ルシフェルの爪先
吉岡梅
薄氷を踏む少女
常緑樹の緑が嘘くさいのは、空気の澄んだ寒空のせいだろうか。ぼんやりと思考を開始したのをきっかけに我に返り、軽く首を振る。駅へと続く小道の真ん中で立ち尽くしたまま頬を膨らませ、ふぅっ、とひとつ大きなため息を吐くと、目の前に真っ白な呼気が現れてすぐ流れた。
自動販売機でホットコーヒーを買い、両手で弄びながら植樹帯の縁へと腰掛けた。もう3年はこの道を通っているが、この自販機で何かを買うのは初めてだ。少し迷ったがプルトップを引き起こし、熱いコーヒーを喉へと流し込む。たちまち喉から胸が焼かれ息が詰まるが、構わずに半分ほどを一気に腹へと収めた。
まるで言い訳みたいだな。そう考えて琢磨は自虐的に笑った。言い訳。寒空の中駅へと向かうから。火傷しそうなほどのコーヒーを飲んだから。自分は辛い目に合ったのだから。だから。――だから代わりに誰かを欺いても構わないだろう。
「なんだそれ」
思わず口を突いて出た言葉に驚いて辺りを見渡す。だが、早朝のうらぶれた路地に人はいない。そこにいるのは琢磨と自販機と街路樹、そしていくつかの水たまりくらいであった。水たまりは小さな塵や葉を巻き込んだまま薄く凍り、寒々と冬光を散らしている。
再び、琢磨は動けなくなっていた。座して両手でコーヒーの缶を握ったまま。頭の中には昨日の
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「
小林はデスクの前に琢磨を立たせたまま、室内に響き渡る怒声を上げていた。周りの皆は息をひそめ、こちらを見ずに黙々と手を動かしている。
琢磨は項垂れたまま小林の顔を見るともなしに見ていた。よくここまで怒れるものだ。元はと言えば、自分が出した不明瞭で間違った指示が原因であるのに。それを誤魔化すように怒鳴っているのだろうか。琢磨が黙っていると、さらに激して捲し立てる。
「何とか言ったらどうだ! お前がやらないからこうなってるんだろ! つべこべいわずにやれ!」
小林の中では完全に悪いのは琢磨という事になっているようだ。信じがたい事だが世の中には、自ら招いた不備を本気で他人のせいだと思い、憎むことができる人間がいる。誤魔化すために怒鳴るのではない、本当に相手が悪いと思い込み、心の底から湧き上がる怒りのために怒鳴ることができる人物が。目の前の小林は、そのひとりだ。琢磨が小さく返事を返すと、今度は、殊更ゆっくりと言葉を続けた。
「やれ。1日だけ待ってやる。いいか千賀、お前がやらなきゃ他の誰かがやるだけだ。モラルがどうとか、ルールがどうとか甘っちょろい事考えてるんじゃないぞ。千賀、この世の中というのはな、モラルを一歩踏み超えたやつが得をするようになってんだよ。できない奴は、そこまでだ。お前はそれでいいのか? 良くないだろ。それともプライドが許さないってか? その成績で? そんな理屈は通らないだろ。いいからやれ。わかったな」
琢磨が頭を下げて下がろうとすると、諭すような口調でさらに言う。
「これはお前の為でもあるんだぞ。なにもお客様の命まで取ろうってんじゃない。ちょっと普段より手厚くご協力いただくだけだ。お客様は我々のサービスに満足し、我々は対価を得る。それだけだ。そしてお前の成績はグンと上がる。わかったな」
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ぼんやりと両手で握った缶を見つめていると、その先をさっと何かが通り過ぎた。顔を上げると、それは一人の少女だった。
どこかへ習い事にでも行くのだろうか。少女は手提げ鞄を持ち、真っ直ぐに駅の方へと歩いていく。自分とは大違いだ。琢磨がそう考えていると、不意に少女が足を止めた。何事だろう。そのまま様子を窺っていると、どうやら足元の水たまりを熱心に見つめている。
微かに見える少女の横顔には緊張が見て取れる。ぎゅっと下唇を噛み、瞳をこらし、両の手は固く握りしめられている。そのまましばらく水たまりを見つめていたが、ややあって、そっと右足を浮かせた。
すっと上げられた少女の靴が水たまりの上でぴたりと制止し、そこから少しづつ、少しづつ下げられていく。そしてつま先が薄氷に触れるか触れないかまでの距離まで近づくと、一気に踏みつける様に降ろされた。
ぱしゃん。
薄氷の割れる小さな音が寒空の中に消えていく。少女の顔には嬉しそうな、それでいて誇らしそうな色が広がる。だが、琢磨の視線に気が付くと、きまり悪そうにくるりと踵を返し、逃げるように駆けて行った。
琢磨はくすりと笑った。きっとあの少女にとっては、薄氷を割るという行為は、大それた行為であったのだろう。恐らくは、初めての。
家族か、あるいは、教師か、氷を踏みつけて靴を汚さないようにと言われてきた少女が、初めて氷を踏んだのだろう。氷を踏むと言う行為は、彼女にとっては単なる娯楽ではない。それは、彼女自身を拡張する行為だったのだろう。あの嬉しそうな顔。誇らしげな顔。ただ氷を踏むだけという取るに足らない行為が、彼女にとっては大きなハードルであったのだろう。そしてそれを自ら乗り越えたのだ。
そこまで考えて、琢磨はハッと気づいた。氷を踏むだけという取るに足らない行為。ひょっとしたら、それは今の自分にも当てはまるのかもしれない。琢磨が躊躇している行為も、ひょっとしたら、取るに足らない、薄氷を踏む程度の行為であるのかもしれない。
今の琢磨にとっては、気が進まない、大それた行為であっても、それは経験者からすれば、ぱしゃん、と小さな音を立てるだけの行為なのかもしれない。むしろ、その小さな音が心地よく感じる程の。琢磨は、胸のつかえが、すっと取れていくのを感じていた。
――やろう。なんてことないさ。つま先を降ろすだけの事だ。やればいいよ。自分を説得するための思考ではなく、心の底から真っすぐにそう思えた。立ち上がって顔を上げ、小林を呼び出した駅までの道すじを真っすぐと見つめる。視線の先には、きりりと引き締まった冬の空気のもと、常緑樹が鮮やかな光を放ち連なっている。まるで琢磨を導くかのように。
琢磨はポケットの中に手を突っ込むと、折りたたまれたナイフを取り出してパチンと開いた。ナイフは朝の光を反射してきらりと輝く。琢磨はひとつ頷くと、再びポケットに手を突っ込んで歩き始めた。
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木の陰に身を潜めていた少女は、その人間の後姿をそっと見送るとわずかに微笑んだ。そして踵を返すと、街のどこかへと消えて行った。
ルシフェルの爪先 吉岡梅 @uomasa
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