六月

 6月18日


 今日は久々に雨が降った。室内での練習がいつもより早く切り上げられた。

 今年は俗にいう空梅雨というやつで、例年に比べて雨が少なかった。世間一般的には野菜が値上がりしそうだとか、ダムが干上がるだとか、そういったネガティブなことがニュースで述べられていたけれど、高校球児的には喜ばしい。外で練習できる時間が長い方が実戦経験をより多く詰めるからだ。だから余計に水を差すような雨が鬱陶しくてたまらなかった。

 自分が停滞している時間。

 こうしている間にも自分が何者かに突き放されている気がしてしまう。

 それを少しでも誤魔化したくて、帰る前にグローブとタオルを持ってトレーニング室へ行った。そこで僕は鏡の前に立ち、自分の投球フォームを一つずつ確かめるように身体を動かしていく。

 身体を誘導する左手のグローブの動き。

 左足が踏み込まれた勢いを利用して捻られる胴体。

 利き手が振り下ろされ、握っていたタオルがその動きを追従して音を鳴らした。

 その全てを研ぎ澄ました目と耳で感じて、今日の自分が今まで通りの自分であることを確認した。その度に不安に駆られる気持ちが少しずつ収まっていく。

 気が済むまでそれを繰り返して、湿った空気をめいいっぱい吸って、吐いた。


「もう入ってもいい?」


 タイミングを見計らっていたかのような台詞が後ろから聞こえて振り返る。ここ最近聞き慣れた声。その持ち主が予想通りであったことが分かった。

 長袖長ズボンのジャージを着た彼女は赤色のメディシンボールを持っている。足元にも何個か転がっていた。きっと部活で使った物を片付けに来たのだろう。


「許可を取る必要なんてないよ。ここは共有スペースで、生徒であれば誰だって入れるんだから」

「集中しているみたいだったし、邪魔をしたくなかったの。私の気遣いを察してよ」

「察してって自分で言っちゃう辺り勝呂らしいな」


 頬を伝う汗をタオルで拭って、風呂上がりの時みたいに首にかけた。


「待たせちゃったみたいだし、片付け手伝うよ。元の場所に戻せばいいんだろ?」

「そうそう。でも良いの?」

「いいよ。僕もそろそろ帰る所だったし。まあ、僕の気遣いを黙って受け取っておいてよ」

「ん、ありがと」


 部屋の隅に置いてある専用のラックに並べていく。ボーリング場みたいにボールが並んでいるのを見て、そういえば久しくやっていないな、なんて思った。


「勝呂はこの後バイト?」

「バイトだったらこの時間まで残ってないよ。今日はフリーだったからもっと練習できると思ってたんだけどね」

「ま、こんな雨じゃね」

「そうそう。よりによって今日に限って降らなくてもいいのに」


 まったく、と不満げに息を吐いた。彼女が僕と似たような気持ちであったことが意外だった。この前、コンビニで会ったときはサボると公言していたというのに。部活にやる気が無かった訳ではないらしい。


