何に使うのか気になったが聞くのは面倒だったのでやめた。

 少し歩くと、真っ赤な鳥居が見えてきた。鳥居は建てられたばかりかと思うくらい綺麗な状態だった。鳥居は連続していて、鳥居のトンネルを潜る道だった。

「んむ。悪くない景色だね。ここの神はいい趣味をしている」

 ケーくんは私の足元を歩きながら、偉そうな感想を述べる。

「偉そうだなぁ。神様が聞いてたら失礼だと思われるよ」

「おっと……訂正。素晴らしい景色だ。ここの神、褒めてつかわす」

 褒めてつかわしちゃったかー。ややこしいことにならないといいけど。

 そういえば、私の故郷にもこんなのあった気がするな。実際に見たことはなかったけど。

「パシャリ」

 ポッケからスマホを取り出して一枚。うん、悪くない悪くない。わたし、褒めてつかわす。

「思ったんだが、なぜ君は綺麗だと思ったものを写真に残したがるんだ」

 特に変わったこともなく、雪の積もった鳥居を潜り抜けていく。

「なぜって、忘れたくないからじゃないかな。他人にも見せられるし」

 考えたこともなかったから分からない。

 考えるのは疲れる。

「忘れたくない? 忘れたくないようなものなら憶えていればいいじゃないか。他人に見せてどうするんだ。他人に見せたところで、自分の中にあるものは変わらないだろう。それとも他人の反応によって君の中の価値観は変動するのか? だとしたら、君は本当に――」

「――着いたよ」

 それらしき神社が見えた。こんな山奥にあるのが不思議なくらい立派な建物だ。それに、ここに来た途端、急に静かになった。元々静かだったけど(ケーくんはうるさい)ここに来てから何の音がなくなったのか、一層静まり返っている。

「私たちは神を崇めにきたんじゃない。神の手助けをしにきたんだ。下手には出ても使われてはいけないよ、いいね?」

 さすがのケーくんも緊張しているのが声で分かる。私にとっては初めて出会う神様。きっと、本物の神様を目にすることでようやく、このよく分からない旅の目的を実感することができそうだ。

 一歩ずつ、ゆっくりと前に進む。すると、誰もいないのに拝殿の扉がゆっくりと開き始めた。ここまでくれば誰でも分かる、遂に神様とのご対面だ。

「うぃ……こらこら。手水てみず忘れてるぜ……ぅぁくわぁぁぁぁぁ……ねむ」

 のそのそと怠そうに中から出てきたのは体長四メートルはある二足歩行の巨大な猫だった。わたし三人くらいなら丸呑みできそうな大きな欠伸をした後、猫……神様は尻を掻いた。

「イタッ! 爪立てちゃったよ……ペロペロ」

 手を舐めて自分の唾を尻に塗っている。わたしは今、何を見ているんだろうか。

「ケーくん、一応確認なんだけど、今わたしの視界に現れた巨大な猫は神様でいいんだよね。神様と見せかけて、ただの巨大な猫じゃないよね」

「ああ、神だ。だが、間違えても威厳が感じられないとか、私の方が神に相応しいんじゃないかとか、ケーガトリアン様、神になってください! とか思わないことだ」

「えーっと……ケーガトリアンって」

「ああ、私が考えた私の名前だ。君が考えたケーよりも五文字も増えた。キョウ、悔しかったら泣いたっていいんだ。君は感情をあまり表に出さないからね。色々と溜まってるんじゃないかい?」

 よく見てみれば目の前の神様、猫は猫でも漫画みたいな猫だ。デフォルメされているというか、大きさ以外もどこか他とは違う特別感がある。あえて分かりにくく言うなら、現実版あだち充猫。

「ほーら、とりあえず清めちゃって」

 寒そうに体を震わせる神様はやっぱり猫にしか見えない。ケーくんはわたしの頭の上に乗ると、堂々とした態度で神に話しかけた。

「神よ。参拝に来たのではないのです。私たちはあなたの信仰を取り戻しに来たのです」

 難しい話はケーくんに任せる。わたしは足元の雪を転がして小さな雪だるまを作る。やっぱり雪と言ったら雪だるまだよね。

「こらキョウ。目線が下がるだろう。それよりさっきのまたたび酒を」

 またたび酒? ああ、さっきの一升徳利。

「おお! これはありがたい。後でゆっくり味わうとしよう」

 猫さんの体には小さすぎるとっくりを渡す。あんな少量で大丈夫なのかな。というか、神様にありがたいって言われちゃった。

「んで、どうやって信仰を取り戻す? 村に住んでた人間たちは他の土地に引っ越してしまったし、ミャーもあまり力が残っていない」

 聞き間違いじゃなければ目の前の神は自分のことを『ミャー』と言った。やっぱり、ただの巨大な猫ちゃんなんじゃ。

「ええ、存じ上げております。人間のほうはすぐにとは……。お力の方はこちらのキョウと私の舞である程度は戻せます」

「舞! いいなぁ! お前、ひょっとして神舞しんぶの後継か!」

 何のことか分からないのでとりあえず愛想笑いで誤魔化した。まさか、神様に愛想笑いするとは思わなかった。

「いえ……それはまぁ、色々と事情がありまして」

「そうか? 人間のほうはアレか。お前が繁殖して増やすのか」

「あ、違います」

 反射的に否定してしまった。なんかそこら辺の中年と話してるみたいで、やっぱり神様感がない。神様をセクハラで訴えることはできるのだろうか。

「では、さっそく……いくよキョウ」

 ケーくんがその場で霧散する。わた、私の中にケーくガトリアンだ! まだケーくんと呼んでいたのか。心の中なら全てが許されると思ったら大間違いだ。それにああ変な気分。これがケーくんの言ってた合体……合体とは失礼な、これは神聖な儀式のため、足りない君の技量を補う最善の……。

「キャッキャミャー!」

 神様は楽しそうに手を叩いている。まだ何もしていないのだけど……。

 懐から玉串を取り出して、舞を始める。自分の体とは思えないほど、柔軟で軽やか。しかし、どっしりと、歴史を感じさせる濃密な舞。舞が始まってからはケーくんの意識が邪魔してこない。相当、集中しているに違いない。

「ヒェッヒェッヒェ! いいろぉ! もぉっと……ヒッ! やへぇぇ……」

 あれは多分、またたび酒を飲んで酔っている神様。もはやそこらの酔っ払いと変わらない。威厳もへったくれもない。

「……フゥ。悪い、もう少し舞ってくれないか」

 元のよく分からない獣の姿に戻ったケーくんは、目の前のあの酔っ払いを見てわたしに頼んだ。

「ええー、わたし無理だよ」

 わたしはいつの間にかネコじゃらしを握っていた。

 ……なるほど。

「それー。ほりゃー」

「ミャンミャンフンッ!」

 こんな小さなネコじゃらしにも大いに反応してくれる酔っ払い神様。さすが、懐が深さが人間とは比べ物にならない。すごい幸せそうな表情でこっちまで幸せな気持ちになる。これが福……!

「ねぇ……これいつまで続ければいいの」

「……その酔っ払いが飽きるまでだよ」

 賽銭箱の前に座ってこちらを見ているケーくんはそれだけ言うと丸くなって目を瞑った。

 わたしはこのよく分からない状況にただため息を吐くしかなかった。

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