七月

 9回ウラ 1対0


 三回戦。一四〇球にも及ぶ投球の果てにたどり着いたスコア。

 俗にいう強豪校に対し、考えていた理想の試合運びができている。全てのボールが思い通りに行く。変化球のキレもいい。今日の僕は最高に調子が良かった。

 それでも毎回ヒットを打たれているあたりに格の違いを感じてしまう。けれど、最終的に勝てればそれでいい。

 心臓が高ぶっている。

 振り返って野手陣に声をかけた。地面からは陽炎が立ち上っている。ここを抑えれば勝ち。そんな状況から生じるプレッシャーを沈めたかった。


 バッターの名前がコールされる。打順は三番。際どいコースを攻め、最後は変化球を打たせてセカンドゴロ。一つ目のアウトを奪った。


「ワンナウト!」


 人差し指を立てて声を上げた。周りの奴も同じ言葉を繰り返す。味方側のスタンドも盛り上がっていた。

 続く四番。今日当たっているバッター。一発出れば同点。次の五番はこれまで抑え込めている事を考えればボール気味勝負して、最悪歩かせてもいい。焦って手を出して打ち取れれば儲けものだ。

 北乃とサインを交換。一球目は外に外れるスライダー。こちらの思惑と噛み合っている。続く二球三球とボール玉で勝負。

 そして、四番バッターは一球も振ることなく一塁へと駆けていく。そう簡単には勝負を決めさせてもらえないようだ。

 帽子を外して顔の汗を拭う。

 これでワンナウト、ランナー一塁。続くバッターは五番。

 理想は内野ゴロでのゲッツー。タイミングを崩して変化球を打ち損じる展開がいい。

 初球、インコースへのストレート。金属音がして白球は鋭く空中を飛ぶ。


「ファール!」


 塁審が両手を上げる。三塁線を越えて左へ切れていた。審判から次のボールを受け取ってプレートに足をかける。


 息を吐き、再びサイン交換。ストレート。コースはインハイ。それに頷いて、肩越しに一塁ランナーを見る。足を上げ、腕を振りぬく。

 渾身の真っすぐはバットの真上を通過してキャッチャーミットに吸い込まれた。審判の右手が上がる。


 これでカウントはワンボール・ツーストライク。追い込んだ。これでバッターは難しいボールを見逃せないはずだ。

 サインはボール気味に外れるスライダー。遊び球はいらない。ここで決める。


 ボールをグローブの中で持ち、握りを変えた。この暑い日差し、体力が限界に近付いているのが分かる。それでも足を上げると体は自然に覚えている動きをしてくれた。リリースの瞬間、ボールの片側をひっかく様に力を入れる。コースは外角。要求通りのボールが行っている。こちらの思い描く理想のボールだ。思わず勝利を確信する。


 だが、それをあざ笑うかのように快音が響く。


 確かに打者のタイミングは崩れていた。打ち取れると思っていた。だが、それでも芯で捉え、振りぬいている。

 ライト方向に目をやった。下がっている外野が途中で足を止めるのが見える。ボールが、フェンスを越えた所で大きくバウンドした。歓声が球場を埋め尽くしていた。


 僕の最後の夏が、終わった。


  ▼

 

