鬼を斬る君と僕の物語

大林 朔也

第1話  晴夜

 

「この世界には、鬼がいる。

 人に見えないように、あるいは人に姿を変えて、鬼は存在する。

 人を死に導き、人を喰らって、その生命を繋ぎ、鬼は生き続ける」




 そう僕に教えてくれたのが「晴夜」という不思議な力を持ち、鬼と戦っている男だ。

 いや、僕が晴夜といっているだけで、真実の名前は違う。この先も知ることはないだろう。

 でも、それでいい。

 晴夜のことをソウイチロウ、リクあるいはレンと呼ぶ人を見たことがある。僕は知る必要がないし、知ったところでその重みに押しつぶされてしまうだろう。



「名には、強力な力がある。

 名とは血であり、道であり、力の全てが刻まれる」

 晴夜はそう言うと、僕に微笑みかけた。

 鬼と戦う男の場合、真の名(晴夜は「真名」と言っている)を知られると命取りになるのだという…。


「真名を知られると、この仕事を続けていけない。

 だから教えられないんだよ。

 すまない」

 と、晴夜は言った。

 名前の重みを知らない僕には、その言葉は不思議でならなかったが、男の横顔には緊張感があった。

 この目で鬼を見たことのない僕には遠く、踏み込んではいけない世界のようにも思えた。


 だから僕は心の中で、男に相応しい名前を勝手につけて呼ぶことにした。

「鬼と戦う男」という言葉から浮かんだのは、有名な陰陽師である「安倍晴明」だった。安倍晴明が実際どういう方だったのか詳しくは知らないが、僕の中で何故かしっくりきた。それが、いけなかったのだろう。

 それから僕は、心の中で「晴明」と呼ぶことにしたのだった。


 だが、いつの日か心の声は声に出てしまうのだろう。

 何か特別な事をしていたわけでもなく、ただ晴夜が珈琲をいれてくれた時だった。


「ありがとう、晴明」

 と、僕はうっかり口にしたのだった。


 男の動きが止まり、怪訝な顔で僕を見つめた。

 珈琲のいい香りが立ちこめてはいたが、僕達の間をそれ以上に濃い微妙な空気が漂った。


「あっ…ごめん。

 僕の中で…勝手にそう呼んでいたんだ」


「偉大な御方と同じ名で呼ぶのは、やめて欲しい」

 と、男は言った。

 怒ってはいなかったが、僕は自分の浅はかさを酷く後悔した。人間から神ともなった唯一の方と、同じ名で呼ばれるのは畏れ多い。もし僕が親に同じ名前をつけられたら、重圧で押し潰されてしまう。


「ごめん、やめるよ。

 初めて会った時…そう、公園での小鬼を思い出したら…鬼から…安倍晴明のことが浮かんでさ。

 それで…なんとなく…ごめん」


「あぁ、懐かしいな」

 男はそう言うと、珈琲を一口飲んだ。

 口元に涼しげな微笑みを浮かべ、窓を開けてベランダへと出て行った。


 夜の涼しい風が入ってきて、カーテンがユラユラと揺れた。


 僕も立ち上がりベランダへと出て、男の隣に立ち夜空を眺めた。

 夜空は美しく、幾億もの星が輝いている。夜風に吹かれる男もまた綺麗だった。

 その瞬間、僕は光の世界に目が釘付けになった。

 晴明の「晴」は残したまま、鬼と戦う男は夜に活動することが多いので「夜」を合わせ、晴夜セイヤという名がユラユラと浮かんできた。


「なら…晴夜はどうかな?

 この夜空を見ていて、急に浮かんだんだけど」

 僕がそう言うと、晴夜は笑ってくれた。了承してくれたということだろう。


 晴夜はゆっくりと視線を僕に向けると、過去を懐かしむような瞳になった。


「あの時、あの場所で、小鬼がいなければ、こんな風に共に夜風に吹かれることもなかったのだろう。

 私は、鬼を追い、殺しているというのにな。 

 それだけは、感謝しよう。

 なんとも不思議なものだな」

 晴夜がそう言うと、僕もあの頃に思いを馳せていった。 



 晴夜と初めて会ったのは、蝉が激しく鳴いている暑い夏の日だった。

 

 中学2年生だった僕はその日の分の夏休みの宿題を終わらせると、共働きの両親から頼まれた買い物に出かけた。

 暑い日差しを浴びながら両手に荷物を抱えた僕が近道の公園を歩いていると、この辺りでは見慣れない男の子がベンチに座っていた。

 その男の子は、不思議な魅力を放っていた。

 風でサラサラと流れる黒い髪は美しく、切れ長の灰色の瞳は聡明さに満ち溢れ、育ちの良さを思わせるように座り方も優雅だった。


 普段は知らない人に話しかけたりはしないが年齢も同じぐらいに見えたので、僕は公園の出口へと向かわずに、男の子に近付いて行った。


 そして、男の子の前に立った。男の子は目の前に人が立ったというのに気にする様子もなく遠くを見つめていた。

 その瞳は「何か」を追っているようだった。

 僕はなんとも言えない不思議な感覚を覚えたが、勇気を出して話しかけてみた。


「あの…そこで…何をしてるの?

 変わった鳥でも見えるの?」

 と、僕は言った。


 しかし男の子は答えることもなく、ブツブツと独り言を言いながら円を描くように指を動かし始めた。


 すると突然、ジリジリと照りつける日差しを感じなくなり、薄気味悪い寒気を覚えた。

 狂ったように鳴き続ける蝉の声が、一瞬、止まったように感じた。

 木の幹にしがみつくように鳴いていた蝉がポトリと地面に落ちるのを見た。蝉の死骸なんて何度も見たことがあるのに、命が燃え尽きる瞬間を目の当たりにすると鳥肌が立った。


 ココにいてはいけないような気がして、踵を返そうとした瞬間、男の子は右腕を上げて「何か」を指差した。


「えっ…?」

 反射的にだったのか、僕は後ろを振り返った。


 こんなに晴れているというのに、霧のような白い煙が立ち込めていた。


「け…むり…?」

 僕は恐ろしさに駆られ、消え入りそうな声で言った。


 徐々に白い煙は地面に吸い込まれるようにして消えていき、秋には美しく色づくイチョウの木が現れた。

 この公園で最も美しく、木の下には沢山の人達が腰掛けるベンチがある。

 そのイチョウの木の枝が、風もないのに、不自然なほどに上下に揺れていた。



「なんか…変だね。

 見えないけど…何かがぶら下がっているみたいだ」

 僕は木から目を逸らし、男の子に目を向けた。


 すると男の子は僕をまじまじと見つめてきた。灰色の瞳は鋭く、途方もない威力があった。

 僕はその威力にのまれそうになったので、買い物袋をぎゅっと握り締めた。目を逸らしたら、男の子は口を聞いてくれないような気がしてならなかったのだ。


 お互いの瞳を見つめ合ったまま、時がゆっくりと流れた。


 木々がざわつくと、男の子は涼しげな笑みを浮かべ、大きく頷いた。


「あの木の枝にぶら下がっている子鬼を見ているんだ」

 と、男の子…つまり晴夜は言った。

 羨ましくなるぐらいの端正な顔から発せられた声は、同い年とは思えないほどに落ち着いていた。


「へ…?」

 僕は発せられた言葉に驚いて、買い物袋を落としそうになった。


 その綺麗な瞳をした男の子が冗談を言っているようにも思えず、僕は口を開けながら振り返った。


 木の葉が、バラバラと舞い散っていった。

 風もないのに不自然なほど揺れていたのは「何者」かが揺らしているのだと思うと納得がいく。

 漫画で見たことがある鬼が遊んでいる姿を想像すると、僕の開いていた口がガタガタと鳴り始めた。

 慌てて目を逸らし、嫌な想像を追い払うように首を振った。


 男の子は不思議な笑みを浮かべ、口元にそっと人差し指をよせた。

 

