第三幕

「それでさっきの話だが、アーサー」


 バターと蜂蜜が塗られた平パンにフォークを突き刺して、俺は従兄に尋ねた。


「俺が本気じゃないとはどういうことだ」


 カップにミルクを注ぎながら、アーサーはちらと俺の手元を見た。その目に多少の非難が浮かんでいるように思えたのは、俺の気のせいだったろうか。せっかくですから、とルカ坊が勧めてくれたパンの山に手をのばしたことを責めているなら、こいつも案外しみったれだ。


「言葉どおりの意味だよ。きみ、いままで本気でヘレンに求婚したことなどないだろう」


 んっ、と隣で妙な声がした。林檎のペストリーを片手にもったルカ坊が、もう片方の手でカップをあおる。いい飲みっぷりだ、と茶化してやりたくなったのをこらえて背中をたたいてやると、若干涙目になった少年は律義に「ありがとうございます」と礼をよこした。


「……先生、ぼく外したほうがいいですか」

「いいよ、ルカ君。それよりこっちは何が入っているんだい」

「あ、それたぶん先生お好きですよ。干し葡萄とシナモンが……」

「アーサー」


 久方ぶりの師弟の団欒を邪魔して悪いが、あまり放っておかれるのも正直困る。角にできたというパン屋の品ぞろえの豊富さはよくわかったから、いまは話を進めさせてほしい。


「俺が本気じゃなかったことなど、ただの一度もないんだがな」

「ほう?」


 こと他人を苛つかせることにかけては、こいつは文句なしの天才だ。目線ひとつ、相槌あいづちひとつで、いとも容易く相手の感情を逆撫でする。


「おまえと一緒にするな、この遊び人が。俺は真剣なんだ」

「知ってるよ」


 面白くもなさそうな顔で、アーサーはカップをかき回した。


「きみはいつでも真剣だ。真剣に彼女を想い、真剣に一族の未来をうれいている。だからどちらも選べない」


 なんだそれは、と言えたらよかった。ふざけるなと食ってかかってもよかった。そのどちらもできず、俺は黙って蜜がけのパンを口に放りこんだ。


「……甘いな」

「甘すぎました?」


 言葉とは裏腹に、俺はよほど苦い顔をしていたらしい。心配そうに尋ねてくる少年に、俺は「いや」と首をふった。


「そんなことない。美味いよ、ルカ坊」


 まずいのは俺の性根のほうだった。底意地の悪い従兄に指摘されるまでもない。とっくにわかっていたことだ。ヘレンは、あの村を離れない。両親から受け継いだあの店を、決して手放すことはないだろう。


 わかっていながら、俺は何もしなかった。都合の悪い事実から目をそらし、馬鹿のひとつ覚えのように同じ台詞をくりかえすだけだった。あいつと話し合うこともせず、俺自身が何かを手放すこともせず。


 もしかしたら、俺はヘレンに断られるたび心のどこかでほっとしていたのかもしれない。筋書きの決まった芝居に新鮮味はなくとも安心感はある。あいつに毎度こっぴどく振られることで、何も変わらない、変えなくていいのだと、自分に言い聞かせていたのだとしたら――


「……最低だな、俺は」

「だからそういうのが鬱陶しいと……」


 先生、と少年がそっと呼びかける。言い過ぎじゃないですか、と。俺の自惚れでなければ顔にそう書いてあった。


 弟子にたしなめられた従兄は、頭をかいて小さく笑った。許しを乞うような、ごまかすような、そんな甘えが見え隠れする笑みに、俺はいささか驚いた。大げさに言えば感動した。こいつもこんな表情かおができるようになったのだなと。


「反省はそのくらいにして、ダリル」


 心なしか先ほどより柔らかい口調で、アーサーは俺に問いかけた。


「きみ、どうする。とりあえず伯爵令嬢と見合いでもするかい? 会ってみたらお互い気に入るかもしれないよ」

「耳の形が?」

「さてね。ルカ君はどう思う?」


 急に話をふられた少年は、二個目のペストリーを頬張りながら目を白黒させた。気の毒に、消化不良でも起こさなきゃいいが。まあ若いから大丈夫か。


「……ぼくは」


 口の中のものを飲み込んで、少年はそろりと俺を見上げた。


「その、よくわかりませんけど、ダリルさんとヘレンさんは、すごく……」


 そこで少年は菫色の瞳を細めた。懐かしい何かを思い浮かべるように。


「……お似合いだと思います」


 この少年が本当に言いたかったことを、風変わりな従兄と同じく、かつてはその目に映っていたものを、俺も見ることができたらよかったと思う。


 それはきっと、素晴らしく美しいものなのだろう。色で例えるなら、たぶん赤だ。あいつの髪の色と同じ、夕陽のようなあかがね色。


「ありがとな、ルカ坊」


 もうそんな年ではないだろうが、つい癖で少年の髪をくしゃくしゃと撫でてやる。大人しくされるがままになりながら、従兄の弟子はくすぐったそうに首をすくめた。


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