終幕

「邪魔したな」


 残りのパンを口に押しこんで、俺は腰を上げた。


「帰るのかい」

「ああ。朝っぱらから悪かった」


 問題は何ひとつ解決していない。けれど、これ以上ここにいても仕方ないことはわかっていた。


 いくら従兄に八つ当たりをしても、その弟子の優しさにつけこんでも、俺自身が決断しなければ意味がない。正直、まだ霧の中をさまよっている気分だが、昨晩よりは心が軽くなったように思う。それもこれも、気立てのいい少年のおかげ――ということにしておく。俺がアーサーに借りをつくるなど、まったくもって悪夢でしかない。


「ルカ坊も、いろいろありがとな。今度礼をさせてくれ」

「そんな、ぼくは何も……」

「休みの間にまた新しい服を仕立てに行くか」

「いえ、本当にお気持ちだけで」


 慎み深い少年は、頑なに俺の申し出を押し返した。そんなに遠慮しなくてもいいのだが。最近はあのエドワーズのほうから「あの坊ちゃんにぴったりの生地が入荷いたしまして」などと売り込んでくるほどなのに。素材がいいと仕立てるほうも熱が入るのだろう。人は誰しも芸術家だ。


「ルカ君、ちょっとすまないが」


 俺の見送りに立ち上がった少年に、ものぐさ師匠が声をかける。


「書斎のあれ、とってきてくれないかい」

「はい、先生」


 身軽に居間を走り出た少年は、ほどなく大判の封筒を抱えて戻ってきた。


「ありがとう、ルカ君」


 弟子から封筒を受けとったアーサーは、中身をあらためることもなく、それをそのまま俺に差し出した。


「きみに、ダリル。よかったら」


 訳もわからず封筒を逆さにし、滑り落ちた紙に目を走らせた俺は――


「……おい」

「うん?」


 にんまりと、といった表現をするほかない従兄の笑みを見るのは久しぶりだった。とっておきの悪戯が成功したときに、こいつはこんな笑みをもらしていた。


 譲渡契約書。グレンシャムの屋敷および地所に関する全ての権利を、ダリル・チェンバースに……


「ねえ、ダリル」


 長椅子の肘掛けにもたれて、従兄は微笑んだ。ついぞ見たことがないくらい穏やかに。


「きみのその、融通の利かない真面目ぶりは賞賛に値すると言えなくもないがね、世の中そうきっちり動いているわけじゃないんだよ。あれか、これか、なんて二択はもう古い」


 ひらひらと、骨ばった手を振ってみせる従兄は、観客の視線を自在にあやつる奇術師そのものだった。


「まずは手近なところから変えてみたらどうだい」

「……住まいを変えたところで、どうなるものでもないと思うが」

「それでも」


 従兄はひょいと肩をすくめた。


「見える景色が変われば物の見方も変わるだろうさ。とりあえず、きみをがんじがらめにしているものから距離をとるんだね。遠くから眺めてみれば、実は大したものじゃないと思えるかもしれないよ」


 こいつは、と俺は目が覚めるような心持ちで従兄の顔を見た。よくもここまで変わったものだ。こいつがここまで楽観的な台詞を吐く日がこようとは。


「ちなみに、きみのお相手の伯爵令嬢なら、近々将来有望な若手役者と駆け落ちの予定だ」

「なっ……」

「こちらの業界では公然の秘密だがね」


 そちらの筋ではそれなりに名の通っている従兄は、訳知り顔で足を組む。


「きみも少しは肩の力を抜いて、周りを見渡してみたらいいんじゃないかな。気分転換には転地が一番だ。グレンシャムは空気がいい。食べ物もいい。なにより――」


 白髪の従兄は意味ありげに笑った。


「あそこにはヘレンがいる」

「うるさい」


 とっさに睨みつけてやったが、それが照れ隠しであることは、従兄のみならず、その弟子にもお見通しだったことだろう。師のかたわらに立つ少年も、満面の笑みで俺を見ている。まったく、よく似た師匠と弟子だ。


「……アーサー」

「ああ、礼ならわたしではなくルカ君に言うんだね。その権利をきみに譲ったのはルカ君だ」


 やめてくださいよ、と少年が困り顔で訴える。


「もともと先生のものじゃないですか。この家だって……やっぱりもう一度ケアリーさんのところに行きましょうよ」

「彼は忙しい男なんだよ。そう何度も煩わせるわけにはいかないさ。いいじゃないか。きみがわたしを追い出さないでいてくれれば。なんなら家賃を払おうか? 大家さん」

「先生」


 師弟のやりとりを聞きながら紙面にもう一度目を走らせる。末尾の署名サインはたしかに従兄のものではなかった。ルカ・クルス。いかにも書き慣れていない、初々しさのにじむ署名。


 やられたな、と俺は天を仰いだ。こいつら最初から共犯者グルだったのか。


「……アーサー、ルカ坊」


 問題は何ひとつ解決していない。近所に引っ越したところで、ヘレンが俺を受け容れてくれる保証もない。一族のごたごたも、先行き不安な状況も、何も変わっていないというのに――


「恩に着る」


 なのに、なぜだろう。この目に映る景色が、光が、がぜん鮮やかになったのは。百万の味方を得たような、とはこんな心持をいうのだろうか。


「礼はまた今度」


 矢も楯もたまらず、俺は居間を飛び出した。ぱたぱたとせわしなく、頭の中の時刻表がめくれていく。急げ、急げ。次のグレンシャム行きの列車は何時に出る!?


「頑張ってください!」


 頼もしい声援が背中をたたく。ヘレンによろしく、と呆れたような従兄の声も。


 きっと、あいつも呆れるだろう。あるいは怒るだろうか。なんなら拳が飛んでくるかもしれない。何だっていい。いまはとにかく、あいつに会いたい。


 表に出ると、まばゆい光と清々しい朝の風が迎えてくれた。


「停車場まで。大急ぎで」


 御者に声をかけ、俺は馬車に飛び乗った。おろしたての服にも似た、ぱりっと爽やかな東の風を胸いっぱいに吸い込んで。



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黄昏の幻術師 小林礼 @cobuta

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