「驚かせてしまったね。

 君には、見えないんだよね。

 子鬼が枝にぶら下がって遊んでいるから、あの枝はもうすぐ折れるだろう。だから、あの木に近寄ったら危ないよ。

 今の私でもかけられる術を施しておいたから、人に当たることはないけどね。

 けれど奴等は何をするか分からない。命を喰らうのが、鬼だから。それは小鬼であっても同じことだ。

 小鬼を退治出来る人達がもうすぐ来てくれるけれど、君はココから立ち去った方がいい。

 人間の中でも…感受性が強いようだから」

 男の子はそう言うと、すくっと立ち上がった。


 立ち上がった男の子を見て、僕は一歩後ずさった。

 脚が長いせいなのか座っている時は分からなかったが、随分と背が高く170センチは超えているだろう。何かのスポーツをしているのか上半身は引き締まっていて、腕には力強い筋肉がついていた。

 背筋がスッと伸びているから立ち姿も綺麗で、誰もが目を惹くような美しさと逞しさに満ちていた。


 男の子はサヨナラとでもいうかのように会釈をしてくれると、爽やかな風のようにいなくなってしまった。


(夢か…夢を見てるのかな…)

 僕が立ち尽くしていると、ベビーカーを押した母親が公園に入ってきた。

 他の人の姿を見ると、蝉の鳴く声が耳に戻ってきて、暑さで変わった夢を見たわけでもないと理解した。

 僕は歩き出す力が出るまで、ベビーカーのタイヤが動くのをボッーと見ていた。


 三輪のベビーカーは迷うことなく、イチョウの木の下のベンチへと向かった。涼しげなベンチがあるから当然だろう。

 それに、もう一つのベンチの前には買い物袋を下げた知らない男の子が立っている。


 

「あっ…」

 僕は小さく声を漏らした。


 人に当たることはないと言っていたけれど、もしその親子に当たったりしたらと思うと僕は怖くなった。

 不自然に揺れる枝と澄んだ灰色の瞳を思い浮かべると、見ているだけではいられなくなった。

 突然見知らぬ子供に話しかけられた母親がビックリしないかと緊張しながらも、僕は母親がベンチに座る前にと走り出した。


「あの…すみません…」

 僕が小さな声で言うと、母親は少しビクッとしたが振り返ってくれた。


「あの…ベンチの真上の枝が腐ってきてるみたいなんです。

 さっき公園にいた人が教えてくれたんです。

 もうすぐ折れるかもしれないから、危ないですよ」

 僕がそう言うと、母親は少し驚いた顔をしたがニコッと笑ってくれた。


「そうなの?

 教えてくれて、ありが…」

 母親の言葉を遮るように、ザワザワとイチョウの木が揺れ動いた。

 

《オマエ、イマイマシイナァ》

 風に乗って耳障りな声がしたと思った瞬間、大きな音を上げながら枝が折れた。


 母親の悲鳴が上がった。

 枝は真っ逆さまに落ちることなく、クルクルと回転して幹に激突してから幹を滑り降り、地面にゴロンゴロンと転がった。


 木の枝は太くて、折れた部分が不自然なほどに尖っていた。



 母親は何度も僕にお礼を言ってくれると、急いで公園を出て行った。公園にいるのが僕だけになると、急に地面に落ちている枝が動いた。


 その切っ先は、邪魔をした忌々しい者に向けられた。

《柔らかい赤ん坊の代わりに、お前の肉を頂くぞ》と、怨嗟の声を上げたような気がした。


 僕が後ずさると、木の枝は逃げる兎を追うように嬉々としながら浮き上がった。

 小鬼がいると思われる付近から鈍い音がして、イチョウの木が激しく揺れた。

 僕は恐怖のあまりに目を瞑り、しゃがみ込んだ。ブルブルと震えていると、優しげな風のような何かが僕の頭を撫でた。

 恐る恐る顔を上げると、イチョウの木はいつものように静かで、枝も無くなっていたのだった。




 翌日、僕は同じ時刻に公園へと向かった。

 昨日と同じようにベンチに男の子が座っていることを願っていた。

 けれど公園には誰もいなかった。

 蝉の泣く声が響き渡り、昨日は吹かなかった風が吹くと、草木が嬉しそうに揺れていた。

 僕は公園の中に入ろうとしたが、イチョウの木が目に入ると足が動かなくなった。

 小鬼は、もういない。

 そんな事は分かっていたが、僕は外から公園の様子をしばらく伺っていたが、水筒のお茶が空っぽになると家へと帰ることにした。

 次の日も、そのまた次の日も、同じように公園へと駆けて行ったが灰色の瞳をした男の子の姿を見ることはなかったのだった。



 数日が経つと、照りつける太陽がみせた幻だったのではないかと僕は思うようになった。

 人間離れした男の子と不自然な枝と幹。

 最近あまりにも暑いから頭がどうにかなっていたのだろうと思いながら、僕はベッドに入った。

 明日はもう公園には行くのはやめて、読書感想文の本を買いに行こうと決めた。布団を頭まで被ると眠たくなってきたので目を閉じると、黄色く色づいたイチョウが舞い散る世界で「誰か」と仲良く話をしている夢を見たのだった。



 次の日、僕は本屋で購入する本を手にしながらウロウロ歩き回っていた。この本屋は小学生の頃から利用していたが、来月閉店するので名残惜しかった。

 絵本や漫画のコーナーを歩いてから、父が読むような小説のコーナーに着いた時だった。


「あっ…」

 僕は思わず声に出した。あんなに探していた男の子が目の前に立っていたからだ。

 静かな本屋の中で僕の声は響き渡り、男の子は声のした方を横目で見た。


「あの…ずっと探してたんだ」

 僕は近付いて行き声をかけると、男の子は手に取っていた本を本棚に戻した。


「出ようか?」

 男の子がそう言うと、僕は慌ててお会計をすませて男の子と一緒に本屋を出て行った。

 本屋を出てから横断歩道を渡り、少し歩いてから階段を降りて川沿いを歩き、日陰となっている橋の近くで男の子は立ち止まった。

 ここは春になったら、桜が綺麗に咲く。

 今は真夏で太陽が高く昇っているから人は少ないが、夕方になるとジョギングや犬の散歩をしている人で多くなるのだった。


「鬼って、本当にいるんだね」

 僕は話したいことがいっぱいあったのだが、胸がいっぱいになっていて出てきた言葉がそれだけだった。


 男の子は少し驚いた顔をして僕を見た。


「凄いね!

 本当に、人には折れた枝が当たらなかったんだよ!