 試合が終わった後でも、その事を実感することができずにいた。

 整列して、一塁スタンドに礼をしたときでも、チーム全員でのミーティングでもそうだった。後輩に向かって何を言ったのかも覚えていない。

 他の奴らが涙を流していた。


「お前のせいじゃない」


 肩を組んで、そう声をかけてくれるチームメイトたち。それをどこか客観的に眺めている自分がいる。

 温度差に嫌気がさす。そんな言葉が欲しかった訳じゃない。あと少しで届きかけた。僕がこの学校の夏を終わらせたのだ。なのに……。


 解散した後も僕はただ一人、夕日に染まる球場に留まる。

 さっきまで自分がいたマウンド。もう一度足を踏み入れる筈だった場所。もう本当の意味であの場所に足を踏み入れることができない。

 土の匂いも、熱気も、中指と人差し指にかかる縫い目の感触も、二度の勝利による興奮も覚えている。あの最後の一投でさえ、明確に脳内で再生できる。


 この大会中、この二週間は、自分がこの二年半で築き上げて来た物、その全てが凝縮されたような日々だった。

 僕は自分だけでなく、彼らの分まで失わせてしまった。そうならない様に努めて来たというのに、最悪の結果を招いてしまった。

 なら、自分の積み上げて来た物には何の意味があったというのだろうか。そんな思考の沼にはまって抜け出せないでいる。


「まだ引き上げないの? みんな、帰っちゃったよ」


 思考を中断させる声がした。夕焼けに染まる彼女がこちらに歩いてくる。


「…………勝呂」

「そっとしておくことも考えたんだけど、ごめん。やっぱり、放っておけなくて」


 隣に勝呂が断りなく座る。正直今は一人でいたかった。けれど、追い返す気力もなく、誘った手前、拒絶することも躊躇ためらわれた。それ故に彼女の存在を許容する。

 互いに沈んでいく太陽に目をやるだけの時間が流れていた。きっと、僕も彼女も何を話していいのかよく分からなくなっている。

 息苦しい空気から何かを見計らったかのように、彼女が沈黙を破った。


「ねぇ、お腹空かない?」

「言うに事欠いてそれかよ」

「いいじゃない。別に。それで、どうなの?」

「空いてるといえば、空いてるよ。試合前に食べたきりだし」

「それは良かった」


 彼女は肩にかけていたエナメルバックから一つの包みを取り出して僕に手渡した。それを解いて中身を出す。

 タッパーに敷き詰められた四切れのかつサンド。コンビニで買う物よりも不格好だった。そのうちの一つを取り出す。


「食べてよ。約束してたでしょ」

「……律儀だな。まだ覚えてたのか」

「受けた恩は必ず返せと、母から厳しく言われてまして」

「そっか。でもこれじゃ貰い過ぎだろ」

「全部あげるって言った覚えはないよ。半分、半分だけあげる」

「そうだったな」


 タッパーを差し出した。彼女も一つ手に取る。


「いただきます」

「はい。召し上がれ」


 一口。噛みしめた。噛み締め続けた。それでもうまく喉を通らなかった。呼吸も上手くできない。鼻をすすりながら、何とか一口目を飲み込む。味はよく分からなかった。

 視界が滲んで、かつサンドを握る手に力が入った。

 背中が丸まって、肩が震える。


「大丈夫?」

「……だい、じょうぶだよ。からしの塊に当たっただけ」


 自分でもかっこ悪い見栄の張り方だと思った。でも自分の姿を誤魔化す一言が欲しかった。それぐらい今の僕は精神的に追い詰められている。


「あと、ちょっとだったんだ」

「そうだね」


 誤魔化したかった感情が溢れて言葉になる。隠したかったはずなのに、それを打ち明けてしまっている。僕の行動は矛盾していた。気が付いているのに、まだ歯止めをかけられない。


「勝てる試合だったはずなんだ」

「かも、しれないね」


 話を合わせてくれた言葉。それに頷く。

あそこでもっといいボールを投げられていれば僕たちの夏は終わらなかった。それを強く自分の中に刻み付けるために心の中で反復する。

 去年、怪我をしてなければ。

 もっと練習ができていれば。

 後悔が、さらなる後悔を呼ぶ。

 でも、見せない様に歯を食いしばる。矛盾した行動をここで食い止めたかった。


「悔しいよね。……涼川君はずっと、頑張ってたから」


 彼女の手が頭に触れる。坊主頭が自分とは違う体温を的確に伝えてきた。


「練習終ってから、学校の周りを走ってた。この間の雨の日だってトレーニング室に残ってた。私、見てたから。知ってるよ」


 指折りをしながら彼女は自分の見て来たことを言ってみせる。

 今日の試合といい、勝呂には嫌な所を見られている。それがたまらなく嫌だった。


「……でも、頑張ったからって勝てる訳じゃない。正しくない努力は裏切る。負けた僕は努力をしていても、きっと正しくは無かったんだ。無駄な、努力だったんだよ」

「そうは思わないけどな」


 その価値観を彼女が否定する。


「見えないだけで、きっとどこかで努力は報われている。世の中に無駄な事なんて一つもないんだから」 


 一メートル未満の距離感。いつか見た茶色の瞳が夕日で赤みを帯びている。真っすぐ僕を見つめるそれがあまりにも綺麗で、僕は目をそらせない。

 また頭を撫でられる。ぞわぞわと自分の神経を直接触られているかのような感覚した。

 彼女がそうする度、自分が形を保てなくなる気がする。


 やめて欲しい。


 そう口にすることができない。感情的な僕が、理性的な僕を留めている。中途半端でどうしたらいいのかよく分からなかった。

 そんな僕の背中を押す様に彼女は話す。


「今日ぐらい、自分を認めてあげてよ」


 自分をせき止めていた何かが崩れた。こらえていた声が漏れる。

 勝呂の一言。それで嫌いだった欠点だらけの自分が、認めて貰えた気がしたのだ。気が緩んでいる。何も隠せていない、弱い自分を晒してしまう。

 彼女は拒むことなくただ、僕の頭を撫で続けていた。

 どれだけの時間が経ったのか分からない。ようやく高ぶった感情が収まる。彼女に貰ったポケットティッシュで鼻をかんで、じっとりと湿っていた瞼を右手で拭った。


「……ありがとう。なんか、スッキリした」

「それは良かった」

「悪いな。いろいろ、格好かっこ悪い所見せちゃって」

「そう? 格好かっこ良い所をいっぱい見たから印象薄いや」


 あっけらかんと彼女は僕の精神をかき乱す言葉を言って見せた。面喰らったけれど、ここ最近彼女にそう言う事を言われ続けたからか、すぐ精神を立て直す。


「そうやってすぐ人をからかうのどうかと思うよ」

「はぁ……まあいいや。それよりさ、私特性、手作りのかつサンドの味どう? 前々から自分で作ってたんだけど、人にあげるのは初めてでさ」

「そうだな……」


 改めてまだ自分の手に握られていたかつサンドを頬張った。

 唇に当たるふんわりとした感覚。歯がキャベツの層を越え、ザクザクと音を立てながら衣を裂いた。整列していたそれらが口の中でばらけてソース味に纏められる。

 市販品とはひと味違うそれは、空腹の僕に大きな満足感を与えてくれた。


「旨いよ。すげー旨い」


 僕はそう呟く。彼女は安心したみたいに微笑んだ。

 夏が終わる。いつか僕はこの時食べたかつサンドの味を忘れてしまうのだろう。

 でもまた、セミが鳴いて、高校野球の速報が流れ始めたら、夕焼けに染まるスタンドで、彼女と並んで食べたかつサンドを思い出すんだろうなと、なんとなく思った。


『かつサンド、半分あげる。』 完

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かつサンド、半分あげる。 イーベル @i-beru-54

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