「ね、良かったら一緒に帰らない?」

「僕は良いけど、ちょっと待たせるよ。まだユニフォームのまんまだし」


 自分が着ているアンダーシャツの首元をパタパタと動かす。雨に打たれていないはずなのにぐっしょりと濡れているのが気持ち悪かった。


「こんな時間だし、それぐらいは変わらないって」

「なら良いけど」

「じゃあ決まりだね。着替え終わったら下駄箱の前に来て。そこで待ってるからさ」


 彼女が手を振りながらこの場を去った。

 部室で身支度を終えて、今更ながら汗臭くないかなとか考えつつ、僕は彼女の待つ下駄箱に足を運ぶ。

 外側から入ると、壁に寄りかかる彼女が目に移る。早速声をかけようと思ったのだけれど、僕はそれを止めた。もう一人彼女のそばにいることに気が付いたからだ。

 ポニーテールですっきりとまとめられた髪。小麦色の肌。それらから勝呂と同様に運動部であることが察せられた。どうしようか迷っていると、そいつと目が合った。


「ほら、彼氏来たよ」

「ん? ああ、待ってたよ。涼川君」

「順応するな。彼氏じゃねぇよ」


 軽く勝呂の脳天をチョップすると、わざとらしく痛がって見せる。


「止めてよ、頭蓋骨陥没しちゃうじゃん」

「僕にそんな殺傷能力は秘められていない。大げさなんだよ」

「涼川君ノリわる~い。そんなんじゃこれから困るよ~」

「今までも困ってないからこれからも困んないよ」


 たぶん。根拠のなく断言する。


「真面目な話、二人はホントに付き合ってないの?」


 ポニテガールが問いかける。僕たちは互いに目を合わせた。


 僕と勝呂は最近よく話す。休み時間や放課後に会えばスルーすることはない。でも、それで付き合っているかと言われると、答えはNoである。

 そんなことで交際判定されては勝呂もたまったものではないだろう。


「んなこと――」

「あるんです!」

「ないよ!」


 僕の気遣いを蹴り飛ばす様に彼女が答える。お前は楽〇カードマンかよ。


「ハハハハ、面白いなぁ~。息ぴったしじゃん。私が邪魔するのもあれだし、先帰るね」

「ん。また明日ね~」

「いや納得したみたいに去らないで――うぐっ」


 無防備だった脇腹に突きが直撃し、電波が乱れたラジオみたいに声が飛ぶ。その間にポニテガールは少し離れた所にいた。


「何すんだよ。このままじゃ変な誤解をだな……」

「涼川君は私とそういう風に誤解されるのが嫌なの?」

「いや、それは……」


 彼女とそうなったときのことを考える。

 嫌ではない。彼女のような活発で、周囲に笑顔を振りまくようなタイプは好ましくある。理想と言ってしまっても――……理想と言ってしまってもいい!? 待て待て待て。今までそんな風に勝呂を見た事なんてなかっただろ。落ち着けよ。台詞に浮かれるな。