 僕、びっくりしたよ!」

 僕はそう言うと、じっと僕の顔を見ている男の子に構わず一気に話し出した。川は日差しを浴びてキラキラと輝き、白い鳥が舞い降りてきて、僕達の前を涼しげに泳ぎ過ぎていった。


「ベビーカー連れの人に、お礼言われちゃってさ。

 僕は何にもしてないんだけどさ、なんかアメコミに出てくるヒーローにでもなった気分だったよ」

 僕は興奮しながら言った。

 

「君は…信じてくれたんだ。

 私が術を施していたとはいえ、2人の命を救ったのは私ではなく君だよ。

 君が、救ったんだ」

 男の子は真っ直ぐに僕の瞳を見つめながら言った。灰色の瞳は僕を讃えてくれるように光っていた。


「あっ…ありがとう。

 僕、一樹イツキって言うの!

 名前は?」

 僕は少し赤くなりながら言った。


「私の名は、その人によって変わるんだ」

 男の子は真面目な顔でそう言ったが、僕の頭の中には沢山の疑問符が浮かんでいた。


 それが、僕達の出会いだった。


 *



 晴夜は駅から少し坂を登った閑静な住宅街に住んでいる。娯楽施設がない代わりに、お洒落なレストランとカフェが並んでいる。

 5階建のマンションの最上階に住んでいて、窓から美しい街を一望でき青い海まで見える。高層ビルと高層マンションがないから遮るものがなく、輝く夜空を近くに感じる事が出来るのだった。


 晴夜の言葉に甘えて、僕はよく遊びに行っている。

 今日も大学の友達と行った旅行のお土産を持って、晴夜のマンションのエントランスに入った。部屋番号を押し、応答こそなかったがロックが解除されると、数週間ぶりに晴夜と話をするのを楽しみにしながらエレベーターに乗った。


 エレベーターを降り、晴夜の部屋のインターホンを押すと、ドアがゆっくりと開いた。

「ひさしぶ…」

 最後まで言い終わらないうちに、僕は衝撃で固まってしまった。


 玄関のドアを開けてくれたのは、晴夜ではなかった。


 そこには、紫色のワンピースを着た色白の美人が立っていた。横で一つに束ねられた艶のある美しい髪、くっきりとした二重を縁取るのは長い睫毛だった。

 軽くお辞儀をしてくれると、彼女から優雅な香りがした。心を鎮めるような苛立った気持ちを落ち着かせてくれるような香りだった。

 彼女は麗しい笑みを浮かべながら、玄関マットに置かれたスリッパをすすめてくれた。



「あ…お邪魔…します」

 僕はそう言ったが、本当に邪魔をしてしまったのではないかと申し訳なくなった。


 楚々とした美人にドキドキしながら、ぎこちない足取りでリビングへと向かった。

 晴夜はソファーに座りながら本を読んでいた。何か調べ物でもしているのかテーブルには本が積み上げられ、珈琲とガラスのコップが置かれていた。

 晴夜がチラリと僕の方を見ると、僕は晴夜の隣にドカリと座った。


「晴夜に彼女がいたなんて知らなかったよ。今日彼女が来るって言ってくれたら遠慮したのにさ。

 あんなに美しい人は…初めてみたよ」 

 僕は台所にいる彼女に聞こえないように小さな声で言った。


「彼女?美しい人?」

 晴夜は本を読むのをやめて、怪訝な顔で僕を見た。


「え?彼女だろう?」

 僕達の間で不思議な押し問答が繰り広げられた。

 僕が台所に立っている彼女の方に視線を向けると、晴夜もその視線の先を見つめた。


「あぁ、そうか。

 一樹は、菖蒲に会うのは初めてだったな」

 晴夜はそう言うと、手に持っていた本をテーブルに置いて彼女の名を呼んだ。


 下を向いていた彼女は顔を上げると、ニコッと微笑んだ。


 僕の分まで珈琲を用意してくれた彼女は、お盆に珈琲をのせて静々と歩いてきた。

 見れば見るほど清楚で奥ゆかしい。歩く姿は百合の花という言葉を聞いたことがあるが、こういう女性をいうのだろう。その上品さは、同じ人間とも思えないほどだった。

 彼女は腰を屈めると、音も立てずにテーブルに珈琲カップを置いてくれた。

 僕はお礼を言うのがやっとだったが、彼女は優しい微笑みを浮かべてくれた。屈めていた腰を伸ばすと、すっとした立ち姿に目を奪われた。


 彼女もまた晴夜の隣にそっと座ると、風で揺れる花のように少しだけ男の方に体を近づけた。

 座るとスカートが少しあがるせいか、白い太腿が少しだけ見えた。


(おい!)


 イケナイものを見せられているような気がして、僕はドキドキした。


 しかし晴夜は隣に美しい女性が座っていると感じる様子もなく、テーブルの上のガラスのコップを手に取った。


「水はもうないか…」

 と、晴夜は呟いた。


 そして緊張が顔に出ているであろう僕の顔を見ると、コップの中に残っていた溶けかけの氷を優しく指でとった。

 男は濡れた手で、水を滴らせながら、彼女の元へとソレを運んでいった。


「お食べ」

 晴夜は囁くように言った。

 彼女は男の瞳を見つめながら、ゆっくりと自らの瞳を閉じた。艶めく唇を少し震わせながらも、男の言葉通りにソレが入るぐらいに口を半開きにした。

 男は水を滴らせながら、彼女の中にいれた。

 艶めく唇が濡れていき、彼女の全身も濡れていった…



 そう…彼女は濡れていったのだ。

 いや、正確には彼女ではなく、人形型に折られた綺麗な色の濡れた折り紙がヒラヒラと床に落ちた。


 口をあんぐり開けている僕を、晴夜は意地悪な目で見つめてきた。


「ガッカリしたような顔をしてるな」

 と、晴夜は言った。


「ちがうわ!」

 すっかり心を読まれていた僕が大きな声で言うと、晴夜は愉快そうに笑った。


「菖蒲は人間ではないし、折った私には大きな紙人形にしか見えない」

 晴夜は静かに言った。


 彼女は折り紙であって、人間ではない。

 同じ人間とも思えないと思ったのは、間違いではなかったのだ。

 晴夜が広げてくれた折り紙には、僕にはさっぱり分からない紫色の花が描かれていた。

 彼女が着ていたワンピースと同じ色だ。目を惹く紫色の花弁は彼女の美しさを思わせ、すっと伸びた葉は髪と凛とした立ち姿を思わせた。


「美しい葉だ。

 鬼が嫌う形をしている」

 晴夜はそう言ったが、僕には分からなかった。


「嫌う形?美しい形としか思えないけどな。

 でも…よく見ていたら…少し怖い気もする」

 僕がそう言うと、晴夜の瞳が少し光った。


「刀だよ。

 鬼を斬ることができる唯一の刀だ」

 と、晴夜は言った。


 その折り紙に描かれていた花が、菖蒲だった。

 彼女の正体は「式神」のようなものらしい。 

 菖蒲の葉は鬼が嫌う刀の形をしていて独特の匂いもあり、鬼が逃げていく。そこにあるだけで鬼から守ってくれる力があるという特別な花なのだ。

 

 鬼と戦う晴夜の『仕事』は『鬼喰い』という。

 男達が持つ刀には、特殊な力がある。


「それって…陰陽師みたいなものかな?」

 僕は以前そう聞いたが、晴夜は首を横に振った。

 

「どうちがうのかな?」と聞いたが「そのうちな」と言って、それ以上は何も教えてもらえなかった。


 月に一度、鬼喰いの会合があり、その時に仲間の1人が作ったものを晴夜ももらったらしい。

 水を飲ませたり衝撃を与えたりすると元の大きさの紙に戻ってしまうが、改良を加えた事で人間がするような事までも出来るようになったと喜んでいた。


「なんで僕には女性に見えたんだろう?」


「私が、そうなるように願いながら折ったからだ。

 折る私が願ったものになる。

 一樹に綺麗な菖蒲の花を見せようと思っていたら、そうなったのだ。花に水をあげたら、少し気になる表情をしていたけれどな。菖蒲に魅入られたかな?」

 晴夜がそう言うと、テーブルの上の濡れた折り紙がカサッと音を立てたような気がした。僕の脳裏に先程の美しい女性が浮かんだ。

 

「晴夜は恋人はいらないの?」

 と、僕は聞いた。 

 男の僕から見てもカッコいいのだから女性も放っておかないだろうけど、晴夜から女性の話は聞いたことがなかった。


「あぁ、そうだな」

 晴夜はそう言うと、香り高い珈琲を口に運んだ。


「どうして?」


「人付き合いが、煩わしい」

 と、晴夜は言った。それは、口癖の一つだった。


「そうなのかな…。

 さっきみたいに誰かと一緒に過ごすのは楽しいと思うけどな。晴夜には紙としか見えてなかったかもしれないけど…それが愛する人なら、なおさら」


「まぁ、そうかもしれない。

 だが、人それぞれだろう。

 一人でいる方が、安心できる者もいる。

 それに誰かと一緒にいることで、無条件に幸せになれるわけでもない。かえって不幸にする場合だってある」

 晴夜はそう言うと、テーブルの上の濡れた折り紙を見つめた。その折り紙は、もう人型となることはないのだろう。僕達の前で動くことはないのだ。


「それと…そうだな。

 私は鬼を仕留めそこなかったことはないが、これから先も絶対とは言い切れない。予期せぬ何かが、起こるかもしれない。

 例えばだが…逃げた鬼は賢くて、私は家までつけられていることに愚かにも気付かないとしよう。

 家には、私の大事な女性が、私の帰りを待っている」

 晴夜はゆっくりと言った。

 

 その光景を、僕は想像した。

 音も立てずに晴夜の後をつけて行く鬼の顔は、怒りと憎しみに満ちていた。憤怒の感情は体の痛みすらも忘れさせ、自分が味わった屈辱以上の苦しみを相手に与えてやろうとする憎しみの炎で燃えていた。


「鬼は、私には勝てないと知っている。

 しかし、己を傷つけた私を殺したいほど憎い。

 木に登り、カーテンの隙間から見えるのは、私と愛しい女性が抱き合っている姿だ。

 なら、簡単だ。

 私を死ぬほど苦しめるために、大事な女性を殺す。しかも人間では考えられぬほど残忍な方法でな。

 それが、鬼だ。

 この仕事をしている限り、女性は愛さないと決めている。

 幸せにできないのなら、自分の道に巻き込みたくはないんだ」

 晴夜はそう言うと、濡れてクシャクシャになった折り紙を側にあった銀色の箱にいれて静かに蓋をした。


 それは棺のように見えた。先程動いていた美しい女性の顔を思い浮かべると、僕は苦しくなった。

 僕は珈琲を飲んで気持ちを落ち着かせようと思い、女性がいれてくれたカップを手に取った。しかしカップをソーサーから持ち上げる時に手が震えてしまい、カタカタと音が鳴り響いた。


「人付き合いは煩わしいが、一樹は特別だ。

 ところで今日はどうしたんだ?気になる女性でも出来たのか?菖蒲が女性に見えたのなら、一樹はその女性の事を考えていたのだろう。

 何か…気にかかる事でもあるのか?」

 と、晴夜は言った。


「その…」

 僕は晴夜に特別だと言われたことが嬉しくなった。

 手の震えが止んだので珈琲を飲むと、いつも家で飲んでいるインスタントとは全くちがう味がした。

 

「あっ…美味しい…。

 お店で飲むみたいだよ」

 僕がそう言うと、晴夜は頷き笑ってくれた。


「大学のサークルで気になっている女の子がいてさ…由香っていうんだけど…。同じ大学ではないんだけど…」

 僕はそう切り出した。

 

 僕の大学のサークルは、近くの女子大とも交流している。友達が友達を連れてきたりもするから知らない人がたまにいたりする。僕もたまに顔を出すぐらいだから、実際今誰がいるのかもよく分かっていない。

 そんなサークルで、僕は由香に出会った。

 彼女を初めて見た時、本当に可愛い子だと思った。

 少し明るめのセミロングの髪に茶色がかった大きな瞳、淡い色のブラウスと白のスカートが優しげな雰囲気によく似合っていた。ブラウスから除く手首は細く、全体的に華奢だった。

 笑顔が可愛く、僕は彼女の事をもっと知りたくなって「どこの学部の子だろう?」と友達に尋ねた。


「さぁ?誰かが経済とか言ってた…ような」

「近くの女子大だって聞いたぞ」

「可愛いから、どこでもいいじゃん」

「おっ!狙ってんのかよ」

 とか、皆んな適当に答えるばかりだった。


「あの…〇〇女子大に通ってるの?」

 彼女と少し話をするようになった頃、僕は直接聞いてみた。彼女の手が止まり、茶色の瞳には僕が映った。

 しばらく僕を見つめてから小さく頷くと、可愛らしい笑顔を向けてくれた。


「一樹君は、この大学の社会学部…だったよね?

 あ…ごめんなさい。他の子のマネして私も一樹君って呼んじゃった」


「あっ…いいよ。一樹で」


「本当?!嬉しいな。

 良かったら、私のことも由香って呼んで」

 由香はそう言うと、風でサラサラと流れる髪を耳にかけた。チェーンの先にパールがついたピアスが見え、それはユラユラと揺れていた。


 こうして僕達はサークルで顔を合わせると、お互いに声をかけるようになった。彼女は笑顔を向けてくれるので、僕の話を楽しんでくれていると思っていた。

 だが構内で偶然見かけて声をかけようとすると、彼女の姿は忽然と消えるのだ。いつものゆっくりとした動作からは考えられない素早さだった。

 不思議に思った僕が一度角を曲がった由香を追いかけた事があったが、壁に消えたかのようにいなくなっていた。


(避けらているのかな?

 仲良くなったと思ったけど、サークル以外では話しかけない方がいいのかな?)

 と、僕は思い悩んでいた。


「どう…思う?晴夜」

 と、僕は言った。


「悪いが、男女のことは分からない。

 ただ…」


「ただ?」


「鬼は、ずっと人の姿はしていられない。

 人の姿は多大な力を消費するから。

 だから多くの鬼は必要な時だけ、人の姿をし、必要がなくなれば消えてしまう。

 消えてしまうと、一樹には姿が見えなくなる。

 けれど、私達鬼喰いには、その姿が見える」

 そう言った晴夜の表情は険しかった。

 僕を見つめる瞳が鋭くなると、僕は背筋が寒くなり思わず目を逸らした。


「由香は、鬼じゃないよ」

 僕は銀色の箱を見ながら言った。

 全く予想もしていなかった言葉に驚いたのと、気になっている人を鬼のように言われて少し複雑な気持ちになっていた。


「すまない。

 姿が消えると聞いて、心配になってな。

 こういう仕事をしているから、自然と結びつけてしまうのかもしれない」

 晴夜が優しい声で言うと、僕は男の方に顔を向けた。男の表情からは険しさは消えてなくなっていた。



「いや、いいよ。

 聞いたのは、僕の方だし。

 心配してくれて、ありがとう。

 これさ、旅行のお土産」

 僕はそう言うと、お土産の饅頭を手渡した。


 それから式神が作ったという美味しいご飯をご馳走になり、旅行の話をしていたら時間はどんどん過ぎていった。

 空には月が昇り、開いている窓から吹いてくる夜風が心地よかった。


「そろそろ帰るよ、ありがとう」

 僕がそう言って椅子から立ち上がると、一瞬グラッときた。そんな僕を晴夜は見つめていた。


「一樹、体の調子はどうだ?