「フフッ、面白い顔をするね。照れるとそんな感じなんだ」


 勝呂はじろじろとまだ安定していない表情をしている僕を覗き込む。それが嫌で、顔をそらした。


「ったく、止めてくれよ。僕だって自分のそんな顔を見た事無いのに」

「見たかったの? 聞いていれば写真でも撮っておいたのに」

「ああ、いや。別に見たかったわけじゃないんだ。ただ、そんな表情を引き出す勝呂の目的がよく分からなかっただけだ」

「知りたいの?」

「知らないままでいるより、知っていたいよ」


 偽らざる本心だった。理由のない物は怖い。只より高い物はないというように、理由のない好意や悪意には警戒心を抱いてしまう。

 彼女の行動には悪意は含まれていないようだけれど、それを無条件で受け入れることができない。結局のところ僕はどうしようもなく怖がりなのだ。

 自分の言葉が空気を振るわせて、それから少し間が開いて、再び雨音だけが鼓膜に届くようになる。表情のコントロールが戻って来たのを感じて、再び彼女を見た。目が合う。


「好きなの」


 短く告げた。はっきりとした声だった。雨音の波紋にかき消されることは無かった。

 それ故に強く自分の心を乱される。自分の脳を直接つかまれて、揺らされているみたいだった。僕は口をパクパクと動かして、言葉にならない声を出してる。

 それを見かねたのか、彼女は助け舟を出した。


「正確に言えば、走ってる涼川君が好きなの」


 彼女はそう言って訂正する。それを受けて僕は深く、本当に深く長々とため息を付いた。

期待をしていた訳じゃない。でもさ、もっと言い方ってものがあるだろ。


「やっぱりいい顔するね。教室でもそれぐらい表情見せればいいのに」

「確信犯かよ。年頃の男を弄ぶな」

「ゴメンって」


 手を合わせる勝呂をわざとスルーして傘をさして下駄箱を後にした。後ろから彼女の足跡が聞こえる。彼女の藍色の傘が僕のビニール傘越しに見えた。


「拗ねないでよ。かつサンド奢ってあげるから」

「それはまた今度の約束だろ。勝呂と違って一つも二つも僕はかつサンドを食べない」

「私だって一食に食べるのは一つだよ。じゃ、グレードアップしよ。購買のかつサンドから私の手作りかつサンド。現役JK手作りかつサンドとか、もはやブランドじゃない?」

「なんか、如何いかがわしいブランドだな……」


 仕事に疲れたサラリーマンの最後の癒し感ある。地獄かよ。


「でも、涼川君が走ってるところが好きだって言うのは、かつに誓って本当」

「そこでもかつなのか……。でも、どうせなら投げている所が良かったな。俺、ピッチャーだし」

「ハハハ、だろうね。でも私、投げてるところのスゴさがよく分かんないからさ」


 そうに違いない。僕は分かりやすく160km/hの速球を投げられる訳でもないし、プロに注目を浴びるほど勝っている訳ではない。

 でも、それは走る方だって同じはずなんだけどな。


「なんで僕が走ってるところが好きなの?」

「綺麗なんだよね。足の動きも、幅も、腕の振り方も私の考える理想なの。あ、あと面構えも好き」

「面構えは走るのに関係ないだろ」

「あるよ。自信に満ち溢れている顔してる奴がレースで勝つんだから」


 それは状況によって変わって来るんじゃないかとか思ったけれど、専門の彼女が言うんだからそうなのかもしれない。


「野球じゃなくて長距離走をやってたら、いい結果出したと思うよ」

「そこは長距離走でもって言ってくれよ」

「おっと、口が滑った」

「…………」


 まあ、野球でいまいちなのは事実だけどさ。


「涼川君さ、今からでも陸上やったりしない?」

「今更やったってしょうがないだろ。それに、野球が好きなんだからしゃーないよ」

「そっか、残念。振られちゃった」

「そういう弄り方をするの、いい加減にしろよ」


 もう流石に慣れて来たし、ちょっとムカつく。


「ごめん。ちょっと面白くなっちゃったからつい、ね」

「どこがどう面白んだか、僕にはさっぱり理解できないよ」


 僕がそう言うと彼女は「んー」と考えるようにうめく。いや別に説明しろとは言ってないんだけど。


「そういう面白さって、共有できないものだろ。僕が野球から感じている楽しさを勝呂は知る事ができないように、僕は勝呂が感じている面白さを理解することができない」

「でも、知ってもらえたら嬉しいでしょ」

「それは、そうだろうけど……人間はそんな簡単にできていないよ」


 人間は意思の疎通に適していない。言葉一つでさえまともに正確な意味合いで伝わっているかどうか怪しいのだ。今の言葉だって、例外じゃない。

 でも、彼女は僕の言葉を噛み締めるように聞いていた。雨音が僕たちの隙間を埋めている。点滅する信号の前で彼女は足を止めて、僕もそれに習った。

 横並びの彼女と目が合う。


「……そうだね。気持ちを伝えるのって簡単じゃない。でも、簡単じゃないからやるの。完全に理解することはできなくても、心の距離を詰めることはできるでしょ」


 心の距離。それが縮まる事が何を意味するのか、僕には中途半端にしか理解できなかった。

 でも、彼女の声色が、真剣な表情が、その言葉の重みを伝えてくる。きっと、彼女にとっては支えになるような大切な言葉なのだ。そう、かってに思う。

 だから、それを踏みにじるような真似をすることはできなかった。


「ああ。そうだと、いいな」

「うん。そうなるよ。続けていれば、きっと」


 彼女は笑いかける。自分の周りの世界はそうなって来た。これから僕の周りもそうなっていく。そう信じているかのようだった。

 知っていないのは怖い。知られるのはもっと怖い。だから僕は人に歩み寄らない。それが一番の安全策だと知っているからだ。

 心の距離を縮める行為をしてこなかった僕は、傷つかない無敵の人間でいられた。

 でもそのままでいいのか。そんな疑問が頭の中に浮かぶ。彼女にとって重要なことが自分にとって重要でないとは限らない。逆もまた然りだけれど、一度試してみよう、なんて考えるほどに彼女は僕の信頼を勝ち得ていた。

 信号が青になる。彼女が先に歩き出す。「あのさ」と声をかける。彼女が振り返った。


「何?」

「良かったら、試合、見に来てくれないかな」

「どうしたの急に」

「いや、少し実験をしようと思って」

「試合を見ることがどんな結果に繋がるの?」

「残念ながら分からない。分からないから実験するんだ」

「だろうね。でも、涼川君は私の事を絶対に誘わないと思ってた」

「僕のイメージに合わないのは認めるよ。誘ったのは勝呂が初めてだ」

「へぇ、それは光栄だね。いいよ。涼川君のはじめて、私が貰ってあげる」


 ちょっと官能的に言うな。わざとなのかそうじゃないのか分かんねぇから注意できないっての。信号を渡り終えて彼女は再び口を開く。


「で、日程は?」

「ああ、ちょっと待って」


 僕はポケットのスマホに保存してあった大会スケジュールを表示して、彼女に見せる。彼女はしばらく眺めた。


「んー。三回戦からなら行けるかな」

「三回戦? どうして」

「私も大会なの。日程が被っちゃったからしょうがないでしょ」

「それは、まあそうだけど……」


 自分のことを優先するのが当然だ。こればっかりはしょうがない。


「なに? 残念そうな声を出して。三回戦ってそんなに高いハードル?」

「それなりに。二回勝たなきゃいけないし」

「じゃあ、頑張らないと。頑張って、涼川君。私を三回戦に連れて行ってー! なんてね」


 前を歩く彼女は笑う。その台詞はなんか締まらないなと思いつつ僕もそれを追う。負けられない理由が一つ増えて、晴れの日がより待ち遠しくなった。

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