 少し痩せたようだな」

 僕が玄関で靴を履いていると、後ろから晴夜がそう声をかけてきた。


「そうかな?

 たまに…さっきみたいな目眩がする時もあるけど、大丈夫だよ。春休みだったから、バイトを増やした疲れが出たのかもしれない。

 明日から…大学が始まるな。憂鬱だよ」

 と、僕は言った。


「そうか。明日から、大学か。

 あぁ…そうだ。

 先程の話の続きが気になるから、彼女に会った日は、必ず家に来いよ。彼女と話をしたのなら、私は聞かねばならない。

 一樹は、大切な友達だ。

 幸せになってくれたら、それでいい。

 暗くなってきたから、帰り道気をつけろ。最近、行方不明者が出てるみたいだからな」

 晴夜は心に刻みこむような低い声で言うと、僕の肩をポンっと叩いた。


 夜道を独り歩いていると、時折吹く風が冷たく感じた。

(どうして由香の事を、大学の友達ではなく晴夜に相談したのだろう?

 彼女の事は、大学の友達の方がよく知っているのに)

 そう思いながら地面に生えている草を見ると、それが僕には菖蒲の葉に見えたのだった。



 *



「一樹君、久しぶり。

 今日はサークルには寄らないの?」

 久しぶりの大学の授業が終わり帰ろうとしていた時に、僕は呼び止められた。後ろを振り返ると、そこには由香がニコニコしながら立っていた。


「久しぶり。

 今日は、帰るんだ。これからバイトがあるからさ」

 

「そっかぁ…。

 一樹君に…相談したいことがあったんだけどな」

 由香は残念そうな顔をしながら言うと、上目遣いで僕を見た。彼女の大きな瞳が僕をとらえて離さなかった。

 

(可愛い…。

 こんな子が鬼だなんて…ありえない。

 どうみても、人間だ)


「ごめん。

 明日もバイトがあるんだけど…それが終わってからでも良ければ」


「嬉しい!ありがとう!

 やっぱり一樹君は優しいね」

 と、由香は言った。


 明日バイトが終わってから、とあるカフェで由香の相談を聞くことになった。オープンテラスのあるお洒落なカフェだ。カプチーノが有名で、イタリアのような雰囲気を出している。滅多に行かないが、以前友達と行って雰囲気が良かったので、少し背伸びをしてみた。


「ありがとう。

 そういえば一樹君と外で会うのは、初めてだよね。

 楽しみにしてるね」

 由香は上目遣いで言うと、さりげなく僕の右腕に触れた。

 フワリといい香りがしたので、僕はまたクラクラしてしまった。


 その夜、僕はまた晴夜に会いに行った。

 会いに行ったというより足が勝手に動き、気付いたらマンションの前に立っていたという方が正しいのかもしれない。

 僕は晴夜の部屋の辺りを下からぼんやりと眺めた。

 すると、そこにいる男に「彼女との話を聞いてもらわねばならない」と思いに駆られて足がまた動き出した。


 晴夜は一人で酒を飲んでいた。

 仕事をした日は珈琲ではなく、酒を飲むらしい。

 今日は珍しく、晴夜の方から鬼喰いの話をしてきた。

 

「今日の鬼は、狡賢くてな。

 追い詰めたが、なかなか姿を消さないから大変だったよ」

 晴夜はそう言うと、桜吹雪が描かれたガラスの徳利を手に取りトクトクとグラスに注いだ。グラスに酒が注がれると、グラスに描かれた桜も揺れているようだった。


「一樹も、飲むか?」

 晴夜がそう言うと、僕は頷いた。

 

 そして、さらにこんなことも言った。


「人の姿をしている時は、よっぽどでない限り殺さない。

 私が鬼を殺す時は、人の姿から鬼の姿に戻った時だ。

 私が殺すのは、鬼だからだ。

 鬼の姿に戻れば、私は羽織を着る。羽織を着れば、私は一樹の目からは見えなくなる。私は鬼を捕らえて別の空間に連れて行き、刀で斬り殺すんだ」

 と、晴夜は言った。


 ー斬り殺すー


 晴夜が言うと、言葉の重みがちがう。

 本当に殺しているのだから。

 死闘の瞬間を想像してしまうと怖くなり喉が乾いていくのを感じ、注がれた酒を飲んでカラカラになった喉を潤した。


「それで、一樹…彼女と会ったのだろう?

 どんな話をしたのか聞かせてくれないか?」

 と、晴夜は言った。


「あっ…そうなんだ」

 僕はそう言うと、彼女の相談を聞く約束をした事を話した。気になっている子と2人で会うのだから楽しみなはずなのに、この瞬間の僕はそうではなかった。

 晴夜の目が怖かったからなのかもしれない。今までにも恋人の話をした事はあったが、その時の晴夜は微笑みを浮かべながら聞いてくれていた。


 晴夜は黙って頷いた。


「そうだ、一樹。

 軽く食べてから、帰るといい」

 と、晴夜は言った。


「ありがとう。

 でも、あんまりお腹が空いてないんだよね。今日のバイトは忙しかったはずなのに。なんでだろう…」

 僕がそう言うと、晴夜は立ち上がって台所に向かっていった。珈琲と白い皿にはサラダと僕が好きなカツサンドがのっていた。駅近くのデパートで売られている商品で、学生の僕にはなかなか手が出せない高級品だった。

 

「あっ、これ!美味いやつだよね!」

 僕がそう声を上げると、晴夜は微笑みを浮かべてくれた。

 いろいろ話をしながらカツサンドを食べ終えると、僕は終電がなくなる前に帰ることにした。


 玄関で靴を履いていると、晴夜が後ろからまた僕の肩をポンっと叩いた。


「一樹、饅頭美味しかったよ。

 ありがとう」

 と、晴夜は言った。

 

「そう?良かった。あれ、僕も好きなんだ。

 景色が綺麗だったから、また行きたいんだ。秋には綺麗な紅葉が咲くからさ。

 また行ったら、買ってくるよ」

 と、僕は言った。


「あぁ…ありがとう。

 また、行けるといいな。

 いや、秋の紅葉を見に行くといい」

 と、晴夜は静かな声で言ったのだった。



 *  



 翌日、僕は緊張しながらカフェのテラスに座っていた。

 隣には、ワンピースにカーディガンを羽織った由香が座っている。サラサラの髪の毛が風で揺れると、チェーンの先にパールがついたピアスがきらめき、今日はいつも以上に可愛く見えた。

 周りからはカップルに見えているのかもしれないと思うと、僕は嬉しくなった。


 カプチーノとケーキが運ばれてくると、僕は先にケーキに手を伸ばした。


「ここのケーキ、初めて食べたけど美味しいな。

 由香は食べないの?」

 と、僕は聞いた。


「ケーキ?

 食べたいけど…いらないかなぁ。

 だって…太っちゃうじゃない」

 と、由香は言った。


「そう…かな?

 由香は太ってないよ。

 食べたいなら、食べたらいいと思うけど」

 と、僕は言った。

 そういえば由香がサークルで何かを食べている姿を見たことがなかった。


「え?でも…男の人って…細い子の方が好きなんでしょ?」

 と、由香は言った。


「そうなんかな?

 細い子が好きな男もいるけど、そうじゃない奴もいる。僕の周りでも好みはいろいろだよ。それに好きになった子がタイプっていう男もいるし。

 細くても、ぽっちゃりしてても、それは本人がどう思うかだと思う。自分を捨てて好きな男に合わせたら、他も全部合わせないといけなくなる。

 それって、しんどくない?」

 と、僕は言った。

 前の彼女に合わせて服装が自分の好みから外れ、結局しんどくなって別れたことを僕は思い出していた。

 ある日、鏡に映った自分を見て、自分が無理をしてるように感じたのだった。あの頃買った服は着ることもなく、クローゼットに眠っている。


 けれど由香の返答はなく、横目でジロリと僕を見ていた。その目は嘘つき者に向けるような嫌悪の念がこもっていた。


 由香は口を開こうとしたがキュッと口を結ぶと、サラサラと揺れる髪を耳にかけた。白いパールが輝くと、僕は白い輝きから目を離せなくなった。


「一樹くん…相談したいことなんだけど…」

 由香はそう言うと、周囲からはテーブルで隠れている僕の太腿にそっと手を触れた。

 その大胆さに驚いたが、置かれた手は驚くほど軽いのに妙に柔らかいので気持ちがよくなり、彼女からはいい香りがしたので僕はクラクラした。


 その瞬間、誰かが揺れている僕の肩に触れた。


「一樹」

 と、男は僕の名を呼んだ。

 

 すると、由香は太腿に置いていた手をさっと引っ込めた。


 そこには、晴夜が立っていた。

 ジャケットにズボンという僕と同じような格好だったが、整えられた髪に磨き上げられた靴を履く晴夜がいるだけで、この場所がハリウッド映画の中のワンシーンのように思えた。


 流れる空気が変わり、カフェにいる誰もが夢のような男を見つめていた。


「偶然だな。

 私も、そこにいたんだ。

 一樹によく似た人がいるなと思って、急に声をかけてしまった。話してる最中に、すまない」

 と、晴夜は言った。


 晴夜は店内のカウンター席に目配せをした。

 そこには飲み終わった後の珈琲カップが置かれていた。誰かが座っていた事は明らかだ。

 店に入った時は、全く気づかなかった。僕が入ってから晴夜も来たのだろうか?そんな事はどうでもいい。

 昨日話したのだから、偶然じゃないことだけは分かっていた。


 晴夜は灰色の瞳でジロリと由香を見下ろした。

 それは、僕が今まで見たこともないくらいに冷たい眼差しだった。



「なんで…」

 思わず立ち上がると、急に僕は吐き気をもよおした。


「ちょっと、ごめん…」

 僕は慌てて席を離れた。

 店の角を曲がったところにあるベンチに座り、新鮮な空気を吸い不快感を鎮めてから店に戻ると、晴夜が僕の席に座わっていた。

 晴夜は由香の顔をじっと見ていたが、ゆっくりと顔を近づけていくとパールが揺れる耳元で何かを囁いた。


 すると、由香は顔を赤くした。


 その光景を見た僕は立ち止まった。耳元で揺れていたパールの動きがとまったように、僕の足も動かなくなった。

 晴夜は立ち上がると周りを見渡し、僕を見つけると近づいてきた。


「邪魔をして悪かった。

 私は、帰るよ。

 一樹、彼女が待っている」

 晴夜はそう言うと、立ちすくんでいる僕の太腿に触れてから何事もなかったかのように去っていった。

 何人かの女性が目で晴夜を追っていたが、由香は下を向いたままだった。


 席に戻ったが、僕達の間に流れるのは嫌な沈黙だけだった。由香はずっと下を向いているし、僕も何を話せばいいのか分からずに、冷め切ったカプチーノを飲みながら通り過ぎる人達を眺めていた。


「そろそろ帰ろうか?駅まで送るよ」

 僕がそう言うと、由香は下を向いたまま頷いた。

 駅まで送って行くと、ずっと下を向いたままだった由香が急に顔を上げた。


「さっきの男の人って…一樹君の友達なんだよね?

 す…てき…な人だよね。

 名前はなんて言うの?大学生?何をしている方なのかな?」

 由香は赤い顔をしながら言ったのだった。



 彼女と別れた僕は夕暮れの空を眺めていたが、由香の赤く染まった頬を思い出すとたまらなくなって、晴夜のマンションへと向かった。


(由香に何を言っただろう?

 晴夜は何をしに来たのだろう?) 

 怒りよりも悲しい気持ちで胸が一杯になり、僕は苦しくなっていった。





「《一樹は、私の大事な友達だ》と言ったんだ」

 と、晴夜は答えた。


 晴夜は僕が来る事を予期していたかのように、連絡もなしに行ったのに驚かなかった。

 ただ、リビングのソファーに座っている晴夜は先程とは違い全身が黒ずくめだった。

 その色は夜の闇に溶け込むほどに漆黒で、黒を纏う男の瞳は鋭くて異様な怖さを覚えた。


(それだけ…?

 なんで、耳元で言う必要があるんだろう?)

 僕がそう思うと、晴夜は真っ直ぐに僕を見つめてきた。


「あの女に、何か言われたのか?」

 晴夜の口調は鋭くて、晴夜らしからぬ乱暴さがあった。


「晴夜のこと…いろいろ聞かれた。

 名前とか…何をしてる人なのか…って」

 僕がそう言うと、晴夜はため息をついた。


 その時、由香からの連絡が入った。

 僕が携帯に目を通していると、晴夜が立ち上がりカーテンを勢いよく閉めた。


「あの女からなら、なんて書かれているのか、教えてくれないか?」

 と、晴夜は言った。


「え…?あっ…分かった」

 その口調には有無を言わさぬものがあったので、僕は書かれていた文言をそのまま読み上げた。


「今日は、ありがとう。

 サークル以外でも、一樹君と会えて嬉しかった。

 でも…ちょっと…頭が混乱して…あんな感じになっちゃってごめんなさい。

 謝りたかったのと、聞いてもらいたいことがあって。

 もしよかったら…今から会えないかな?

 突然、ごめんなさい。

 電話じゃなくて、一樹くんの顔を見ながら、お話したいの。

 その…一樹君の友達に…今度2人で会おうって誘われちゃって…。

 でも私…一樹君の事を想うと…どうしたらいいのか分からなくて…」

 僕は最後まで読み終わると、携帯を持つ手が震え出した。


(誘われた!?バカな!

 晴夜は友達が気になっている女の子に手を出すような男じゃない…)

 僕は眉をひそめながら顔を上げると、晴夜は呆れたような顔をしていた。


「忠告したんだがな。

 アヤツ、焦り出したな。

 やはり、今夜動くつもりだな」

 と、晴夜は言った。

 

「へ?あやつ?動く?

 晴夜…それって…一体…」


「それでも一樹が喰いたいか。

 それほどまでに美しさを欲するか。

 自滅の道も選ばせてやったのに…斬り殺される道を選んだか」

 晴夜は独り言のように呟くと、真剣な瞳で僕を見つめた。


「一樹、あの女は鬼だ」

 と、晴夜は言った。


「え?なんで?

 晴夜は一度会っただけなのに…そんな…」

 僕は途切れ途切れに答えた。


「一度、会っただけだ。

 だが、一度会えば十分だ。

 私は、鬼喰いだ」


「けど…そんな…由香は人間だよ。

 それにサークルにも来てるし、他の女の子と同じだし…人間の言葉も話すし…カプチーノだって飲んでたし…」

 僕の頭の中はひどく混乱して、訳の分からないことを話し始めた。


「人に姿を変えて、鬼は存在する。

 はじめは人間だった鬼もいる。

 由香の素性は確かではないし、人間とは違い突然いなくなる。

 他にも、何か違和感を感じた事はなかったか?」

 晴夜がそう言うと、僕は由香の顔を思い浮かべた。


「そういえば…何かを食べているところを見たことがない。

 太るからだって…言ってたけど」

 僕は真っ青になりながら、華奢なのにそれでも体重を気にしている話をした。


「ろくでもない男につかまったんだろう。

 女性をトロフィーのように扱う男とな。

 美の意味を知らぬ男に狂わされ、鬼に魅入られたか」

 晴夜はそう言うと、僕の肩に触れた。


「それに私は一樹の体を調べたんだ。

 何も言わずに、勝手にすまなかった」


「体を!なんで?どうやって?」

 僕は訳が分からなくなって、素っ頓狂な声を上げた。


「何度か一樹の肩に触り、鬼喰いの力を使って、鬼が触れていないかを調べたんだ。

 右腕に、鬼が触れた形跡があった」

 と、晴夜は言った。


「嘘だ…」

 と、僕は呟いた。


「少し痩せたし、食欲がない時もあったはずだ。

 鬼に生気を吸われ、体が悲鳴を上げていたからだ。

 アヤツは、一樹を喰うつもりだ。

 私は、忠告したんだがな。

《一樹は、私の大事な友達だ。

 次にまた人を喰うなら斬るぞ、さもなくば死を選べ》とな」


「そんな…まさか…」


「アヤツは、一樹が喰いたくて、我慢できずに行動に移した。

 アヤツは鬼の力を使って一樹を魅了し、獲物に触れたのだ。次に喰うのは、一樹でなければならない」

 晴夜はそう言うと、人差し指を出して軽く左右に動かした。その動きを見ていると、僕は由香の耳を飾るパールを思い出した。


「まさか…あのピアス…」


「そうだ。

 獲物の思考を鈍らせる。

 一樹、私はアヤツを斬らねばならない。

 君が、好意を寄せた女性を殺す」

 晴夜は僕を真っ直ぐに見ながら言った。

 

 

(信じたくない…でも、由香は鬼なんだ。

 鬼なんだ。

 人を喰う…僕を喰おうとしている鬼なんだ)


「…わかっ…た」

 と、僕は言った。


「駅まで呼び出して欲しい。

 私の式神をつけているから、他の人間を襲うことはない。

 アヤツは焦っているから、深くは考えずに来るだろう」

 晴夜がそう言うと、僕は由香に連絡をした。


「30分後ぐらいに…来れそうだって」

 僕は由香からの返信をそのまま晴夜に伝えた。


「了解した」

 晴夜はそう言うと、リビングを出て行った。


 しばらくすると晴夜は例の折り紙と黒い羽織、そして日本刀を持って戻ってきた。

 晴夜は折り紙を人型に折ると、優しく口づけをした。


「汝に生を与え、声を授けよう。

 その身を「かの者」とし、鬼喰いである我に使えよ」

 晴夜が唱えると、僕そっくりの男が姿を現した。


「私は、行ってくる。

 一樹は、ここで待っていろ。

 ここにいれば安全だ」

 晴夜はそう言うと、式神と一緒に出て行こうとした。


「嫌だ!僕も行きたい!

 僕を騙していたのか…本当に鬼なのか…」

 僕が声を震わせながら言うと、晴夜は悲しい顔で僕を見た。


「鬼になったら、すぐに斬り殺す。

 その瞬間を、見たいのか?

 鬼といえども、一樹が好意を寄せた女性だ」


 僕は脳裏に由香が斬り裂かれていく姿を思い浮かべると、唇を噛んだ。


「おそらく体調が悪くなるだろう。

 意識を失うこともある。

 そして鬼といえども、死ぬ瞬間は酷いものだ。

 生涯、忘れる事が出来ぬぞ。

 それでも、いいのか?」


「最後まで…見届けたいんだ…」


「そうか、分かった。

 こうならないように以前に鬼喰いの話をしたんだがな。

 一樹の望み通りにしよう。

 一樹が意識を失えば、私が連れて帰ってやる。

 目を閉じろ」

 と、晴夜は言った。

 

 僕がゆっくりと目を閉じると、晴夜は僕の瞼に触れ、小声で何かを唱えた。その言葉の意味は僕には分からなかったが、唱え終わると瞼が温かくなっていった。


「別の空間には連れて行けないが、見えるようにしておいた。気持ちが悪くなったら、目をつぶれ。

 他に何か聞いておきたいことがあるか?」

 と、晴夜は言った。


「真名の事なんだけど…真名を知られたら、この仕事を続けられないって、どういう事なのか…」


「今、知りたいのか?」

 晴夜は困ったような顔をしたが、僕は頷いた。


「ならば、軽く話しておこう。

 真名は、最も秘密にしなければならない。

 名はその者が生まれてから、一生その者と在り続ける。

 その者が何を感じ、何を見、何をするのか、全てその名のもとで行われることだ。

 名は、ただの文字ではない。

 その者の全てを刻んでいる。

 今までの鬼との戦い方も刻まれる。どう攻撃をされたら、どう防ぐのか。だから名を知られれば、戦法と癖を知られてしまう。そうなればその鬼喰いは死ぬしかない。

 さらに氏は、祖先から受け継いできたもの。鬼喰いの力は祖先と共にある。水は水、火は火、風は風、他の幾多もある別の根源にはなれない。祖先によって、力の根源が定められている。

 力の根源が分かれば、鬼は対極の力で戦ってくる。

 だから鬼喰いは、真名を誰にも明かさない。

 そういう事だ」

 晴夜がそう言うと、僕は恐ろしくなり体が震えた。


「どうした?体が震えてるぞ」

 と、晴夜は言った。


「由香に…名前を教えたんだ。

 晴夜っていう名前だと…真名じゃないから大丈夫かな…って。大丈夫…だよね?」

 僕は震えた声で言った。

 

「さぁ、どうかな?

 偽りの名ですら、鬼に知られた事がないから分からない。

 ただ…偽りの名でも何年も呼ばれ続けると、その者と在り続けるのかもしれないな」

 晴夜がそう言うと、僕は自分のした事を後悔した。

 大切な友達を危険に晒してしまうかもしれないと思うと、立っていられなくなってその場にヘナヘナと崩れ落ちた。

 

「冗談だ。

 偽は偽であり、真にはなれん」

 晴夜はそう言うと、崩れ落ちている僕の腕を掴んだ。


「なんだ…冗談か…良かった…」

 僕はヨロヨロと立ち上がった。


「そうだ。

 それぐらいの余裕がある。

 一樹は、何も、気にするな」

 晴夜が日本刀を強く握り締めると、僕は初めて近くで感じた日本刀の迫力に圧倒された。


「これが、私の刀だ。

 鬼喰いの刀だ。

 この刀に、鬼の血を吸わせ肉を喰わせる。

 その度に、刀は強くなる。

 絶対に守ってやる。

 安心しろ」

 晴夜はそう言うと、僕に微笑みかけてくれた。


「晴夜…あの…御礼は…どうしたらいい?」

 と、僕は言った。

 僕を気遣う微笑みを見ると、胸が苦しくてたまらくなった。


「御礼?そんな事は気にするな。

 一樹は、大切な友達だ。

 幸せになってくれたら、それでいいと言っただろう。

 一樹が幸せになる為に、それを阻もうとする鬼を斬り殺すだけだ」

 晴夜が僕を見る瞳は、どこまでも優しかった。


「それでは…僕の気がすまない。

 晴夜を危険に晒して…命を助けてもらって…何もしないなんて…」

 僕の声が小さくなっていくと、晴夜は首を横に振った。


「本当に、いいんだ。

 友達だろう?気を遣わないでくれ。

 それに一樹の方こそ、今まで何度も私を助けてくれたんだ」

 晴夜はそう言ったが、今度は僕の方が首を横に振った。

 

「ならば、一樹が一番好きな日本酒を持ってきてくれ。

 共に、その酒を飲もう。楽しみにしているぞ。

 そろそろ時間だ。行こう」

 晴夜は灰色の瞳を光らせた。





 僕の姿をした式神が先に歩き、僕達は距離をとりながら式神の後ろを歩いた。晴夜は一言も喋らずに、真剣な瞳で辺りに気を配っていた。鬼喰いの刀は羽織で包まれると、不思議なことに刀には見えなかった。


 式神が駅に着くと、すでに由香は待っていた。

 由香は式神を見ると笑顔を浮かべ、積極的に式神の手を握り歩き始めた。

 駅を出ると、近くに流れている川の音のする方に向かって進み出した。

 この川は、僕が晴夜を本屋で見つけてから、向かった川だ。あの時鬼の存在を初めて知り、今は鬼に喰われそうになっている…なんとも悲しい気持ちになった。

 そんな僕の気持ちのように、冷たい夜風に吹かれた桜がヒラヒラと舞っていた。

 この川沿いには、まだ桜が咲いている。

 あと一週間もすれば、桜は散っていくだろう。

 見上げた空には舞い散る桜と、煌々と輝く月が見えた。


 僕の腕時計の針は23時を過ぎているから、人通りは少ない。それでも由香は、月の光すらも届かない暗い場所を探して歩き続けた。

 由香の隣には、僕の姿をした式神が歩いている。

 晴夜が気づいてくれなければ、式神ではなく僕が歩いていたのだ。

 そうして…僕はパールの力で幸せな夢を見ながら…鬼に喰われるのだろう。



 そして街灯もなく、月の光を遮るような大きな桜の木の下で、由香は立ち止まった。

 艶めかしい表情を浮かべながら男を見つめると、ゆっくりと体を寄せていった。

 式神の腰に自らの細い腕を回し、慣れた手つきで棒立ちになっている式神の手を掴むと、自らの体に触れさせた。 

 式神が華奢な体を抱き締めると、女もギュッと男の体にしがみついた。


 僕は息を呑んだ。

 由香の細い両腕が倍以上の太さになり、体はどんどん大きくなっていった。

(鬼だ!)

 僕は大声で叫びそうになったが、開かれた口からは何も出てこなかった。


 鬼の両腕にはどんどん力がはいり、式神は押し潰されて破裂した。

 だが血飛沫は上がらず肉も飛び散らず、色鮮やかな紙片が鬼を嘲笑うかのように桜と共にハラハラと舞い散った。

 鬼が憤怒の声を上げると、紙片と桜が舞い散ったあとには1人の男が立っていた。


 その者は、黒い羽織を着た男だった。 

 男は、音を立てることもなく鬼へと近づいていた。


《鬼には、死を》

 晴夜は血も凍りそうな声で言うと、鬼喰いの刀を鞘から抜いた。


《オマエカァ…イマイマシイ!》

 鬼の顔が怒りでどんどん赤くなっていった。

 鬼は晴夜に飛びかかろうとしたが、銀色に輝く晴夜の刀を見ると悲鳴を上げた。


 一瞬だった。


 背中を向けて鬼は逃げようとしたが、晴夜は風のような速さで鬼を一刀両断した。

 鬼の悲鳴は僕を震え上がらせ、目に映るもの全てが血飛沫で紅く染まっていった。僕の目の前に広がる世界は、残酷なまでに切り裂かれピクピク動いている肉塊と血の海となった。


 黒い羽織は、鬼の血には染まっていない。

 晴夜は恐ろしい瞳をしながら、ピクピクと動き続けている肉塊に、鬼喰いの刀を突き刺した。

 銀色の刃は鬼の血を吸っているのか紅くなり、奇妙な音を上げながら赤黒くなっていった。

 これが、刀が鬼を喰うということなのだろうか…。刀が、血を吸い、肉と骨を喰らうのだ。

 肉塊が萎び果て、何も無くなると、刃は銀色にもどり、血の海も消えていった。


 全てが終わったのだろう。

 晴夜が、僕を見た。

 晴夜の頬だけが、血で染まっている。

 そして桜の木の下に立つ鬼を殺した男へと、美しい桜の花が舞い落ちていった。


 美しかった。

 そして、恐ろしかった。


 晴夜は刀を鞘に納めると黒い羽織を脱ぎ、刀を見えないように羽織で包んだ。

 頬についた鬼の血を拭うと僕の方に向かって来たが、僕は意識を失い、その場に倒れ込んだのだった。



 *



「晴夜!いい酒を持ってきた!

 すごい美味い酒だ!」


 数日後、僕は飲んだこともないような高級な日本酒を買って晴夜のマンションに行った。

 晴夜が言ったのは「一番好きな酒」であり「高級な酒」ではない。だが、それだと僕の気がすまなかった。

 晴夜と何年も一緒にいて鬼の話も聞いていたのに、よりにもよって鬼に騙され、喰い殺されそうになっていたなんて自分が情けなかった。


 箱から日本酒を開けた晴夜の手が止まり、僕の顔をじっと見た。

 僕が黙って頷くと、晴夜は「一緒に飲もうか」と言った。


「ほんと見る目ないよな。

 良いなと思った子が、鬼だったなんてさ。

 見た目の可愛さに騙されてさ。

 ほんっとバカだよな」

 僕は恥ずかしさを隠すように、早口で捲し立てた。


「いや…本当に上手く化けていたよ」

 と、晴夜は言った。



(哀れだ…。

 自分の愚かさを痛感する)

 晴夜が優しく慰めてくれればくれるほど、僕は自分が嫌になり顔を上げられなくなった。


「一樹。

 人間とはな、狂えば、とても恐ろしい鬼になる」

 晴夜は静かな声で言った。


「僕…は…何も分かっちゃいなかったんだ。

 何も…」


「一樹が、彼女の事を話してくれたから、私は鬼を退治できたんだ。一樹でなかったら、誰も気づかずに、別の誰かが喰べられていた。

 彼女も、ずっと鬼の姿でいる事を望んではいなかっただろう。彼女も狂わされたのだろう…終わらせてやらねばならない。

 一樹は、誰かの命と彼女を救ったんだ。

 それでいい。もう、それ以上は、何も言うな」

 晴夜はそう言うと、泣いている僕の肩を抱き寄せた。



 晴夜からは全てを忘れさせてくれるような…かぐわしい花のような香りがしたのだった。

 

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鬼を斬る君と僕の物語 大林 朔也 @penpen2017

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